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煮出した紅茶を、氷とみかん果汁の入ったグラスに注ぎ、最後にレモンをひと絞り。
「はい、お待たせいたしました。お好みで、メープルシロップを入れてくださいね」
彼女は、淹れたてのみかもんティーと、ミルクピッチャーに入ったメープルシロップを置いてくれた。
ストローを差し、まずはそのまま。
いき過ぎない甘さと爽やかな酸味が口いっぱいに広がり、渇いた喉を心地よく潤してくれる。
「これは美味しいですね!」
柑橘系の香りに、疲れた体が癒される。
「みかもん、というお店の名前も、みかんとれもん、なんですよね?」
「そう思うでしょ?」
いたずらっぽく笑うゆう子。
「えっ、違うんですか?」
「実は……」
「……実は?」
「そのとおり、です」
ゆう子は楽しげに笑う。
(面白い人だな)
健太もつられて笑った。
「小田原って、みかんの産地でしょう? それに最近、片浦れもんが人気になって。あっ、根府川の片浦地区ね。それなら、一緒にした名前のお店にしちゃえって。ついでに飲み物も、ね」
「へぇ、そうなんですね。始められて何年になるんですか?」
「この春でちょうど2年、かな……」
そう言って、彼女は遠くを見た。
その視線の先を、健太も追ってみた。そこには、太平洋の青い海……。
「こんな景色を眺めながら働けるなんて、いいですね」
「そうですね。でも……」
なぜか言い淀むゆう子。続く言葉を待ったが、
「安らぎますよ、確かに」
と言っただけで、視線を手元に向け、洗い物を始めた。
健太も、そのまま静かにみかもんティーを味わう。
店内には、相変わらず演歌が流れている。
ふと、離れて暮らす妹を思い出した。
そう言えば、妹もよく演歌を歌っていた。
保育園児が演歌なんてと、笑う人も多かったが、家事をしながら演歌を口ずさむ母の傍にくっついているうちに覚えてしまったようだった。
母の真似をする妹が愛しかったのだろう。母もそんな妹をたいそう可愛がった。
「上手いねー。将来は紅白に出てお母さんを喜ばせてね」
「うん!」
そんな会話をよく聞いたものだった。
健太が小学校に入学して以来、音信が途絶えたままだから、かれこれ24年が経ってしまった。
(今頃、どうしているんだろうか……?)
元気でいてくれればいいけど。でも……
(今、街中ですれ違うことがあっても、分からないだろうな……)
そう思うと、淋しさが込み上げる。
『ボーン』
突然、鐘の音がして、現実に引き戻された。
店内の一番奥にある振り子時計が、12時を告げたのだ。
「ごちそうさま。美味しかったですよ」
空になったグラスとミルクピッチャーをカウンターに載せて、席を立つ。
「もう行くんですか?」
「ええ。この後約束があるので」
「そうなんですか……」
その表情が、何かまだ言いたげに見えたが、すぐに微笑を浮かべて、
「よろしかったら、また来てくださいね」
「はい、ぜひ」
健太も、本当はもう少し話をしていたかったが、約束の時間も迫っていたため、仕方なく会計を済ませ、小田原へと戻ることにした。
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