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彼女はそこで一瞬俯いてから、
「……甘え上手な男って、いますよね?」
そう言って、少し疲れた笑みを浮かべながら観客を見回す。
何人かの中年の女性が、苦笑を浮かべながら、そうそうと言いたげに頷いていた。
ゆう子は続けて、
「私は幼くして母親と離れ離れになってしまったので、母との記憶も無いんですけど……母性って、きっとこういう感じなんだろうって思いながら、この曲を歌ってました」
そんなことを言った。
その後で、気分も新たにというように、
「さて、次はいよいよ新曲です」
今回のミニライブのメインだ。
簡単な曲の紹介に続いて、新曲を歌い始めた。
それは、自分を捨てた男に思いを馳せながら、ただひとり酒を呑む、女の哀愁。
♪ 本気で惚れた人だった
あなたも本気だと信じていたのに
あなたは私を捨て
若くて綺麗な女の元へ行ってしまった
身も心も あなたに染め尽くされたのに
命を懸けて 身を捧げたのに
それなのに なぜ……
♪ 今でも暖簾の向こうから
あなたがひょっこり顔を出す気がするの
北風が暖簾をまくこんな夜は
来ないとわかってるのに
嫌いと好き…
逢うと苦しい でも逢いたい…
募る未練の涙が落ちて
盃の中の私を揺らす
二人でよく来た居酒屋で…
そんな詞が綴られていた。
一人残された女の哀しい恋心を、表情と、仕草と、切なく艶やかな声で、彼女は見事に演じて見せる。
(こんな一途な女を……俺だったら、絶対に捨てない!)
健太の無防備な心が強く揺さぶられ、思わず涙ぐみそうになる。
ゆう子は最後まで情感たっぷりに歌い上げ、最後は声を張りながら両手を大きく広げるポーズを決めて終えた。
(すごい……)
圧巻だった。
気づかないうちに、健太の頬を涙が伝っていた。
観客は最後まで少なかったが、人数以上の歓声と拍手に会場は包まれていた。
目頭をハンカチで押さえている観客さえいた。
健太も最後は溢れる涙も気にせず、拍手を送り続けていた。
ライブの後、健太はCDを買い、そのままゆう子と握手すべく、列に並んだ。
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