get away

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 漆黒と深紅の空間が歪む。 「待てーっ!!」  背後から追いかけてくる黒い影。 「ハアハア」  もっと、もっと早く!わたしは息を切らし全力で走った。素足のせいなのか?足がもつれて前に進まない。 「待てーっ!!!」  影の低い声が近くなる。影は男だ。わたしは男に後ろ襟首を掴まれ、後方に引かれた。腹に回された手。凄い力。身体が上に持ち上がり爪先立ちになってしまう。 「やだああーっ!!放してーーっ!!」  足と手をバタつかせ必死に抵抗するけど、男にはかなわない。  殺される!わたしは全身で絶叫した。 「ぎゃああああーーっ!!!」  瞬間、瞼がピクッと動く。自分の放った声に驚き睫毛を上げた。  映ったのは、いつものモスグリーン。天井だ。 「えっ、あっ……」 わたしは天井に拳を伸ばして広げた。指の隙間もモスグリーン。 「夢?」  良かった……。安堵の息を吐いて身体を起こす。怖い夢のせいか背中に嫌な汗が(てき)るのを感じる。  あれ?ッと気づいて周囲を見回し布団をまくり上げて探していると、廊下から母の声が聞こえた。 「陽葵(ひまり)、起きた?朝ご飯できたよーっ」 「あっ、はーい!」  後で探そう。わたしはベッドから立ち上がり、半開きのクローゼット扉にかかってる紺色のセーラー服をハンガーごと手に取った。  家は昔の武家屋敷みたいな平屋の一軒家。黒光りした廊下がやたらと長いのが特徴だ。  白いリボンを結び直してから居間の扉をスライドすると、テーブル向こうに新聞を広げている父のハゲた頭皮が見える。冬の富士山みたいだ。  居間は十畳、右横の木目扉を開くとフローリングで去年改装したばかりのダイニングキッチンが続く。  カウンターの向こうでは母が忙しく動いている。二歳年上、高校一年の姉がダイニングテーブルに座り黙々と食パンを(かじ)っていた。わたしは姉の横に座る。まずは朝の挨拶から。 「おはよー、手葵(てまり)」  姉は咀嚼しながらわたしを横目で睨んだ。 「ねぇ、毎朝、手葵って言うのやめてくれないかな?」 「なんで?手葵?」 「その名前、(まり)みたいで嫌なんだよ。普通にお姉ちゃんって呼べない訳?」  甚平姿の父が対面に座る。小花柄エプロン姿の母は、わたしの前にレタスを添えたハムエッグ、父の前には白米と味噌汁、納豆と焼き魚を置いた。「あっ、忘れてた」とキッチンに小走り、母は戻ると里芋と鶏肉の煮物を父の前に置く。  テーブル上の白いトースターからポンッと日焼けした食パンが飛び出した。わたしはパンにイチゴジャムをタップリ塗って齧りつき黒目を姉に流す。ん?なんか変な味。ジャムなのに甘くない。錆びた鉄の味がする。 「このジャム変だね、手葵」 「いつものジャムだよ、気のせいじゃない?」 「そうかなぁ〜、手葵」  諦めたのか、姉は無言でフォークを持ちレタスを刺した。  父がスズーッと音をたてて味噌汁を啜る。母は父の横に着席し箸を持った。  ウチは毎朝こんな感じ、姉とわたしが洋食で両親は和食。食事中の会話はあまりない。でも今朝は違った。 「中学の授業参観、何日だ?」と父が聞いてきたのだ。  カツンッと音を立て、黄身と白身を分けていたフォークが止まる。 「来月の二十六日だけど」 「そうか」 「まさか、くる気?」 「ああ、母さんと一緒にな」 「はっ?」  わたしは瞳をしばたいた。母はともかく父が授業参観にくるなんて初めてだからだ。 【基本、家庭内や子供の教育は母の仕事、男は仕事が第一】父はそんな思考の持ち主。父は製薬会社の開発部に勤務している。休日だって会社関係のゴルフに出かけて家になんていたためしがないのに。 「でも、参観日は中止になったんだよ」 わたしは白身を頬張る。 