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その途中、足が急ブレーキをかけた。
なぜかというと、居間から姉の泣き声が聞こえたからだ。
そっと半開きの扉から片目だけを覗かす。そこには抱き合う姉と母がいた。
嗚咽をあげて泣きじゃくる姉と、表情を歪め静かに涙を流す母。その横で父も眼鏡を外し正座で泣いていた。
さっきまで笑っていたくせに、なぜ泣くの?わたしは扉をスライドする。
「あっ」
わたしの姿を見た姉は突き放すよう母から離れ、母も慌てて指で涙を拭う。父は無理矢理と分かる不器用な笑みを向けた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
わたしは畳に座り首を振る。もう少し、この不可解な家族を探ってみようと思ったのだ。
何となく部屋の隅に目をやり「あっ!」と発して立ち上がる。歩み寄ると、わたしは緑色の花形の皿を頭に乗せたぬいぐるみを手に取った。幼稚園頃から毎日、抱きしめて寝ているぬいぐるみでカッパのカータン。今朝、いくら探しても見つからなかった。こんなところに……。
母はわたしを見てこう言う。
「背中の縫い目がほつれていたから縫っておいたよ」
「そう、有り難う」
わたしはカータンを胸に抱きしめた。
昼になり、昼食の焼きそばが目前に置かれる。わたしの横に姉。テーブル向こうでは両親が普通にソースが絡む麺を口に運んでいた。
甘い臭いがダイニングキッチンに広がる。ゴキブリクッキーは、ただいまオーブンで焼かれ中。
わたしは無言で焼きそばの上に乗った紅生姜を眺めた。果たして紅生姜は本当に紅生姜だろうか?焼きそばにはキャベツと肉が見え隠れしている。キャベツは?肉は?ゴキブリのせいで疑念を抱いてしまう心が止まらない。
「食べないの?」
母が尋ねてきたので、わたしは慌ててお腹を押さえた。
「最近、食べすぎで太ってきたから気にしてるんじゃない?」
ふふっと笑う姉。
父が言った。
「少しぐらいポッチャリした方がいいぞ。その方が陽葵は可愛い」
姉が箸先を頬にあてる。
「いいよねー、陽葵は元々二重で目が大きいからアイプチ必要ないもんね。髪型はイマイチ、鼻は丸いし唇は私のが色っぽいけど」
「あら」
母が箸をわたしに向けた。
「陽葵はボブスタイルが一番似合うのよ」
みんな、なに言ってんだか。
「ごめん、お腹の調子が良くないみたい」苦笑いで答える。
とても食べられる気分じゃない。
午後になると姉が自分の部屋にわたしを誘った。これも珍しいことだ。普段、姉は扉に鍵をかけ自室には誰も入れないようにしている。母の掃除だって頑なに拒むのに。
わたしが姉の部屋に入ったのは小学四年生以来だった。
後ろ手に扉を閉めると、姉はわたしの前に人差し指を立てた。
「これから私が話すこと、お父さんとお母さんには絶対に秘密だよ」
「うっ、うん」
わたしはベッドに腰を据えてゴクリと唾を飲む。姉は勉強机の椅子に座ると回転してこちらを向いた。
「実は私には大好きな男の子がいるんだ」
「やっぱりね」
わたしは頷く。
「日曜日のたびにデートしてるでしょ?手葵がオシャレして出掛けて行くから予想はしてたよ」
「デートはデートだけど、ちょっと違う」
姉はアイプチで二重にした瞼を天井に上げる。
「だって彼には彼女がいるから……」
姉の説明はこうだ。
姉には高校入学時からクラスメイトで親友の由奈がいる。由奈には中三から付き合っている彼氏がいた。
彼の名前は東上霧斗。霧斗は同じ年で隣町の進学校、桜岡高校に通う未来のエリート候補。高一の頃、姉は由奈に紹介されて霧斗と会ったそうだ。二回目、霧斗は自分の同級生を姉に紹介することになる。同級生の名前は渡部敦彦。
敦彦は姉を好きになり猛アタックするようになるが、姉の心は揺れ動いていた。それは、なぜか?姉は由奈の彼氏である霧斗を好きになってしまったからだ。
わたしは顔を傾けた。
「手葵は何で霧斗君を好きになったの?」
「名前……」
頬を桜色に染める姉。
「初めて会った時、手葵って名前が可愛いって言ってくれたの。私、自分の名前が嫌いだったから驚いた。後は……」
姉の指先が動いて前髪を留めたピン留めに触れる。
「私の誕生日に、由奈にバレないように霧斗がこっそり私にくれたの」
わたしはピン留めを見つめた。
