第8話 ご令嬢、来襲

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第8話 ご令嬢、来襲

 役人の詰め所はメンフィスの街の北区にあり、併設された独身者のための宿舎は、必要最低限の下宿として作られている。  部屋は狭いし、食堂で出される食事もそれほど豪華ではない。  ただ、賃料が安いので、結婚のための貯蓄を考えている若者たちにとっては魅力的だし、職場がすぐ隣なので、通勤はとても楽だ。チェティも、実家から通うよりは気楽で気に入っている。  ただ一つの問題は、独身男性ばかりの場所なので、家族が面会に来づらい、ということなのだが…。  「わああーっ?!」 朝、仕事に出かけようとしていた時、宿舎の入り口から誰かの悲鳴のようなものが聞こえてきた。  「いいから、早く案内して下さい!」  「あのっ、こ、困るんですけど! ここ、男性寮なんでっ…」 若い女性の声だ。切羽詰まって居るようにも聞こえる。  (何だろう。面会…?) 様子を見に行くと、表通りから繋がる門に一番近い棟の前で、身なりの良い女性と若い役人たちが、押し問答をしていた。  女性の方は、格好からしておそらく貴族だった。着飾っている上に、後ろに召使いを引き連れて、どう見てもこんな場所にやって来るたぐいの人物には見えない。  お節介と好奇心から、チェティは、言い争いの場に近づいていった。  「どうかされましたか」  「あっ、チェティ! 丁度良かった。この人、あんたんとこのヘンレクに会いに来たって…」  「ヘンレクに?」 やりとりを聞いて、女性は、きっとした目をチェティほうに向けた。  黒い濃い縁取りをした目、細かな編み込みの作られた香油の香りのする髪。汚れのない白い服と、色鮮やかな帯。腕には、金細工の飾りを付けている。たわわな肢体を惜しげもなく薄い服の裾から晒し、どこか艶めかしさも漂う。  年はそこそこのようだが、格好からして未婚女性か。確かに、この独身者の多い寮をねぐらにしている若い役人たちには、刺激が強すぎる。  「ヘンレクは私の部下ですが、熱を出して臥せっていますよ。ご家族の方ですか?」  「あなたが、上司?」 女性は、驚いた顔でチェティをじろじろと眺める。  「優秀な方の下についた、と聞いていたのだけれど…ずいぶんと、お若いのね。」  「ここでは、年は関係ありません。必要とされるのは仕事ぶりだけです。それで? お見舞いだとしても、いささか人が多すぎますね。この寮は貴人のおもてなしをできるほど広くはないので、申し訳ありませんが、お引取りいただきたい」 チェティは丁寧な口調でやんわりと告げた。この女性が何者であれ、通すわけにもいかないのだ。  「あたしは、ヘンレク様の許嫁なのです」 女性は、胸を張って宣言しながら、チェティを睨みつけた。  「それなのに、会いに行けないとはどういうことです?!」  「相手は病人ですよ。具合が悪くて寝込んでいるところに、そんな大人数で押しかけて、良い影響があると思いますか」 チェティの方も負けてはいない。  「狭い宿舎に大人数で入り込むのは非常識です。医者には見せています。もしご心配なら、まずは誰か人を寄越して本人の意志を確かめてください。本人が承諾して、実家で看病するために連れ戻されるというのでしたら、私も止めはしませんよ」  「ううっ…。」 女性は、頬を膨らせませて言い淀んでいる。  その様子からして、彼女は独断で動いているのだとチェティは思った。ヘンレクの実家や、両親に言われてここへ来たわけではないらしい。  「よろしいですね? 役所の業務の邪魔はなさらぬように。ヘンレクのためにもなりませんから。では」 チェティは、不服そうな顔の女性に形だけは丁寧なお辞儀をして、さっさと自分の仕事に向かった。  それにしても、あのヘンレクに許嫁がいたとは驚きだった。  見た所、かなり地位の高そうな娘だったし、もしかしたらヘンレクも、いわゆる「お坊ちゃん」のような家柄の出なのかもしれなかった。  そんな騒動のあと、チェティは、大神殿でネフェルカプタハと落ち合って、北の耕作地へと向かった。  目的地は、壺が掘り出された畑だ。  