「お母さん、プリント見せてないの?」 母は白米を乗せた箸を止めた。 「あっ、忘れてたわ、ごめんなさい。エピデミックのせいで中止になったのよね」  エピデミックとは【エボスト】と呼ばれる伝染病のことだ。ある日、突然に流行り始めたインフルエンザのようなもの。たかが風邪。でも、この風邪は肺炎になりやすい。健康な若い人は肺炎までならず回復するが、七十歳以上の抵抗力がない老人が発祥すると八十パーセントが肺炎になり死に至ってしまう。日本が発祥元で世界中に広がりつつあるウイルス。  現在、父の製薬会社だけではなく世界の多くの製薬企業がワクチン開発に躍起になっている。 「エボストか……」 父は嘆息した。 「毎日、多くの老人が亡くなっている。ウイルス研究所で働いていた友人も気に病んでいたよ」 「田辺さん……」 母は箸を置いた。 「彼の研究所がウイルスを流出させたと根拠のない噂が流れていましたものね。でも……」  どこでもない一点を見つめる母。 「田辺さんは絶対に自殺じゃありません。殺されたんですよ!確信してます」 「ああ……そうだな」 父も俯いて箸を置く。 「黒幕は日本政府だ。ウイルス研究所にエボストをワザと流出させたんだよ。ホテルで首吊り自殺をする前日、田辺はわたしに会いにきて、そう言った。その時にわたしは彼から大切なモノを預かった。何かの鍵だ」  母が父を見る。 「何の鍵でしょうか?」 父も母に横目を流す。 「恐らく政府が命じてウイルス研究所がエボストを流出させた証拠を隠した場所の鍵だとわたしは予想している。田辺は兄弟もなく両親を早くに亡くした独身者、わたししか信用できる人はいないと言っていた」 母は唇を噛んだ。 「だとしたら、悔しいですわ」 「ごちそうさま」 最後にミルクが空になったグラスを置いて立ち上がるわたし。難しい話に興味はない。 「陽葵、レタス残してるよ」 母が顔を上げた。 「レタス嫌いって知ってるでしょ?もう学校に行かなきゃ」 「学校?」 隣の姉がクスリと笑う。 「今日は休日だよ」 「休み?今日は月曜日だよ」 「は?ボケてんの?日曜日だよ」  父も母も失笑した。 「おいおい、陽葵、ボケるには早いぞ」  そんなはず……。わたしは通学鞄を開いてスマホを探す。だが、いくら漁ってもスマホが見つからない。自室に忘れたのだと思い、わたしはワックスの光る廊下を滑るように走った。  部屋に戻り、スマホを探していると、左目の端に動く影を捉えた。窓だ。庭に誰か立っている。 「蓮?」 サッシを開くわたし。 「えっ、あっ……」 彼は瞳を泳がせた後、片手を上げた。 「よっ、よう!」  西園寺蓮(さいおんじれん)は、近所の寺の住職の一人息子。わたしと蓮は幼稚園からの幼馴染で中学も一緒。中二になって初めてクラスが同じになった。まあ、くされ縁ってヤツ。  昔から生意気で俺様。でも、容姿端麗なせいか、女子にやたらと人気が高い。どこが良いか分からないけど。  わたしは腕を組んだ。 「ようって、何でアンタがウチの庭にいるの?」 「お前……」 蓮は眉を潜める。 「何も知らないのか?」 「知らないって何が?」 「町中の噂になってる」 「噂、なに?」 「お前ら家族のことだよ、お前は何も感じないのか?」 「それは、どう……」と言いかけた時、背後から母の声が聞こえた。 「あら、蓮君じゃないの」  蓮は母の姿を見た途端、両目を見開き「ひっ」と声をあげる。 「陽葵は中に入りなさい」 母はわたしの肩を掴み後方に引いた。 「黙って人の家の庭に忍び込むなんて悪い子」 「お母さん?」 少し背の高い母を見上げると、母がわたしに顔を向ける。 「陽葵、悪いけどカゴの洗濯物を洗濯機に入れて回してくれないかしら?」 「えっ、でも」  瞬間、母の目が吊り上がり、見たこともない怖い顔になった。 「いいから早く行きなさい!」 