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一休みしたあと、我々は再び立ち上がり森の探索を始めようと足を進めた。
しばらく行くと猫が右前足を前方に向けて叫んだ。
「ご主人。あれをごらんニャさい。」
それは蔦で覆われてはいたが杭で打ち付けられた木製の古い案内看板だった。
「全部、食べられる洋菓子店、この先20メートル」
それでグリム童話のヘンゼルとグレーテルのお菓子の家を思い出し、子供の頃の夢が蘇る。
その洋菓子店の看板の古びて、かつては黄色いペンキで描かれていたのであろう文字を見つめた瞬間、唐突に時が流れ始めたかのように空腹が私を襲った。
胃袋がキュウキュウと音を立てる。足元がフラフラと揺れる。森の中を歩きまわった疲れも重なり、尋常じゃない空腹感だった。まるで何日も何も食べていないかのような、飢餓感だ。森の中をさまよい続け、実際、朝から栄養を補給していない。本当に洋菓子店があるのかわからなかったこの場所で、不安が安心に変わり、その反動が痙攣のように胃袋を締め付け、思考を支配していく。
それは希望であり純粋に食欲でもあった。私はそれを胸に、一歩また一歩と獲物を見つけた狩猟犬のように目を吊り上げて前に進む。
森を抜けた先にあったのは、信じられない光景だった。まるで絵本から飛び出したような洋菓子店がそこにあった。壁や屋根、開かれたドアの向こうに見えるテーブルや椅子まで、全てお菓子でできているように見える。目を疑うような光景に、思わず立ち尽くす。
甘い香りが辺りに漂い、鮮やかな色彩が視界を埋め尽くす。チョコレートでできた壁、キャンディで飾られた屋根、クッキーのテーブル、マシュマロの椅子。夢のような空間は、五感を刺激し、空腹感をさらに高める。
しかし、ふと我に返る。本当に食べられるのだろうか?奇妙な空間に不安を感じながらも、好奇心と空腹が疑念に勝る。意を決して、一歩足を踏み入れる。
財布には現金が15万円ほど入っている。支払いには十分だろう。しかし、本当にこの家は全部が食べられるのだろうか? それ以前に、この奇妙な空間で、本当に食事をさせてもらえるのだろうか?また不安が脳をよぎる。
しかし、やはり好奇心と空腹が勝る。今では空腹が背骨を突き刺すようだ。こんな奇妙な体験は二度とできないかもしれない。未知への期待と一抹の不安がせめぎ合う。
意を決して、森の果ての開かれた広場の敷地へ一歩足を踏み入れる。その先では洋菓子店の煙突から広がる、バターと卵と小麦粉を焼いたときの甘い香りが鼻腔をくすぐる。その夢のような空間に私は一歩また一歩と歩み寄っていく。
これから何が起こるのか?本当に食べられるのだろうか?期待と不安が入り混じり、心臓が早鐘のように鼓動する。未知の体験への扉をくぐった。
しかし店内には誰もいない。すみませんと声をかけてみたが誰も出てくる気配がない。私は我慢できずにとりあえず手近にあったテーブルに飾られた花を抜き取り、匂いをかいで見た。たしかに甘く麗しい芳香が漂ってくる。食べられそうだ。
私はわくわくしながら即座に、ちぎり取った花びらの洋菓子を口に運ぶ。渇望していた甘味を摂取できる喜びを激しく感じ、それを口にいれるまでの動きがとてもスローモーションに感じた。
ごくり。と大きな低音が響いた。それは私の体内の音ではなく、この空間そのものを鳴らしているようだった。
その証拠に、店内から突然照明が消され、眼の前がブラックアウトして地震のように床がしばらく揺れた。
私は意識を失おうとしていた。
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