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暗い、雨の降る夜だった。冷たい雨がコンクリートに落ちる。疎な防犯灯の明かりをうけて、光る道が続く。誰も歩いていない。雨のせいだろうか、息苦しさを感じて咳き込む。雨に濡れた長い黒髪が顔にへばりつく。鬱陶しいと思ったところで気づく。どうしてこんな雨夜に、私は傘もささずに歩いているんだろう。どこから来て、どこへ行く途中なのか。それすら思い出せなかった。
雨宿りができそうな場所を探して歩き続け、闇夜に大きな光を放つコンビニを見つけた。1台だけ、車が停まっている。店先に置かれたベンチに、倒れるように座り込んだ。安堵のため息をついた後で、大きく息を吸い込んだ。そこで煙草の香りに気づいた。目の前をフワリと紫煙が流れていた。行先ではなく、元を辿る。吸い殻入れを挟んで、もう1つベンチが置かれていた。そこに、1人の男性が座っていた。綺麗な人だった。肩のあたりまで長さのある黒髪は雨に濡れ妖しく艶めき、色白の肌はまるで蝋人形のように滑らかで美しい。伏せた目元と、煙草をくわえる口元が色っぽい。身につけた黒いシャツが、雨に濡れ体の線を浮き彫りにしている。華奢な体躯。停まっているこの車はこの人の物だろうか。それにしては雨に濡れすぎている。
自動ドアが開き、買い物を終えた客が1人出てくる。ずぶ濡れの私には目もくれず、停めてあった車に乗り込み去って行った。残された私と、煙草を吸う彼。この人も、どこかから歩いてきたのだろうか。
「なぁ、あんたどっから来たの?」
中性的な柔らかな声が降ってきた。顔を上げると、彼が私を見下ろすように立っていた。背が高い。長い足を辿って顔を見上げる。芸能界にいます、と言われたら納得してしまう。むしろ、いない方がおかしい。
「わからない」
私は素直に答える。本当にわからない。気づいたらこの雨夜を歩いていた。傘も無い。変な人だと思うでしょ。
「帰る場所は?」
「無いと思う」
私の答えに彼の顔が曇る。ナンパ目的だろうか?だとしたら盛大なハズレだ。残念でした。
「オレの家、来る?」
「は?」
予想外の言葉に驚いた。こんな女を家に連れて行こうなんて、どうかしてるとしか思えない。誰でもいいのかよ……そんなツッコミをグッと飲み込む。
「すぐそこなんだ。このままだと風邪引くぜ。裸足だし」
裸足?そんな馬鹿な、と思い自分の足元に視線を向ける。
「……なんで?」
言われた通り、私は裸足だった。足は泥に汚れ、小石か何かで切ったような傷もあった。今までこれで歩いてきたなんて……ゾッと鳥肌がたつ。
「ほら。おぶって連れてくから。そんなんじゃあもう歩けねぇだろ」
彼が背中を向けて屈む。一瞬ためらった後、私は彼の背中に体を預けた。
「オレの家、すぐそこだから。休んでいきなよ。このまま置いてったら、あんた死にそうな気がするし」
死にそう、その言葉が私の心に引っかかった。苦しい。私は死にたかったんだろうか。それで裸足で雨の街を彷徨っていた?わからない。何も、わからない。
「……ありがとうございます」
雨は止む気配がない。家はすぐそこだと言っていたが、この雨の中を傘もささずに出てきたのだろうか。それに、この人は手に何も持っていない。コンビニでの買い物は、スマートフォンさえあれば出来る。おそらくそれはズボンのポケットに入っているんだろう。それとさっきまで吸っていた煙草。買った物は?買い物前に煙草を吸っていたところに私が現れたのか。そこで気づく。そっか、煙草を買いに来たのか。それなら手荷物が無いのも納得だ。ついついスイーツやらお菓子やらを買ってしまう自分と比べてしまっていた。
彼は無言で歩き続ける。私も、何を話していいのか思い浮かばず無言のまま。すぐそこだと言った割に、彼の足は止まらない。20分近く歩き続け、ようやく彼の歩みが止まった。そこは見上げるような高層マンションだった。もしかして、本当に芸能界にいる人なんだろうか。だとしたら、私なんかを部屋に連れ込んで大丈夫なんだろうか。スキャンダルになったとして、私は責任は取れない。そんな私の不安なんか知りもせずに、彼はエントランスを通りエレベーターへ向かう。乗り込んで、向かう階のボタンを押す。17階。浮遊感を体に感じる。静かに上昇し、ポーンと到着音を鳴らし、静かに扉が開いた。綺麗な廊下が伸びている。柔らかな灯りが、優しく照らす。
「ここがオレの家」
玄関は広く明るい。そこに私を降ろし、彼はすぐ傍の扉を開けた。
「そこで待ってて。タオルとお風呂の準備するから」