「そのピン留めの飾り、良く見るとカラフルな鞠だね」
「でしょ?虹色の鞠なんだよ。凄く大切。私の宝物なんだ」
姉のはにかんだ口元が可愛く映る。霧斗が大好きって顔に書いてある笑顔だ。
「じゃあ、休日は……」
わたしが疑問を口にすると姉の眉毛がハの字に下がる。
「由奈と霧斗、私と敦彦でダブルデートしてたんだ」
「えっ?手葵は霧斗君が好きなんでしょ?まさか敦彦君と付き合ってるの?」
「うん、私と敦彦は付き合ってる」
「好きじゃないのに、なんで?」
「敦彦と付き合えば霧斗と会えるって思ったの」
「そんな……」
「最悪で最低だよね」
「傷つくよ」
「それも理解してる。本心を知れば敦彦は傷つく。分かっているけどやめられない!霧斗に会いたいの」
「敦彦君は確かに傷つく。でも、わたしが傷つくって言ったのは手葵だよ」
「私?」
「そうだよ。だって休日のたびに由奈ちゃんと霧斗君のカップルを見るんでしょ?わたしなら耐えられない。傷つくよ」
「陽葵……」
姉は瞳を潤ませ静かに微笑する。そして「アンタ、いつまでも子供じゃないね」涙声で、そう言った。
「由奈はおそらく私の気持ちに気づき初めてる。だから、このままじゃいられない。自分の口から正直に話そうと決めたの。敦彦と霧斗にも手紙を書いたんだぁ」
「手紙?」
「うん、LINEだと軽いなって思うから自筆の手紙にした。手紙のが素直に書けるしね。今度の休日、敦彦に手紙を渡して彼から霧斗に渡して貰いたいと思ってた」
「思ってた?」
「あっ、間違えた。思ってる」
「二人に何て書いたの?」
「今までの私の気持ち全部」
姉は一番上段の引き出しを叩いた。
「書いて、ここにしまってある」
「そっか」
睫毛が下がる。
「気持ち、届くといいね」
「うん」
胸までの長いブラウンのストレート髪を耳にかけ、姉も睫毛を伏せる。瞬きすると、下睫毛に溜まっていた涙が一滴だけ頬に落ちた。
なんだか、わたしまで泣きたい気持ちになってしまいそう。
その時、廊下から母の声がした。
「クッキー焼けたよ。二人とも居間においで」
ゲゲッ!ゴキブリクッキーだ!
喜んで居間に走る姉の後を、わたしはゆっくり歩くと居間の隅で体育座りした。
「美味いなぁ〜、このクッキー」
普段は甘いモノが大嫌いなはずの父が絶賛している。母も姉も狂ったように両手に丸いクッキーを持ち貪るように食べていた。
やっぱり宇宙人が家族の身体を乗っ取ったんだろうか?でも、さっきの姉の告白と涙は本物だ。
首を捻っていると母が呟いた。
「休日にアナタが家にいてくれるなんて幸せだわ」
「母さん……」
父は歯で齧ろうとしたクッキーを止めてテーブルに置く。そして向かい側に座る母を見つめた。
「今まで寂しい思いをさせて悪かった」
「アナタ……」
両手に歯形がついたクッキーを持ったまま父に顔を向ける母。母の横に座る姉は、変わらず食べ続けている。
「わたしは今まで仕事ばかりで家庭をかえりみないダメな夫だった。とても反省しているんだよ。でも、これだけは分かって欲しい」
父はあぐら姿勢を正座に変える。
「わたしが仕事を頑張ったのは家庭を守りたかったからだ。この家族がわたしにとっては大切な宝なんだ。勿論、妻であるお前のことだって愛している!」
えっ、まさかの愛してる宣言?わたしは両手を口にあてた。笑いを堪えるためだ。
チビでデブでハゲ、無口な父からこんな台詞が飛び出すなんて。キャラ的に有り得ない。しかも相手は、中年太りでウォーキング三日坊主、三段腹の母だ。
だが笑いたいのはわたしだけのようで居間はシーンと静寂している。いつの間にやら姉はクッキーをじっと睨んでいた。
「アナタ……」
母はテーブル上にある父の両手をクッキーごと包んだ。
「本当は分かってました。分かっていてワガママ言ってただけなんです。困らせてごめんなさい」
「母さん」
父が母の両手を握り返す。すると父の手の甲に乗っていた齧りかけのクッキーがポロリとテーブルに落下した。
「なら、あの離婚届は破り捨ててくれないか?」
「離婚届?」
思わず声を発するわたし。
姉は小さく呟いた。
「サイドボードの二番目の引き出し……」
壁側に置かれた和室に不釣り合いなイタリア製の洋風サイドボード。
「手葵も知っていたのか?」
父は表情を歪めて母を見る。
「アレを見つけたのは三日前だ。離婚届を見た瞬間、目の前が真っ暗になったよ。母さんの悩みの深さを知ったからだ。それと同時に今までの自分を反省した。母さん、お願いだから離婚なんて考えないでくれ。悪いところは直すから」
