前編

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 『怒り』いうんはたいてい『期待』が生むもんや。  ほな『笑い』を生むもんはなんやと思う?  出逢った頃、アイツが唐突に俺に訊いた。  場所も憶えている。アイツと俺の家の、ちょうど真ん中くらいにあった深夜営業のアメリカンダイナーだ。  その店のスタッフは全員日本人だったが、胸や肩にレコードのドーナツ盤をつけ、そこにはジェニファーとかマイケルとかいかにもアメリカ人ぽい名前が書かれてあった。ツッコミの材料には事欠かない店だったとも言える。  その晩は二人ともずいぶん酔っていた。だからとは言わないが、俺はとっさに答えることが出来なかった。そんな俺をアイツは子どもみたいな大きな目で見ながら得意そうに笑った。  ええか、「笑い」いうんはな――  無音の世界でアイツが何か言っている。 *  丸二日眠れない夜を闘ったその日の朝、俺はカーテンの向こうに猛暑日の熱を感じながら、ベッドの中央に座ってぼんやりと伸びた自分の足の爪を見ていた。  それから重い腕を動かしてエアコンのスイッチを入れ、洗面所に向かう。歯を磨き、顔を洗い、ついでに洗濯機を回してからキッチンへ向かった。  ここでかぐわしいコーヒーの匂いでも漂っていればおしゃれなのかもしれないが、俺はあいにくカフェイン全般がダメだ。冷蔵庫からとうもろこし茶のペットボトルを取り出し、カップに移して電子レンジに入れた。飲み物は冷たすぎても熱すぎてもいけない。レンジがピーピー鳴って俺はようやく今日初めての水分にありつく。ほんのり甘い香りが立ちのぼり、少しだけ気持ちが安らいだ。  食欲がなかったので玉子粥とツナサラダだけの食事を済ませ、洗濯ものを干し、軽く部屋の掃除をすると、一日の可処分体力が半減し、俺はリビングのソファに崩れるように座り込んだ。  頭の芯が鈍く痛む。カフェインなど摂らなくても睡眠不足はそれだけで俺に動悸をもたらす。テレビをつけたらハイテンションな情報番組に神経を突き刺されて慌てて消した。  換気扇が回る音がする。俺は自宅にいるときは常に換気扇を回している。換気をするためではなく、その音を必要としているからだ。うなるような低い単調な音は、何故か俺の気分を落ち着かせてくれる。  俺は昔から無音の空間が苦手だった。シンとしているとおかしな妄想やら言葉の洪水やらが襲ってくるのだ。しかしだからといって賑やかなのが好きなわけでもない。隣人の話し声は聞きたくないし、この部屋に人を呼ぶこともない。  要するに換気扇の音は、不快な雑音を消しつつ、無防備な状態からも守ってくれるお守りみたいなものなのだ。  ソファに横になってしばらく目を閉じていると、少し眠気が降りてきた。よし、眠れるかもしれない。ブランケットを胸まで引き寄せ、期待に胸を膨らませたとき、無情にもインターホンが鳴った。  全身に不機嫌をまといながらドアを開けると、カボチャみたいなおかしな形の帽子を被った若い男が立っていた。頭からつま先までモスグリーンの装いで、大きな丸メガネをかけ、さほど背は低くないのに、何故だか幼い子どものような印象があった。 「チェンジ、ですか」  青年は上目使いでおずおずと訊いた。 「……いやチェンジとか知らんし」  青年はハッと大きく目を見張った。 「チェンジをご存知ない?」 「いやチェンジは知っとるけどおまえ誰やって話やろ」 「ビックリしました」 「なんで俺がおかしいみたいになってんねん」 「砂川(すながわ)(つとむ)さん、ですよね」  確信に満ちた声に微かな警戒心が湧く。 「なんで俺の名前知ってんねん」 「砂川さんにある方からメッセージをお預かりしてます」 「メッセージ?」 「はい」  青年は袈裟懸けにしていた布バッグに手を入れ、小さなカードを取り出した。 「わたくし、こういうものです」  受け取ったカードにはシンプルな文字でこう書かれていた。  『まごころを声でお届け~ぶっちゃけウグイス~  メッセンジャー 甘木(あまき)文彦(ふみひこ)』 「いや、ぶっちゃけウグイスて。どんなネーミングやねん、まごころいっこも感じへんやん」  思わず突っ込むと、ちょうど隣の部屋の戸が開いて、若い女性が出てきた。きちんとしたスーツ姿だ。遅めの出勤なのかもしれない。俺の部屋はエレベーターの隣にある角部屋だ。そのため彼女は、おかしな格好の男とガラの悪そうな関西弁の男の間を、ジロジロと見ながら通り抜けた。 「ははっ、すいませんね」  芸人だった頃のクセでつい愛想よく声をかけてしまう。  彼女はニコリともせず不審そうな顔で見ている。 「まあ立ち話もなんですから、中へ」 「おまえが言うな」  ウグイス青年は握った拳の上に顎を乗せ、わざとらしくため息をついた。 「さようでございますか……まあ、わたくしはここでもいいのですが、ただ、」 「なんや」 「内容が大変『過激』なものですから、こうして声の響く廊下でお伝えしてよいものかどうか……」  ウグイスはチラとエレベーター前で待っている彼女の方を見た。  彼女はスマホを取り出し、その指がいま何事(なにごと)かを打ち込もうとしている。  俺はうなり声を出しつつ、仕方なくドアを大きく開いた。
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