私は黙って頷く。お風呂って……まさか私を抱くつもりなのだろうか。と怪しんだが、玄関脇に置かれた姿見に写った自分を見て、そんなことは無いと分かった。ひどい格好だった。背中まである長い黒髪は雨に濡れベッタリと張り付き、色白が自慢の肌は雨の中を歩き続き冷えたせいで青白くなっていた。メイクも流れ顔はぐちゃぐちゃ。赤いニットと黒のロングスカートは雨に濡れただけじゃなく、泥汚れや草や葉っぱなんかも付いていた。そして裸足ときた。こんな女を抱こうとは思うはずがない。私が男だったら誘われてもお断りだ。親切心から連れ帰ってくれたんだ。変に疑ってしまったことを、心の中で詫びる。
お行儀が悪いと思ったが、私は見える範囲をぐるりと観察した。玄関には先ほどまで彼がはいていた靴の他に、もう一足並んでいた。女物だった。黒のピンヒール。今の私の服に合わせたら似合いそうなデザインだった。そして私好みのデザイン。そっと足を靴に近づける。サイズもぴったりそう。彼女さんと同棲しているんだろうか。だとしても、連絡している様子はなかった。彼はなかなか戻ってこない。きっと先ほどの扉の奥がバスルームなんだろう。シャワーの水音が聞こえる。バスルームからベッドルームやリビングへ繋がる扉が中にあるんだろうか。それならそこから彼女さんへ私のことを話しに行っているのかも。
立っていることに疲れてきて、私は玄関にしゃがみ込む。白いタイルに泥汚れをつけてしまった。申し訳ない。掃除は私にさせてほしい。彼の上質そうな革靴にも泥がついている。こういう靴はきちんとお店で綺麗にしてもらった方がいいんだろうな。そのお金も私が払おう。そんなことを考えていると、ガチャリと先ほどの扉が開き彼が顔を出した。
「お待たせ。これで足拭いて上がってよ」
彼に手渡されたタオルで足を拭く。白くてフワフワなタオルが泥で黒く汚れていく。本当に申し訳ない。廊下に上がると彼に続いて扉をくぐる。やはりそこはバスルームだった。
「汚れ落として、ゆっくり温まっておいで。シャンプーとか置いてあるやつ好きに使っていいからさ。入ってる間に着替えも用意しておくよ」
そう言って彼は出て行った。着替えって……それは彼の恋人の服なわけで。そのせいで彼と彼女さんの仲が拗れてしまったらどうしよう。でも、またこの汚れた服を着るのも嫌だなと思う。だからと言って全裸でいるわけにもいかない。彼の足音が遠ざかったのを確認してから服を脱ぐ。腕にぶつけたような痣がある以外は、体に怪我の痕はなかった。首にも何か痕が残っている。今は秋の終わり。マフラーかストールでも巻いていたのだろう。痕が残るくらい?そんなこと、あるわけがない。また息苦しさを感じて咳き込んだ。早くお風呂に入ろう。汚れを落として、温まろう。そうすればきっと楽になる。
熱めのシャワーがありがたい。頭のてっぺんから足の先まで汚れを洗い流す。お言葉に甘えてボディーソープもシャンプーも使わせてもらう。私好みの匂いで嬉しくなる。ここの住人とは好みが合うようだ。入浴剤の匂いも色も私の好きなものだった。湯船の中で大きく伸びをする。そのまま顎まで湯に浸かる。こうして入るのが好きだった。雨音は聞こえない。脱衣所の扉が開く音が聞こえた。彼が着替えを持ってきてくれたんだろう。足のサイズは彼女さんと同じくらいだったけれど、服のサイズはどうだろうか。私はおそらく標準サイズだけれど、彼女さんが小柄な人であったなら……。
「着れなかったら恥ずかしいよなぁ……」
湯船の中でつぶやく。彼も細身だった。彼の服も入らなかった場合……本当に申し訳ないことだけれど、服を買ってきてもらうことになる。今は何時だろう。歩いてきた道の人通りの無さを考えると、きっと遅い時間だろう。服を買える店が開いてる望みは薄い。
10分ほど湯船に浸かってから風呂場を出た。用意されていた着替えを手に取る。大丈夫、きっと着れる。そう思い袖を通す。驚いたことに、下着もパジャマも私にピッタリだった。まるで自分の服のよう。着心地も良い。おまけに柔軟剤の香りも私が使っているものと同じだ。どこまでも好みの合う彼女さんだ。それとも、柔軟剤は彼の好みだろうか。
着替えて廊下に出ると、玄関から突き当たりの扉が開いていた。そこから足音が近づいてきて彼が顔を出した。
「よかった。ピッタリだね。ドライヤーとか化粧水とかも使っていいからな」
そう言われて私はまた脱衣所へと戻る。並んでいる化粧水や美容液を見て、さすがにゾッとした。私が使っているものと全く同じだった。ドラッグストアに行けば買えるものだけれど、ここまで同じなことはあるだろうか。ヘアケア用品も、ブラシも、ドライヤーも私と同じものだった。ゾワリと鳥肌が立つ。ここは私の家ではないはず。それとも……記憶がないだけで、私はここに住んでいた?わからない。思い出せない。私はどこから来た?どこへ行くつもりだった?何でこんな雨降りの夜に?