「うっ、うん」  わたしは後退りながら部屋を出ると廊下を歩く。なんだ、この違和感。背筋にゾクッと悪寒が走る。洗濯機を回して居間に行くと、父と姉が将棋を指していた。  姉と父が休日に将棋?姉が高校で将棋同好会に入ったのは知ってたけど、父と将棋をするなんて初めてだ。ってか、姉は父を『家族より仕事が大事なサイテー人間』と言って嫌っていたはず。 「ふふ」 「ハハッ」  二人から笑い声が漏れる。 「アナタ達、仲良しね」  唖然としているわたしの前を和かな母が横切って行った。  どう見ても仲の良い家族光景に、わたしの頭はパニくった。それは普段と真逆だからだ。  普段の休日はこうだ。ゴルフバックを持って家を出ようとする父を母が責めている。 『休日のたびゴルフなんておかしいわよ!浮気してるんじゃないの?』 『そんな訳ない』  父はバツが悪そうに玄関扉をスライドして出て行く。その後、母は廊下にしゃがんでシクシク泣くのだ。 『もっと家族思いで優しい男と結婚すれば良かった』 『休日のたびに何やってんの?バカみたい』  泣いている母の横を白いスカートが通過して玄関で磨かれたパンプスを履く。最近、休日のたびに姉は髪を巻いてメイクして、オシャレをして出かける。『どこに行くの?』と尋ねても『アンタには関係ない』と跳ね返ってくるだけなので聞かないけど。何となく予想はしている。  とにかく、これが家族の休日なのだ。 「陽葵、ボ〜ッとして突っ立ってないでこっちに来てちょうだい」 「あっ、はーい」  キッチンから母の声。わたしがキッチンに行くと透明なボールで母が何やら混ぜ合わせている。 「何を作るの?」と聞くと「クッキー」と母は答えた。  母がクッキーを作るなんて小学生の時以来だ。母のクッキーは濃厚で美味しかった記憶がある。わたしはワクワクした。 「生地に混ぜるヤツ冷蔵庫で冷やしてあるから取って」 「はーい」  冷蔵庫を開くと、すぐにタッパー容器が見えた。何か黒いモノが入っている。チョコレートかな?  渡すと母はタッパーのフタを開く。刹那、目にとんでもないモノが飛び込んできて「きゃああーっ!!」とわたしは悲鳴をあげる。 「なに?どうしたの?」 悲鳴を聞いてキッチンに様子を見にくる父と姉。  タッパーには、ゴキブリの死骸が無数に入っている。 「ゴキブリだ!美味しそう!」 ゴキブリをつまんで姉が口に頬張る。 タッパーを頭上に上げる母。 「こら、つまみ食いはダメよ。これからミキサーで粉々にして混ぜるんだから」 「手葵はゴキブリ大好きだもんな〜」 父がメガネのブリッジを人差し指で上げながら笑った。  嘘でしょ!わたしは後退りながら廊下に出た。姉も母もゴキブリは大嫌いなはず。たまに出現するたびに悲鳴をあげていた。ドラッグストアでゴキブリ退治の商品を購入したじゃない。  なのに、姉はゴキブリを『美味しそう』と言って食べ、母はゴキブリクッキーを作ろうとしている。奇妙な笑顔の父。  明らかにおかしい。普段の家族じゃない。わたしは自室のデスクに突っ伏した。窓をコンコンと叩く音。顔を上げると蓮が立っていた。 「蓮!」 サッシを開くと、わたしは彼に抱きついた。 「怖いよ、蓮!家族が普通じゃない!」 「陽葵……」 「町中でわたし達家族が噂になってるって、さっき蓮は言ってたよね?わたしの家族はどうしちゃったの?まさか宇宙人にでも身体を乗っ取られたの?」 「陽葵、俺を見て」 「えっ?」 顔を上げて蓮の目を視界に映す。彼はこう言った。 「陽葵は、ここから逃げなきゃダメだ」 「逃げる?どこに?」 「それは陽葵じゃなければ分からない」  蓮が何を言っているのか理解ができない。でも、今は逃げたい。そう思ったわたしは靴を履くため玄関に走る。      
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