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鋼のカンチョウ
「カンチョウ! サンキュー」
耳元でその言葉がごく小さく響くと同時に私の尻に何かが突き刺さり、強い衝撃を覚えた。振り返ると、両の人差し指を突き立てた無精ヒゲの男がニヤリと笑って、朝の通勤ラッシュの車内から乗り換えの人の波に紛れて逃れていった。
お尻よりも精神的なショックの方が痛い。一瞬のことで声を出すこともできなかった。首都圏随一の激しい混雑で知られるこの沿線の郊外に生まれ育って二十六年。体を触られる痴漢には星の数ほど出会ってきたが、電車内で指カンチョウで攻撃されるのは初めての経験だ。小学生男子レベルの悪ふざけで、新調したスーツのスカートを汚した男に軽く殺意を覚えた。
せめて被害届けを出したかったが、今日は勤め先のパーティーの準備に都心へ急がなければならない。
会場のホテルに着くと「ブリリアント商事お客様感謝パーティー」と宴会場の案内が出ていた。会場は「真珠の間」だ。我が社は宝石専門商社なので、ホテルが気を利かせて、「真珠の間」を取ってくれたそうだ。
宴会場には入社四年目の同期や今年の新入社員などが集まっていた。若手が設営作業にかり出されたのだ。設営は重労働だが、宝石を見るのが好きな私にとっては稀少な宝石に触れるチャンスなので苦にならない。しかし、今頃になってお尻に鈍い痛みが時折走る。
「リサ、苦しそうな顔をしているけどお腹でも痛いの」
同期の小百合が心配して、声をかけてくれた。電車での出来事を説明したところ、小百合は「モロッコでカンチョウ少年に突撃されたことがある」と語り出した。
彼女は学生時代にジブラルタル海峡をフェリーで渡り、スペインの南端からモロッコの北端の街を訪れた。港に降り立つと現地の少年たちに囲まれた。こづかいをねだられ、無視したところ、フランス語で「お前は中国人か」と尋ねられた。日本人だと答えると、少年たちはジャンケンらしきものを行い、勝ったのだか負けたかの少年が猛ダッシュしてきた。「財布を奪われる」と思い、反射的にバッグを抱きしめたが、少年は両手の人差し指をあわせて、彼女の後ろに回り込み尻に指を思いきり食い込ませてきた。次の瞬間、厚めの発砲スチロールが折れ曲がるような音がして、少年は火がついたように泣き出したという。
「ほら、私は体鍛えているじゃない。お尻の筋肉に力を入れてやったから突き指か骨折したみたいよ。リサもトレーニングしてカンチョウ男に復讐しちゃえ。目には目をだよ」
そういわれても、鉄板のようなお尻があったとして復讐する勇気が持てない。
小百合は世界中を一人旅し、オーストラリアでオパールの採掘現場に感動して、この業界に入ると決めた強者だもの。宝石の輝きだけに惹かれて入社した私とは格が違いすぎる。こんな下世話なおしゃべりをしながら展示の準備を進めた。
ディスプレイが出来たところに、吉野部長が現れた。「完璧だね。ご苦労」と適当に流して、控え室へ消えていった。社長の娘婿だが、とにかく頼りない上司なのだ。正午にイベントが始まった。
イベントの前半は社史のビデオ上映と社長による講演だ。続いて隣室で展示会が始まり、私はお客様のアテンド役を任されていた。日本はもとより海外からもお得意様が招待されている。
「リサ、一年ぶりだね」
白人男性が声をかけてきた。私が担当しているアロンソン商会のジェラルドさんだ。普段はメールやビデオ会議ばかりなので、再会をハグで祝おうとかけよろうとした。
「ここより向こうに入らないでください。ショーケースの警報が鳴ります」
警備員にスタッフでありながら注意されてしまった。
ジェラルドさんは「熱心に護衛してもらって、この石も幸せものだ」とウインクしてくれた。ケースの石は我が社の先代社長がニューヨークのアロンソン商会に直接足を運んで譲ってもらった、貴重な大粒のダイアモンドだ。
「この石の姉妹といわれる石を僕の母がプライベートで所有しています」
「すてきです。こんなすごい石がご自宅にあると警備が大変なのでは」
「もちろん、警備員が我が家には常駐していますが自衛も不可欠です。母は高齢ですが、今も拳銃で備えていますよ」
ジェラルドさんの母上はアロンソン商会の会長で、宝石の目利きとして業界の伝説的な存在だ。
「懐かしい石に再会できてうれしいわ」
背後から、弾ずんだ声が聞こえてきた。十年ぶりに来日したという会長だ。
「丁度、この石の片割れの姉妹の話をしていたんだよ。マミーが拳銃で守っているって」
ジェラルドさんは両肩を大げさにすくめた。私は名刺を差し出して、会長にご挨拶をしようとしたが緊張で言葉が続かない。
「リサ、あなたは良いバイヤーだとジェリーに聞いているわ。ふふ、固くならないでいいのよ、銃で撃ったりしないから」
「マミーなら本気でやりかねないよ」
