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「その表情、全て思い出したんだね」
医師が握る手に力を込める。それと同時に現実がわたしを捉えた。
三日後、医師の許可を得た刑事二人が病室に訪れた。二人とも男性。一人は、白髪混じりの中年、もう一人は黒い短髪の若い青年。二十代後半か。
わたしは刑事に見たまま、全てを話す。
「なるほど、分かりました」
中年刑事は頷くと、目の前に一枚の写真を差し出した。
「この男はアナタを襲った加害者です。この男は、ご両親やお姉様を殺害した男ですか?」
黒いマスクの上の異様に垂れ下がった両眼。そう、わたしはあの男の目を覚えていた。
「間違いありません。家族を殺したのはこの男だと思います」
わたしは俯いていた顔を上げた。
「刑事さん、男は捕まったんですよね?」
「はい、彼の名前は村松俊雄。お父様と同じ製薬会社に勤務する社員でした。アナタを襲った後、捕まえて連行しようとしましたが、この病院から外に出た瞬間、何ものかに射殺されてしまったんです」
「射殺……」
ゴクリと唾を飲む。
「村松の部屋から、アナタの家族を殺害した証拠の凶器を押収できましたのでヤツの犯行に間違いはないんです。しかし死人に口なしで、犯行に至った動機が不明なんですよ。でね、ここからはわたしの刑事としての直感なんですが、わたしは村松の背後に得体の知れない暗闇を感じるんです」
「暗闇?」
「はい。これは彼一人が単独で起こした殺人事件じゃないことは明白。口封じに村松は殺された。村松の遺体の銃痕は的確に心臓を撃ち抜いていました。これはプロの仕業です。背後には恐らくプロに殺人を命じた雇い主、つまり黒幕がいると睨んでいるんです」
「黒幕……ですか?」
「はい、調べによると、お父様と村松が勤務していた製薬会社は一昨日、エボストのワクチンをどの製薬会社より早く開発して話題になりました。こんな短期間でワクチンの開発ができるのでしょうか?まあ、素人考えなので確信はありませんが、わたしは、この点に疑問を持ちました。ですから、村松だけではなくお父様の交友関係も調べさせて頂いたんです。そしたら……」
「そしたら?何ですか?」
「お父様の友人にウイルス研究所で働く田辺という男性がいると判明したんです。しかも田辺さんは自殺していました」
「田辺……」
どこかで聞いた名字。わたしは記憶の糸を手繰り寄せる。すると、死んだはずの家族と過ごした朝食風景が浮かんだ。
確か、父と母の会話の中で『田辺』という人が自殺したと聞いた。でも母は自殺じゃないと断言したのだ。それに父は首肯した。父の言葉を思い出す。
『黒幕は日本政府だ。ウイルス研究所にエボストをワザと流出させたんだよ。ホテルで首吊り自殺をする前日、田辺はわたしに会いにきて、そう言った。その時にわたしは彼から大切なモノを預かった。何かの鍵だ』
「あっ!」
声を発したわたしに中年刑事の頬筋がピクッと上下する。
「何か思い出したんですか?」
「はい!」
わたしは父の言葉を刑事に伝える。若い刑事が中年刑事の肩を掴んだ。
「これが本当なら……」
「ああ、言わなくても分かる。大事件だ」
「これで全てが繋がったぞ」
中年刑事は腕を組んだ。
「政府とウイルス研究所の暗躍の証拠を研究員の田辺さんは掴んだ。だから田辺さんは自殺に見せかけて殺害されたんだ。だが、田辺さんは自分の命が狙われていることを察知し、前日、お父様に鍵を渡した。それは、恐らく証拠品を隠した場所を開く鍵に違いない。それを見ていた誰かがいた」
若い刑事が顔を傾ける。
「見ていた誰かとは?」
中年刑事を見上げるわたし。彼はわたしを見下ろして答えた。
「恐らく製薬会社に勤務している、お父様と近しい誰かでしょう。その人物によって製薬会社の上が動き、お父様と部所の違う顔馴染みのない村松に殺人と鍵の回収命令が下された。政府とウイルス研究所、製薬会社の上層部は裏で繋がっている」
「でも、なぜ政府はエボストをウイルス研究所に流出せたのでしょうか?」
若い刑事の問いに答える中年刑事。
「年金問題と人口比率だ。エポストで亡くなるのは老人だけ。政府は年金の逆ピラミッドを正位置に戻したかった。増えすぎた老人人口を減らしたかったんだよ。だからエボストを流出させるよう命じた。恐らくウイルス研究所に多額の裏金が動いているはずだ。製薬会社はエボストの流行前よりワクチン開発に取り組み、ワクチンで多額の利益を出す。製薬会社から政府に多額の裏金が動いているに違いない。だが、これは現時点、あくまで推測の域を出ない。重要なのは、政府とウイルス研究所、製薬会社が繋がる証拠だ」