「ふうん、確かに、この辺りは一度も墓に使われたことがないはずの場所だなあ」 歩きながら、ネフェルカプタハが言う。  メンフィス周辺の墓地は全て、大神殿が管理している。古来からずっとそうなのだ。大神殿の把握していないところに、正規の墓が作られたことがあるはずはない。  「だよね。緑地の縁ではあるけど、まだ沙漠じゃないし」 水路は畑まで届き、引き込まれた水から、川が運んだ細かな黒い色の砂を沈殿させている。河神ハピの恵みの届く範囲は、”死”ではなく”生”の領域だ。  この数日で、種蒔きの終わった畑は少しずつ増えてきている。種蒔きが終われば、あとは、ただ待つだけなのだ。そして、これから水が引くに連れ、川に近い場所に向けて、畑の鋤起こしも進んでいくはずだった。  「この場所だよ」 前日に灰色の壺を掘り出した地点まで来て、チェティは、足を止めた。  「で、最初に黒い壺を見つけたところが、運河に近い、そっちの土手の下」  「ふーん。木箱のほうが川に近い場所にあったのか。てことは、壺一つだけ水に流された、ってわけでもなさそうだな。何で、別々の場所にあったんだ?」  「分からない。最後に見つけた一つは、灰色の壺の欠片と一緒にでてきたんだけど、ここは地面が硬いから、元は小屋か何かあったんじゃないかって思ってる。だけど、石工の工房とかじゃないね。こんなところに工房があった記録は無いし」  「小屋、ってんなら、墓泥棒の小屋だったりしないだろうな」  「それは…否定出来ないけどね」 だとしても、やたらと古い壺ばかりが出てくる理由がわからない。  墓荒らしをするのなら、普通は、を狙うものなのだ。  受け入れがたい事実だが、墓というものは、しばしば盗掘を受ける。つまり、古い墓ほど、既に盗掘を受けている可能性が高い。  ことに、数百年前に起きた大きな政変の時代には、この近辺でも多くの墓が荒らされた。  その頃に奪われた品が放棄されていたのなら、まだ、分からなくもないのだが、あの木箱の雰囲気からして、数百年も埋まっていたようには見えなかった。  「昨日持ち込んだもの、出処の見当は、まだ付かないのか?」  「ああ。軽く調べてみたんだが、あの謎の印の意味がどーしても分かんなくてさ。手がかりになると思うんだが…。」  「そっか。じゃあ、この土地を前に使ってた耕作人のほうから探るしかないかもね。失踪した記録はあるんだし、もし家族が生きていれば、役所に何が届けを出してるかもしれない」  「おっ。んじゃ、そっちはお前に任せるとしようかな。さて…」 ネフェルカプタハは、ちらと周囲に視線を向けた。  神官の白い法衣は、良く目立つ。それが役人と並んで畑の縁に立っているのだから、耕作人たちの視線も集めようというものだ。  軽く咳払いして、彼は、勿体ぶった口調で隣のチェティに話しかけた。  「それでは、こちらの土地を清め豊穣を祈願する祈祷を始めてもよろしいですかな」 どうやら、土地を清めに来た神官、という、当初の役割を果たすつもりらしい。  「よろしくお願いします」 チェティのほうも、吹き出しそうになるのを堪えながら真顔で頷いた。  これで、土地が呪われているのではないかと心配していた農夫も、少しは安心するだろう。  ネフェルカプタハが畑を周ってプタハ神の祝福を与えている間、チェティは、自分の本来の仕事をこなしながら、古くからこの辺りで耕作している人たちを尋ね歩いた。  「この奥の運河沿いの耕作地で、十年以上前に行方不明になった人がいるはずなんですが、ご存知ありませんか」  「十年? うちは七、八年前に移住してきたから、分からんねえ」  「その頃から住んでいた人を、誰かご存知ありませんか」  「ここらは元々、小さな村しかなくってね。…ああ、あっちのもうちょっと川に近いあたりを耕してる人たちなら分かるかも。うちより前から住んでたし」 ほとんどの住民は、昔のことをあまり知らないようだった。  手がかりが掴めたのは、自分の担当範囲のいちばん端まで来た時だ。  「奥の、放棄されていた耕作地について、知っていそうな人はいませんか」  「ん? チャロイんとこかい」  「知ってるんですか!」 ようやく、それらしい手がかりを見つけた――。ほっとして、チェティは、答えてくれた老人にさらに尋ねた。  