第1話 農耕の季節

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第1話 農耕の季節

 増水季(アヘト)も終盤に差し掛かり、暑さが和らぐとともに、ナイル(イテルウ)の水位は少しずつ下がり始めていた。  この季節は、いよいよ新しい年の農業始めだ。麦の種蒔きの準備をするため、水が引いたところから、農民たちは畑に出て鋤起こしを始め、税収役人たちは今年の作付面積を計算し始める。  農作物の税収を管理する部署に属するチェティにとっても、一年で最も忙しい季節だった。  作付面積は、灌漑出来た面積――つまり、川からどの辺りまで水を入れられたかによって毎年、変わる。  川の水位が低すぎれば水が足りず、種を撒くことの出来る畑は川べりに限られる。一方で、十分に増水があれば、水路を使って奥の方のは畑まで水を入れることが出来る。ただし水位が高くなりすぎれば、川べりの村落や畑が流されたり、水路が水没して機能しなくなったりしてしまう。  幸いにして、今年は多すぎもせず少なすぎもせず、十分な川の増水に恵まれていた。この分なら、奥のほうの畑まで作付けが見込め、税収は期待できるだろう。  新しい住人が増えた今年は、労働力も十分にある。  王権の揺らぐ不穏な事件があったばかりだったが、政治も、将来のことも、一介の州役人ごときにどうにか出来る話ではない。それに、季節は待っていてくれない。播種に適した時期は短いのだ。  今は目の前の成すべき仕事をこなそう、と、チェティは決めていた。  ここは、大河に面した砂漠の国。  国の中心を流れる、ナイル(イテルウ)の水が、赤い土地の真ん中に黒い恵みの土を積み上げ、人が畑を作ることを可能にする。毎年の増水は神々からの恵みであり、耕作の始まりまでに水が引くことは、まさに奇跡の所業であった。  普段は州都メンフィスの北にある詰め所に勤務している役人仲間たちも、この時ばかりは街でのんびり座っているわけにもいかない。数人ごとにまとまって州じゅうの村や街に「出張」し、それぞれの地域で、作付け面積と耕作地の境界を実地確認する仕事が待っている。  運河を作り直して畑の境界が変わったり、新しく畑が開墾されていたりすれば、それを記録して役所の登記を修正する。それと、耕作地は境界石で区切られて、家族単位で担当が割り当てられている。境界石が動いていれば正しい位置を割り出して修正する必要があるし、家族の数が変動していれば耕作地の割当を変更したり、取り立てる予定の税を計算し直したりしなくてはならない。  徴税の対象となる農作物は、大麦と小麦。それに亜麻と一部の野菜だ。それらの、今年の作付け面積と税収予測を計算する。  それが、州役人の大事な仕事なのだった。  チェティの今年の担当は、メンフィスの街からそう遠くない北の――街から見て川の下流に当たる、広い氾濫原のあたりに広がる耕作地だ。  彼は筆記用具を抱え、部下のヘンレクとともにその辺りを訪れていた。  部下とはいうものの、年はヘンレクのほうが上だ。それに、背も高い。ただし華奢な体つきのせいで、縦にひょろ長い、という印象だ。ゆらゆら前後に揺れながら歩くさまは、まるで、細いヤシの木が動いているようにも見える。  「はあ…。はあ…。けっこう、歩くんですねえ。」 ヘンレクは、特に大きな荷物を持っているわけでもないのに既に息切れしている。体が前後にふらふら揺れているのは、そのせいなのだ。  「小舟を使えば良かったんじゃないか。明日は借りてくる?」  「い、いや、そんな…。チェティさんが徒歩なのに、私がそんな、そんな偉そうなことは。うっ…あっ」 履物を小石に取られ、彼は、ばたりと地面に顔から突っ込んだ。  「…大丈夫か?」  「う、うう」  (この分だと、一人でやったほうが早く終わりそうだな…。) 体力の無さは、座り仕事の多い書記の抱える宿命のようなものだが、さすがにこれでは虚弱すぎる。徒歩で外出するだけで目を回しているようでは、本番というべき徴税の季節には耐えられそうにない。  「そこの木陰で、休んでていいよ。私は仕事に取り掛かっているから」 ヘンレクを体よく引き離しておいてから、チェティは、持ってきた去年の土地台帳をかばんの中から取り出して広げた。  耕作地は、川に沿って運河と水路の張り巡らされた一定の範囲に広がっており、そこから先は不毛な赤茶けた沙漠になっている。  この国では通常、雨というものは年に一度か二度、ほんの少し地面を濡らすほどしか降らない。だから、川の恵みの届く範囲にしか緑は無い。  川の水位の高い今の季節に畑に水を入れて十分に染み込ませ、それを植物が吸い上げて育つのだ。