中年刑事は丸椅子に腰を降ろした。
「鍵は?鍵の詳細について、お父様は何も言っていませんでしたか?」
父も母も詳細は知らなかったはず。
「いいえ、何も聞いていません」
わたしは首を振った。
「そうですか……」
中年刑事は肩を落とす。
「もしかしたら村松は鍵を手に入れた後に、アナタの家族を殺害したかも知れませんね。……だとしたら証拠は破棄されているでしょう。立証する術は何もない。非常に残念で悔やまれます」
鍵は、もうないんだろうか?それとも、どこかに……。
後日、無事に退院したわたしは、迎えに来た叔母さんの車の助手席に乗った。
走り出す白い軽自動車。
「これからのことだけど、心配しないでね。叔母さんが責任を持って陽葵のお母さん変わりになるからね」
「有り難う、叔母さん」
わたしは窓の外、秒速に流れる景色を目で追いながら鬱な礼を伝えた。
もう、どこを探しても自分の家族はいない。その現実だけが、まだ夢の世界を彷徨っている。
だから、涙など流れるはずがない。こんな残酷から目を背けたかった。受け入れない、認められない。
叔母さんのアパートの二部屋続きの奥部屋から百合の花と線香の匂いがして、わたしは襖を閉め目を背けた。
三人の葬式日に意識不明だった自分に感謝だ。知りたくない現実。それしか生きる術がない。
……今は、ただ、浅い眠りに微睡んで必死に呼吸を繰り返すのが精一杯だった。
叔母さんは独身の一人暮らし。わたしを本当の娘のように可愛がってくれる。緩やかな時間が経過して、わたしが三人の遺影と対面できたのは、一か月後のことだった。
仏壇前、無数の花に囲まれた経机の上に父、母、姉、それぞれの遺影が飾られていた。三人共、笑顔だ。位牌に目をやる。だけど、やっぱり涙は出なかった。
まだ、自分は夢の中を歩いているんだろうか?
わたしが、かつての自宅前に立ったのは、それから三ヶ月後のことだった。
叔母さんの家からこの場所へは徒歩十分弱。
平家の一戸建ては、外観を何も変えずに佇んでいる。だが、門を潜ると変化があった。長い間、放置されていた垣根が伸びている。庭にスニーカーを進めると背の高い雑草が目立っていた。
「陽葵?」
背後からふいに声をかけられて振り向くと、この場所で会いたかった人が立っていた。
「蓮、会いたかった」
わたしはまだ中学に復帰できていない。彼に会うのは病院以来だ。
「どうしても、アナタに聞きたいことがあるの」
わたしは彼を直視する。蓮は「分かってる」と頷いた。
「あの日、この家には黄色い規制テープが張られていた。俺はそれを潜ってこの場所に来たんだ」
「なぜ?」
「それは、お前の母親、叔母さんに呼ばれたからだ」
「お母さんに?だってお母さんは……」
「うん、もうこの世の人ではなかった」
「蓮には霊感があるの?」
「うん、寺の息子だからか知らないけど、父親譲りで霊が見えるんだ。だから、病院にいるはずだった陽葵の姿も見えた。最初はさすがにビビッた。だって、お前、透けてたから。死んだのかと思った」
「そっか……」
「その後、叔母さんの霊が現れた。そして、俺に全てを教えてくれたんだ」
「お母さんは蓮に何て言ったの?」
「エボストの秘密のせいで自分達が殺されたこと。顔を見られ、一人生き残ったお前の命が殺人者に狙われていることだ」
蓮の口から語られた、あの日の母と蓮の会話。
『お願い、蓮君、陽葵を助けて!』
『助けるって、どうやって?』
『陽葵は今、精神的ショックからか意識不明状態。魂が身体から抜けてしまっているの。何とかして目覚めさせないと、あの男に殺されてしまう!それには、あの娘がこの場所から逃げたくなるように仕向けなければならない。例えば恐怖。あの娘に本気で逃げたいと思わせないと魂が本体に戻る道が開かないのよ』
『本体に戻る道……』
『そう、だから陽葵が逃げてきたら、蓮君は待っていて、あの娘に伝えて欲しい。道が見えたら飛び込めと』
風が緩やかに流れ、蓮の黒い前髪を揺らした。
「だから俺は、お前が家から逃げてくるのをずっと待ってた。だけど最初のお前は道が見えてなさそうだった。だから、今じゃないと思ったんだ。その後、お前の父親の声が頭に響いた」
「お父さんは何て言ったの?」
「もっと、お前に本気で逃げたくなる恐怖を与えるから待ってくれって。だから、俺は待った。そしたらお姉さんの声が聞こえたんだ。『殺人鬼の靴音が陽葵の病室に近づいてる。時間がない!』って」
そうか。あの恐怖には、そんな訳が……。
蓮は空に顔を上げた。