二人のアメリカ映画の台詞のようなやりとりに思わず吹き出した。それで肩の力が抜けて、言葉が出てくるようになった。実際に銃を使ったことはあるのかを尋ねた。
「あるわ。強盗がセキュリティシステムを無効にして、警備員に気づかれずに我が家に侵入したの。枕元に銃を置いておいてよかったわ」
「マミーは銃の安全装置を外しているんだ。すぐ撃てるようにね。とんだ、お転婆娘だよ」
「ほほほ、この子ったら」
「強盗を撃退するなんて勇敢です。安全装置を外しておくなんて、会長はなんと心がお強いのでしょう」
「毎年、銃の取り扱い訓練を受けているから大丈夫よ。そんなことよりも覚悟を決めて撃つことが何よりも大事なの。鋼鉄のハートを持って、理不尽に屈せずに自分を貫くということよ」
パーティーが終わり、撤収作業が始まった。備品の梱包をしながら、小百合にアロンソン会長の武勇伝を聞かせたところ、「かっこいい。私も話したかった」と悔しがった。小百合は飲み過ぎた吉野部長のお守りをしていたのだという。部長はタクシーに押し込まれて、既に帰宅済みだ。
片付け終了後、全員が宴会場に集められた。テーブルの上にはゲストにお土産として渡した、大きな紙袋が十袋ほど並んでいる。中身は我が社のロゴ入りのシャンパンと外国人好みの華やかな伊万里の大皿などだ。毎年、余ったお土産は撤収作業に参加したものでジャンケン大会を行って、勝者が持ち帰る習わしだ。
勝負運のない私は一度も勝ったことがなかったが、今回は勝ち進んで獲得することができた。袋は米袋かと言いたくなる程重い。ゲストは車移動がほとんどなので、袋の重さは問題無いのだが、電車で持ち帰るのは辛い。
幸い同じ沿線住まいの新入社員の大沢くんが重い荷物を持ってくれた。電車に並んで座り、荷物を持ってくれたお礼を伝えた。
「お安いご用っす。総額うん十万のお土産ゲット、ラッキーっすね」
確かに、ジャンケンに勝ったことも重い荷物を持ってもらえたのもラッキーだ。しかも、アロンソン会長と話も出来た。
途中の駅で先に降りた大沢くんに手を振ろうと窓の外を見ると、無精ヒゲの男が階段を降りていくのが見えた。今朝のカンチョウ男だ。一気に多幸感が薄れて、お尻と心が再び痛み出した。
帰宅すると既に二十三時近かった。両親がまだテレビを見ていた。本来はもっと早く寝る人たちだが、いつも私の帰宅を待っていてくれる。
「すごいお土産をもらってきたよ」
紙袋から得意げに中身を取り出していった。母に伊万里の大皿を、父にシャンパンボトルを渡すと、袋の底に黒いキルティング加工がほどこされた化粧ポーチを発見した。少し使用感がある。お客様が入れたのだろう。どうやら私のもらった袋はお土産の予備で用意したものではなく、お客様の忘れ物らしい。がっかりしてしまったが、しかたなく両親から品物を回収して袋に戻した。両親が「ぬか喜びだったけど、気持ちが嬉しかったよ」といってくれたのが救いだった。
お風呂からあがって、明日の支度をはじめた。重い袋を持って電車に乗ることを考えると憂鬱になった。しかも、黒い化粧ポーチは妙に重い。ポーチの持ち主はかなりの厚化粧に違いないと想像しながら、中身を確認してみると化粧品ではなく、黒い拳銃が収まっていた。触れると金属の冷たさに身も心もに震え上がった。なんとか呼吸を整えて、現場責任者である吉野部長に電話したが、酔って熟睡中なのか全く反応がない。小百合に連絡をとってみた。
「それって、アロンソン会長の愛用の銃じゃないの」
「そうかもしれない。どうしよう、まずいよ」
「でも、本物の拳銃が日本に持ち込めるわけないし。良く出来たモデルガンでしょ」
警察に届けるべきか悩ましいところだが、パーティー会場の忘れ物は総務部が管理しているので、明朝に相談することにした。
それにしてもモデルガンを化粧ポーチに隠してまで持ち歩く必要があるとは思えない。やはり本物なのでは。
「ハロウィンとかクラブで仮装する時に小道具でモデルガン持ってくる人いるじゃん」
小百合の説明に、海賊やらルパン三世の仮装の人は拳銃持参だったなと納得してしまった。持ち主は仮装パーティーの予定があったのだろう。一時を回ったので、急いでベッドに入った。
翌朝、猛烈な通勤ラッシュの中、紙袋を両脚の間に挟み込み、右手でつり革につかまって堪え忍んだ。
橋の上を電車が渡りだしたところで、ブレーキが掛かり、自分の背中にバランスを崩した誰かがもたれ掛かってきた。首筋にチクリとひげの感触がして、振り向くとカンチョウ男であった。至近距離のカンチョウ男は口からひどい匂いを発し、獲物を狙うハイエナのような目つきをしている。人差し指を立て、舌を突き出して挑発してきた。
吐き気と殺意を同時に覚えた瞬間、小百合とアロンソン会長の言葉が頭に浮かんだ。お尻に力を込め、勇気をふりしぼって、何とか紙袋から銃を抜いて男の尻にあてて引き金に手をかけた。
「カンチョウ! 天誅」
<了>
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