足りなくなれば、人が川辺から水を汲んで運ぶ必要がある。だから農耕が楽なのは川の本流から近い畑なのだが、早くから水が引いて種を蒔けるのは、川から遠い辺りだ。  水の引き始めである今の季節に最初に種が撒かれるのは、乾燥に強く成長の少し早い大麦。そのあと、半月くらい後には小麦の種蒔きが始まる。  その年の税収は、発芽の状況で決まる。間違った土地に種を撒いてしまったら大問題だし、それまでに、土地の測量は全て終わらせておかなくては。  ――と、その時、どこかから女の金切り声が響いてきた。  「嘘おっしゃい! あんた、うちの石を動かしたじゃないの」  「何おう。動かしたのは、お前のほうじゃないか。」  (…ああ、いつものが始まったな) 牛を連れた農夫と、隣の畑にいた女とが言い争いをしている。チェティは筆記用具を手にしたまま、足早にそちらに向かって近づいていく。  この時期には、よくある争い事だ。よくありすぎて、一度も出くわさないと心配になるくらいの。  「待って下さい。畑の境界石の位置についての争いですよね?」  「ああ、お役人さん。ちょうど良かった、そうなんだよ。このろくでなしが、うちの畑を一畝ぶん余計に取っていっちまったんだよ」  「嘘つくんじゃねえ。この石は前からここだった。言いがかりつけられても困るねえ」  「なんだって?!」  「ああ、言い合うのは止めて下さい。記録があるんですから」 言いながら、チェティは手元にあった巻物を伸ばす。  (さて、と。どちらの言い分が正しいかな…) 土地境界の揉め事は、水が引いた後には良くあることだ。ことに、いま目の前にあるような、境界石と呼ばれる文字を刻んだ石だけで境目が決められているような、区画の小分けにされた畑では。  意図的に隣の畑を侵食しようとする者もいれば、牛がうっかり蹴飛ばしたとか、川の増水で地面が抉れたとか、そんな理由でも石の位置がずれることはある。悪くすれば、いざ種蒔きを始めようとしたら、石が行方不明になっていた、なんてことも、しばしばだ。  だからこそ、チェティたちのような税収担当の州役人の出番がある。  元々割り当てられていた土地の大きさを読み解き、その計算方法を知っていることが、この仕事を務める上で必要最低限の能力だった。  (片方の畑は五セチャトの面積。角度四パームの三角形をした土地) チェティは、手元の記録と目の前の土地とを素早く見比べる。  (もう片方は四と二分の一。長方形を割った三角形の面積から少し少ない。) ゆっくりと、畑の縁を歩き出す。一歩、二歩…。一歩あたりの長さは、だいたい腕尺(メフ)と同じくらいに調整している。一定の歩幅で歩く癖も、この仕事を何年もやっていれば身につく技術だ。  その様子を、言い争っていた二人は怪訝そうに見つめている。  「よし」 端まで歩き終えた彼は、くるりと振り返って農夫たちを見やった。そして、端から歩数を数えて、女の主張していた地点の手前で、ぴたりと止まる。  「石の正しい位置は、ここですね。で、ここから手前は別の人の土地です。」  「は?! 待っておくれよ。それじゃ、うちの土地が減っちまう」  「そうだぞ、何でそこなんだ。うちの分まで減っちまうじゃねえか。それに去年は、石はここに――あっ」 女が、農夫をにらみつける。  「あんた、今年になって石を動かしたことを告白したわね?!」  「ちっ…。」  「つまり、去年から場所がズレていたんですよ」 と、チェティは、男性のほうに向かっていう。  「あなたの畑は、この三角形の部分と、向こうに見えてるヤシの木の根本の畝のあたりまでです。そう、あの地中途半端な四角いところも入っているんですよ。だから、減りません」 それから、女の方に向き直る。  「で、あなたのほうは、土地が三角形をしているので、そっちの尖った先のほうまで使って下さい。」  「水路が崩れちまって、種が撒けないじゃないかい」  「水路を直すしか無いですね。崩れた土を取り除いて。お隣の方に、牛を借りてはいかがですか?」 チェティは、ちらと男の方を見やる。  「こちらの女性の畑の方が水路には近いですし、水撒きが必要になったら、あの水路に面したあたりに汲みにいくしかないでしょう? お互い損はしないと思いますけど」  「…ちっ」 男は舌打ちしながらも、それ以上の抵抗は見せなかった。  「割当の農地は、はっきりしましたね。石は正しい場所に戻しておきます。では、私はこれで。」 簡単な諍いで良かったな、と思いながら、チェティは、さっさとその場を離れて行った。  農地の測量中は、こんな仕事ばかりだ。争いごとの仲裁も多い。その場で解決できないと法廷に訴えが上がって来て、書類手続きで仕事が増えるから、なるべくその場で素早く解決したほうが後が楽なのだ。  