「三人共、必死に陽葵を助けようとしてたよ」
「うん」
わたしも空を視界に映す。今日は良く晴れて青く澄み渡る空だった。
「だから悲鳴をあげろって言ったんだね」
「うん、俺が超特急で駆けつけるまで無事でいて欲しかった」
「ねぇ、蓮」
「ん?」
「有り難う」
「なっ、なんだ急に!」
「だって蓮は命の恩人だから、助けてくれて有り難う」
「なあ、陽葵」
蓮に肩を掴まれて視界を戻すわたし。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ。怪我はなかったから」
「じゃなくて、心、大丈夫か?」
「心」
わたしは自身の胸に手をあてた。そう、今からわたしは前に進むため、現実に戻らなければならない。そのために戻ってきたんだ。
「蓮、もうちょっとだけ付き合ってくれる?」
わたしはそう言うと、中学のウィンドブレーカーのポケットから自宅の鍵を取り出した。
玄関扉をスライドして家の中に入る。そこには見慣れた長い廊下が真っ直ぐに伸びていた。ワックスでピカピカだった廊下に薄く白い埃が積もっている。
でも、長年、馴染んだ懐かしい匂いが、カビ臭さに混じって駆け回り遊ぶ幼児のよう鼻腔をくすぐった。
最初に向かったのは姉の部屋。姉は自室で殺害されたのだ。フローリングにチョコレートみたいな血痕が残っている。胸にズンッと鉛が落ちた。あの日、姉から打ち明けられた秘密を思い出し、わたしは勉強机の最上段の引き出しを開く。
宛名が記載された封筒が二枚。わたしは姉の手紙を胸に抱いてからポケットに入れた。
次に向かったのは自室。男に追われる怖い夢から目覚めた朝、この部屋のベッドから、あの一日が始まったのだ。
もう、この空間に戻ることはないのだろうか?
最後、わたしは居間の扉を開く。当時のままなのか、現場検証したせいなのかな?部屋は酷く散乱している。真夜中だったから敷きっぱなしで斜めになってる布団が悲しい。テレビやテーブルに積もった埃が、時間の経過を伝えてくる。畳に残るどす黒い血痕に、思わず唇を噛んだ。
「陽葵、これ」
蓮が何かを見つけて拾い上げる。
「あっ……」
わたしは駆け寄った。
「これ、人生ゲーム」
父が押し入れから引っ張り出してきたボードゲーム。あの日、西日が差し込むこの場所で……。
ポツリと放つ言葉が夕日に透ける。
「あの日、家族で笑いながら人生ゲームしたんだぁ〜」
「うん」
「お父さんもお母さんも手葵も自分もバカみたいにハシャいでさぁ〜」
「うん」
「凄く楽しかった」
「うん」
「でも、ゲームの途中で手葵が泣いたの。……結婚して子供を産んだら泣いちゃったんだよ」
「うん」
「泣きながら手葵はどんな気持ちだったんだろう?泣く手葵を抱きしめたお母さんの気持ち……」
父の言葉が浮かんだ。
『陽葵はどんなヤツと結婚して何人、子供を産むんだろうな』
どんな気持ちで……。
「うっ、あぁ……」
ヤバい。足の爪先から燃えるような熱さが這い上がってくる。これが現実だ。現実が火柱になり全身を燃えたたす。
「うあっ、あああぁ……」
みんなの笑顔。なぜ、失わないといけないの?なぜ、わたしの家族なの?
「陽葵……」
強く肩を引き寄せられ、視界が黒く染まる。背中に両手が回り、蓮が、わたしを抱きしめた。
わたしが逃げた後のアナタ達が分かっちゃうんだよ。絶対に三人は抱き合って泣いていた!
「うあああっ、ああああーっ!!」
現実が怖い!苦しい!息が絶え絶えになってしまう!わたしは、込み上げるマグマみたいな灼熱を絶叫に変えた。
「ぎゃあああああああーーっ!!!」
こんな絶叫を、こんな苦しみを、こんな残酷を、わたしは知らずに今日まで生きてきた。それは家族がいたから、いつの日も守られて一人じゃなかったから……。
でも、やっとわたしは泣けた。泣くことができたんだ。
現実に戻るため、わたしは嗚咽と絶叫を混濁し、カラカラな砂漠になるまで泣き続ける。
どのぐらい泣いたのか分からない。でも蓮はずっとわたしを抱きしめる両手を緩めずにいてくれた。
しつこく下睫毛に溜まった水滴を拭う。彼に「有り難う」と伝え、窓に目を向けると夜が薄っすらと降りていた。
最後にやらないといけないことがある。わたしはサイドボードの二段目の引き出しから一枚の用紙を取り出した。
離婚届。最初から両親には必要ないモノ。わたしは用紙をビリビリに破り捨て、和室の隅に転がっていたカッパのカータンを胸に抱きながら部屋を後にした。
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