鏡の中の私と目が合う。首の痕が濃くなる。これは何?
怖い。
苦しい。
どうして。
やめてよ。
助けて。
私、まだ……
「死にたくない……」
溢れた言葉にゾッとする。今のは何だ。私は誰かに首を絞められていた。倒れた拍子にぶつけた腕が痛い。誰かが私を殺した?誰が?どうして?
手早く髪を乾かし、化粧水を顔に塗り、彼がいる部屋へ向かう。スッキリとしたリビングだった。ソファーに彼が座っている。ソファーは大きな窓に向かって置かれている。リビングにはダイニングが続いていた。ダイニングテーブルが不自然に曲がって置かれている。慌てて片付けたんだろうか。カーテンを開けたままの窓に彼が写っている。彼の後ろに立つ私も写っている……はずだった。
「あぁ……やっぱりあれは現実だったんだな」
気怠げに彼が私を振り返る。目が合う。綺麗な澄んだ瞳。そこにも私は写っていないんだろう。あぁ……そうだったんだ。ようやく思い出した。
「私、死んでるんだね」
「そうみたいだな」
私が歩いていた道は、人通りが全く無かった。民家も無かった。暗く広がる雑木林に挟まれた道だった。裸足で、泥に汚れていたことも理解できた。私は殺されて、あの雑木林に遺棄されたんだ。きっと、私の体はそこにある。抜け殻になった私は、暗い雑木林の中で雨に打たれている。そして、私はここに彼と一緒に住んでいた。靴や服のサイズが同じなのも、シャンプーや柔軟剤の香りが好みなのも、当たり前だ。私が買ったものだから。私のものだから。
「どうして?私はあなたが好きだったのに」
「嬉しいな。オレもお前が好きだったよ」
ふわりと彼が微笑む。その後で、寒気がするほど冷たい顔になる。
「だから殺した。そうしたら、ずっと一緒にいられるだろ」
彼が立ち上がり、私の前に移動する。ほんの少し、見上げて彼の顔を見る。芸能界にいてもおかしくない、綺麗な顔と髪。顔で選んだわけじゃないけれど、彼の顔が好きだった。彼の手が私の首にかかる。
「こうして……お前の首を絞めた。倒れた時にそこのテーブルにぶつけた腕が痛そうだったよ」
彼の手が首から離れる。冷や汗が背中を伝う。私は死んでいる。どうして彼は私に触れられる?もしかして……彼もまたあの雑木林で眠っているんだろうか。美しい髪と顔を泥と雨に汚されながら、永遠の眠りについているのだろうか。
「どうして?どうして私に触れられるの?私は死んでる。そんな私に触れられるなんて……もしかして、あなたも……」
私の問いに、彼は悲しそうに首を横に振る。そして後ろの窓を振り返る。そこには彼は写っている。私は、写っていない。答えがそこにあった。
「死のうと思った。お前を雑木林に運んで、地面に横たえた。その隣で、オレも死ぬつもりだった。でも……」
そこで彼が言葉を切る。どうせ怖くなったんだろう。死ぬことも、私を殺してしまったことも。でも、どうしようも出来なくて、あのコンビニで煙草をふかしていた。
「誰がオレを殺してくれるんだよ。お前に殺してほしかったのに……」
どうしようもない馬鹿だ。それなら私を殺す前に言って欲しかった。話してくれていたら、未来は変わったのに。こんなに苦しい未来は存在しなかったのに。
「気づいてた。コンビニで会った時から。オレを殺しに戻ってきてくれたんだって思った。それか……殺したつもりでいたけど気を失っていただけで、目を覚まして戻ってきてくれたんだって。後者だったら良かったのにな。残念だよ」
なんであなたが泣いてるの?泣きたいのは私だよ?好きな人に殺されて、雨の雑木林に置き去りにされた私の方だよ。私の手が彼の首に伸びる。彼は死に近づきすぎた。だから死んだ私にも触れられるし、私を背負ってここまで連れてくることができた。そんな彼に、私も触れることが出来る。私の手が彼の首に触れた。今ならきっと……
「私があなたを殺せる……」
「あぁ。頼む。一緒に死のう」
彼の首にかけた手に力を込める。彼の顔が苦悶に歪む。そんな顔を見たくなくて、きつく目を閉じた。永遠とも感じられる時間だった。ほんの数分、いや、数十秒だったかもしれない。弱々しい彼の声が聞こえた。
「……ごめんな……ありがと‥う……」