もちろん、一瞬で農地の面積を計算できるような数学の得意な役人ばかりというわけではない。計算の苦手なヘンレクがこの場にいたら、きっと、何も結論が出せずに半泣きになりながら問題を持ち帰って来るのだろう。  (ええと、次は…。) 去年の記録を元に、農地を回って、面積が変わっていないこと、担当する耕作人が居ることを確認していく。  まだ数は少ないが、最近になって下流の州から移住して来た人たちが新たに割り当てられた農作地もあれば、去年まで働き手が足りなかった土地で、養子縁組によって成人が増えたところもある。  全ての土地に問題なく耕作人が割り当てられ、効率的に種が蒔かれ、見渡す限りの畑が全て緑になっていることが、最も好ましい状態なのだった。  チェティたち州役人の仕事は、これから一ヶ月ほど続く。  川の水が引いて種蒔きの出来る場所が増えるにつれて、計測できる土地も増えていくからだ。そうして担当する地域の畑を全て確認し終える頃には、季節は播種季に差し掛かり、一番最初に種の蒔かれた畑のあたりでは、既に芽生えの時を迎えているだろう。  「チェティさん、すいません…お仕事、任せてしまって…」 振り返るとヘンレクが、ふらふらしながら歩いているところだった。  「大丈夫か? 無理しなくても、この辺はあらかた終わったけど」  「う、ううっ…。すいません…。せ、せめて一巻き分は、やりますから!」 のっぽの青年は、やる気を見せようとチェティの抱えていた巻物の一つを受け取った。  そうして、気合を入れて歩みだそうとした一歩目で、いきなり、土手を踏み外した。  「うわぁーっ」  「あっ、ちょ…」 チェティは、慌てて空中に放り出された巻物を受け止める。  (良かった…) 巧く受け止められたことに、ほっとする。危うく、書類が泥まみれになって全部書き直しする仕事が増えるところだった。  足元を見やると、派手に転んだヘンレクは、まだ冠水している畑の端で片足を泥に突っ込んだまま、不格好に両手を振り回していた。白い書記のたすきも、役人の正装であるたっぷりした腰布も、黒い水にまだらに染まっている。  騒ぎに気づいた子どもたちが、指を指してきゃっきゃと笑いながら駆け寄って来るし、女性たちも遠くからこちらを見て笑っている。  「ああーっ、なんでこんなところに穴があるんだーっ!」 青年は、喚きながら泥の中から片足を引っ張り出す。履物が脱げて、膝まで泥まみれだ。  チェティは、苦笑いするしかない。畑仕事をしている人々にとってはいい娯楽だが、仮にも上司という立場である彼にとってみれば、部下の失態だ。  「早く上がって。着替えて来た方がいい」  「くそーっ、くそっ、くそっ」 喚きながら若者は、脱げてしまった履物を泥から引っ張り出そうと、片手を畑に突っ込んだ。  そして、何かを掴みだして、一瞬、きょとんとした顔になった。  「あ、うっ…何だ?」  「…ヘンレク、それ」  「うぇっ?」 青年は、自分が掴んでいるものが何か判らないという顔をしたまま、目をばちくりさせている。  だが、チェティには即座にそのモノの正体が判別出来た。  石でできた壺、だ。それも、ただの壺ではない。  貴人たちの遺体をミイラ(サァフ)に加工する際に抜き取られた、内臓を入れるための壺――。  こんなところに在ってはならない品だった。それは葬送と、死者のためにある品なのだから。  「ヘンレク。足元にまだ、何かある気配は?」  「はあ、なんか…あっ、木箱がありますね。蓋を踏み抜いてしまったようです。んっ…硬いな、泥に埋もれて掘り出せない」 ヘンレクは、チェティの硬い声と表情に全く気づいた様子もない。  「何でこんなものが、畑の中に…」  「そのままだ。そこでじっとして。人を呼んでくる」  「ふぇっ?」  「箱を壊さないように! 周りにまだ、他にも何かあるかもしれない」  「えっ、ええっ…ど、どうすればいいんです? ここから出られないじゃないですか…あの! チェティさん!」 青年の情けない声を遠くに聞きながら、チェティの頭は、素早く回転を続けていた。  ここは、ただの耕作地だ。記録にある限り、十年はずっと。それに、街からは遠く離れている。  代わりに、耕作地のすぐ西側、水路の途切れる沙漠の辺りには、昔からの墓地が広がっている。  もしも、その中のどれかの墓が暴かれ、誰かが持ち出して副葬品をここに打ち捨てたのだとしたら。  チェティは、現時点で考えられるうちで最悪の可能性を想定していたのだった。
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