「その人は、どういう経緯で失踪したんでしょう。ご家族はいましたか?」  「…何で、そんなことを聞くんだい」  「それは――えっと、畑から出てきた護符について、聞きたいからですよ。もしかしたら、前の住民に関係しているかもしれないので」 相手に警戒されているのを察したチェティは、とっさに無難な答えを返した。  内臓壺のことまで言えば、何か捜査でもしているのかと怪しまれるだろうが、護符なら、うっかり作業中に落として埋もれることは在り得る。  「護符、か。うーん、あそこのかみさんは信心深い人だったし、女物なら、チャロイのかみさんのかもしれん」  「ご結婚されていたんですね。その人はいま、どちらに?」  「チャロイが失踪して、二年くらいして死んじまったよ。娘はまだ小さかったから、養子に出された。今は川沿いの村で結婚しとるな」  「名前を教えてもらえますか。話を聞けるとありがたいんですが」  「ヘパトだよ。最近子供が生まれてな、旦那と一緒に、そこの村に暮らしとる」  「ありがとうございます。」 それだけ聞ければ十分だ。  チェティは、大急ぎでネフェルカプタハのところへ戻った。  驚いたことに、ネフェルカプタハは、いつの間にか、人に取り囲まれて神妙な顔で説法をしていた。  「――であるから、冥界神プタハを崇めることは、先祖崇拝のみにとどまらず、生きる上でも――…っと、チェティ。そっちの仕事は、終わったのか?」  「一応、一区切りだね。神官の仕事があるなら、まだ続けてもらってていいよ」  「いやあ、もうそろそろ喋り疲れてきたところなんだ」 一瞬表情を崩したあと、彼はすぐさまそれを元に戻し、勿体ぶった咳払いで言葉を締めた。  「それでは、皆。また大神殿で会う時まで信仰に努め、息災に過ごされるよう。プタハ様はいつでも冥界の闇より見守って下さっておるぞ。」  (…うーん、堂々としてるんだけど、やっぱりちょっと似合わない) 澄まし顔で説法を終え、人の群れから離れると、ネフェルカプタハはいつもの気の抜けた顔に戻っていた。  「はー疲れた疲れた。三日分は働いたな。これでしばらく、親父に文句言われずに済むだろ」  「どうしたの、急に説法なんて始めて」  「いやあ、移民にもプタハ神の教義を説いて信徒にしてこいっつって、親父に言われたんだよ。定住しても、神殿に参拝に来てくれなきゃ意味ねぇだろ? 信徒になるまでは、もと住んでた地域の神様を拝んでるんだしさ」  「ああ…。確かにね」 この国では、神と土地の結び付きが強く、地域によって守護神が異なる。  出産の女神や農耕神、大河の神ならどこでも信仰はされるが、冥界神プタハは、このメンフィス周辺が主な信仰地域だ。古くから信仰された創造神で、地下から齎される恵みを司る豊穣神の側面もあるものの、他の地域の農民たちには、あまり教義が知られていない。  「まあ、そんな話はいいんだよ。何か分かったんだな?」  「うん。行方不明になった前の耕作人に娘さんがいたことがわかった。話を聞けるかもしれない」 もはや、役人としての仕事のほうは、忘れ去られているようだった。ネフェルカプタハは、チェティの提げている巻物だらけのかばんを見やって、少し心配な顔になっていた。  「おい、本業のほう大丈夫なのか? 俺はともかく、お前がサボりで首になっちゃ、寝覚めが悪いんだが」  「え? 予定分はもう、終わったよ」  「…終わった?」  「いま水が引いているところまでは、確認終わり。あとは来週くらいかな、もう少し水が引いてからにするよ」  「……。」  「どうかした?」  「いいや。なんでも無い」 ネフェルカプタハは、呆れたように肩をすくめた。  いつもながら、時々、平然と驚くような仕事ぶりを発揮するのだ。他の役人たちなら、毎日悲鳴を上げながら農地を歩き回って、なんとか期日ギリギリに予定の仕事を終わらせているはずなのに。  (こいつ本当、普通の役人の仕事なんて楽勝なんだなぁ…) 今更だが、チェティに通常業務以外の任務を与えた執政官は、慧眼だったのだと思った。  彼にとっては、決められた手順で行う作業など、片手間にしかならないのだから。
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