手を離し、目を開ける。重たい音を立てて、彼の体がフローリングに倒れる。その隣に、ポタリと涙が溢れる。私は泣いていた。愛した人の首を絞めた感覚が、死んだ体なのに残っている。こんな感覚いらないのに。何かが残るなら、最期に抱きしめてほしかった。
彼の体に触れる。まだ温かい。そうだ、温かい今のうちに。私はクローゼットからスーツケースを持ってきて、彼の体を押し込んだ。スーツケースはもう一つあったはずなのに、無くなっていた。彼と思考回路が同じことが、こんな時でも嬉しくなる。電気をつけっぱなしにし、鍵も開けたままでマンションを後にする。重いスーツケースを引いて、暗い夜道を歩く。雨はまだ止まない。どうかあの雑木林に着くまで、私の横に彼を横たえるまで、雨が止みませんように。
思い返せば、私も彼も死を身近に感じていた。2人で死ねるなら、怖くなかった。若いうちに2人で死のうね、なんて話したこともあった。冗談のように、軽い気持ちで、そんな話しをした。そんな私も彼も20代の終盤になった。私は、自ら命を断つことの身勝手さに気づいていた。でも、止められない人もいる。それはそれで自分の命に責任を持って終わらせたんだな、と思った。ここまで生きたんだから、これから先も2人で生きていこう。そう、彼に言ったことがある。その時の彼の顔を思い出す。悲しそうな顔をしていた。彼はまだ、私と2人で死にたかったんだ。
殺される立場になって、死を怖いと感じた。まだ死にたくないと強く思った。彼に殺される絶望を味わってなお、私は彼を嫌いになれず追いかけた。彼を殺したくて追いかけた訳じゃない。一緒に帰りたかった。彼が死ぬまで一緒に居たかった。ただ、それだけだったのに。
雑木林に辿り着くまで雨は降り続き、誰かに会うこともすれ違うこともなかった。雑木林に入り30分ほど歩いたところで、地面に横たわる赤いニットの女性を見つけた。私が雨に打たれ、泥に汚れ眠っている。その脇に、放置されたスーツケースが転がっていた。彼に倣い、私の隣に彼を横たえる。2人寄り添い、眠るように。そっと後ろから肩に手が回された。彼だった。やっと同じところに来れた。
雨が上がる。雲の切れ間から弱い月の光が落ちてくる。船のような三日月。残酷なまでに綺麗だと思う。ただ朽ちていくだけの私と彼の体。永遠に彷徨う私と彼の魂。
「誰にも見つからないといいな」
「無理でしょ」
月の船が浮かぶ空へ私と彼は手を繋いで歩く。木々に残った雨粒が、そっと私の頬に触れて、地面に落ちた。
【20××年4月13日の早朝。A県M町の雑木林で、20代と思われる男女2人の遺体が発見された。山菜取りのために林へ入った地域住民が発見し、警察へ通報した。遺体は死後数ヶ月経っており、警察は身元の確認と死因を調査中である。】
【20××年11月頃から、A県M町に住む○○さん(28)と、その恋人で、同棲していた○○さん(28)の行方が分からなくなっている。2人と共通の友人が、2人と連絡が取れないことを不審に思い部屋を訪れたところ、部屋は施錠されておらず、電気もつけたままであった。警察は、4月に雑木林で見つかった男女2人の遺体と、今回の行方不明者との関係を調査している。】
【あいつら、よく言ってたんですよ。2人一緒に死にたい、って。やめなよ、とは言ったんですけどね。死ぬなら月の綺麗な夜の海がいい、なんて。馬鹿みたいでしょ?】
【警察は、4月に雑木林で見つかった男女2名の遺体が、昨年11月頃から行方不明となっていた○○さん(28)と○○さん(28)であると発表した。死因は絞殺で、お互いに首を絞め合っての心中とみられている。】
【お互いに首を絞めあってねぇ……そんなこと可能なんですかねぇ。もしかして、先に死んだ方が幽霊になって、残った方を締め殺した……なんて冗談ですよ。ごめんなさい。でも、本当に2人一緒に死んだんですね。何か悩んでたのかな。友達なんだから、相談してくれたらよかったのに。】
破れた週刊誌の切れ端が、いつかの雑木林に舞い落ちた。
何も残っていないこの場所を、冷たい風が通り過ぎていく。
月の船は、今日も穏やかに航海を続けている。
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