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途端、健太の心にゆう子への愛しさが込み上げ、たまらず肩に手を回して抱き寄せた。
そのまま体を預けてくる、潤んだ目のゆう子に唇を寄せる。
しかし、ゆう子はそっと健太の肩を両手で押すようにして体を離しながら、小さく首を振り、
「ごめんなさい。これ以上は……」
「なぜ? 僕はゆう子さんが……」
「神木健太さん」
ゆう子は、健太の言葉を遮るように言って正面から見つめ、1枚の名刺を差し出した。
そこにはこう書かれていた。
『神木裕子』
「えっ!?」
ゆう子は、優しい眼差しになって小さく頷く。
理解が追い付かず、頭が混乱する。
鎌倉に住んでいた頃の記憶が、おぼろげに甦る。
妹はまだ保育園児だった。
母と演歌を歌う、大きな目の妹。
その成長した姿が、いま、ゆう子と重なった気がした。
「ゆう子さんは、気づいてたの?」
黙って頷くゆう子。
「おととい、名刺を渡した時?」
それには小さく首を振って、
「もう何か月も前。郵便局に荷物を取りに行ったら、あなたが対応してくれて。名札に『神木健太』ってあった。その時から」
「よく分かったね。名前だけで」
「すぐに分かったよ。ありそうで無い名前だし、お兄ちゃん?と思ってみたら、面影とか、雰囲気とか。それに……」
「……それに?」
「ホクロ」
ゆう子はそう言って、右目の下を指差した。
健太の右目の下には、大きなホクロがあるのだ。
「そうだったんだ」
「榊ゆう子って、なかなかいいでしょう?」
ゆう子が笑顔になって訊いた。
急に話が変わったことに、健太は少し戸惑いながら、
「そうだね、演歌歌手らしい、いい名前だと思う」
「なんでこの名前にしたか分かる?」
「え?いや……全然」
苦笑いする健太に、
「神木の神と木をくっ付けると、榊という字になるでしょ?」
「……ああ」
「分かった?」
「うん。下の裕子を、ゆうこと読んだ」
「そう!」
「それで、榊ゆう子かぁ……」
健太は感心してから、
「いい名前だよ、ひろこ」
24年の歳月を埋めるように、ゆっくりと妹の名前を呼んだ。
「元気だったのか?」
「うん。おじさん、おばさんもとてもいい人で。本当の娘のように育ててくれた。短大まで行かせてくれて」
「そっか……よかったな」
「人には恵まれた。失恋はしたけどね」
そう言って、ふっと笑う。
「俺も……」
と、健太も、妹と離れ離れに暮らした24年間を、妹に話した。
「お互いに、人には恵まれたのね」
ひとしきり聞き終えた裕子が、遠くを見つめて、しみじみと言った。
それから二人は、店の近くのお寺に歩いて向かった。神木家代々の墓がそこにあるのだ。
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