「アナタ……」
母の両目が見る見る涙に溺れてゆく。
「あれはいざって時の脅し用です。本当は離婚する気なんてありませんよ」
「本当か?母さん」
「はい、お父さん、私も愛してます」
木目調に輝くテーブル上で固く繋がれた手と手。夫婦愛。
なんだ、この展開。バカみたいだけど、何だか胸が熱くなる。姉は再びクッキーを食べ始めた。わたしは天井を見上げ涙を瞳の奥に戻す。感動したなんて恥ずかしくて死んでも言えない。
でも、何だろ?流れる空気がくすぐったくて温かい。生まれてから初めて感じる思い。家族っていいなって思った。
午後四時、西陽が緩く差し込む和室で、わたし達、四人はボードゲームをすることになった。父が押し入れに眠っていた人生ゲームを引っ張り出してきたからだ。
最後にゲームをしたのはいつだっけ?ずいぶんと遠い昔のような気がする。まずは$5000からスタート。
ジャンケンで勝った人から右回り、最初は父がルーレットを回した。緑色の車型コマが四マス進む。父は「トントントン、トンッ!」と言いながらマスにコマを置く。【幼稚園入園、全員から祝い金$1000を貰う】
「うほほーい!」
喜ぶ父。
「ちっ、何だよー」
わたし達は父に紙幣を一枚ずつ渡した。
次は母、次は姉、ラストがわたしだ。ルーレットを回し、良いマスで止まれば跳ねて喜び、悪いマスで止まると悲痛な表情で肩を落とす。
父は人生ゲームでも製薬会社の社員になった。母は美容師、姉はなんとアイドルだ。
「アイプチのアイドルなんていないよ」と、わたしが言うと姉は口を尖らせてこう言った。「大丈夫、アイドルで稼いで整形するから」
「アハハハッ!」
皆んなで爆笑。
次はわたしの番。ルーレットの番号で職業が決まるのだ。勢いよくルーレットを回す。数字が8で止まる。8はフリーターだ。
職業カードを渡されて、溜め息を吐く。「給料、ルーレットで決まる職業じゃん」
「どんまい!」
姉がわたしの肩を軽く叩いた。
「アイドルもルーレットだから一緒だよ」
三度目の給料日マス通過後、父がポツリ呟く。
「母さんと出会ったのはこの頃かな」
母が父に笑顔を向けた。
「そうですよ。互いの友達の紹介でしたよね?」
「ああ、初めて母さんを見た瞬間、わたしの胸はときめいたよ。君があまりに可愛かったからだ」
「あら、私だってアナタに一目惚れでしたよ。だってカッコイイですもの」
「いやいや、母さんの可愛さには負けるよ」
「いえいえ、アナタの方が……」
「コホンッ!」
姉が拳に咳払いを落とした。
「後がつかえてるから早く進めて」
段々とゲームが進むと、姉が結婚することになる。皆で御祝儀を姉に渡す。父と母は独身のまま、次に結婚したのはわたしだ。
「いいなぁ〜」
姉が呟く。
「いいなって手葵だって結婚したじゃん」
「そうだけどさ」
「手葵」
母が姉の肩に手を置いた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
姉は頷いた。でも酷く寂しそう。
わたしが食い入るように姉を見ていると父がルーレットを回す。
更にゲームが進むと姉に子供が産まれた。皆、「おめでとう」と出産祝い金を渡す。すると姉は畳に両手と額をつけて泣き崩れた。
「手葵、泣かないで」
母が姉の背中を抱きしめる。
父がわたしに顔を向けた。
「陽葵はどんなヤツと結婚して何人、子供を産むんだろうな」
楽しかった人生ゲームに異様な空気が淀んで沈む。わたしはオロオロしながら「そんなの、まだ先だよ」と言った。
「うわああああーーっ!!」
姉の泣き声が大きくなり、和室のあちこちにナイフみたいに突き刺さる。すると姉は、突然、泣き声を止めてガバッと顔を上げた。
「あっ、足音が聞こえる」
父と母は視線を合わせると無言で頷き立ち上がる。父が眼鏡を外し、畳に落とした。
「もう、タイムリミットだ」
「タイムリミット、何が?」
キッチンに歩いて行く両親の背中に問いかける。
間もなくキッチンから「ぎゃああああーーっ!!!」と悲鳴が響いた。
母だ。立ち上がりキッチンに走る。そこには信じられない光景が……。わたしは両目を限界まで見開いた。
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