6 -Moonlight Serenade-

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6 -Moonlight Serenade-

 夏休みもあと十日ほどになった、月曜日の夜のこと。わたしは週末の京都旅行に向けて、荷造りを始めていた。パパにはまとまった休みもないし、わたしは学校の行事以外では旅行に行ったことがない。だから、早めに旅の準備しておこうと思っていた。  そのとき、「ピンポーン」と自宅のチャイムが鳴った。グランマの声がして、玄関の扉が開いて閉まる音がする。宅配便だろうか。  わたしは部屋の窓から、門の向こうの車道を見やった。特に車が停まっている様子はない。外から、かすかに男の人の話し声が聞こえる。  突然わたしの頭の中で、その声が記憶の一部と結びく。わたしは反射的に窓ガラスに張り付き、玄関の前をのぞき込んだ。パパの背中の奥に立っていたのは、誠也さんだった。  わたしはいてもたってもいられなくなって、階段を降りて玄関に向かう。誠也さんには京都に行けることになったという連絡はしていたけれど、誕生日の前日に”Misty”に会いに来てくれたきり、直接会ってはいなかった。誠也さんの方からパパに会いに来るなんて、よほど重要な話をしているのかもしれなかったけれど、わたしはただ一秒でも早く誠也さんに会いたかった。  玄関までたどり着いたとき、それでも二人が大切な話をしていたらと思うと、わたしは少し躊躇した。ゆっくりと扉を開けたわたしの目と、真面目な顔をして話をしていた誠也さんの目が合う。 「小百合、元気?」  すぐに笑顔を作ってそう聞いた誠也さんは、今夜は仕事ではなかったのか、スニーカーに、Tシャツとショートパンツ姿だった。誠也さんの視線の先にいたわたしを、パパも振り向いて見つける。 「うん、元気。」  そう答えると、わたしは吸い寄せられるように玄関の外へ出た。そしてパパの横を通り過ぎ、誠也さんの目の前に向き合う。 「大切なお嬢さんを、少しお借りしていいですか?」  誠也さんが、パパの方を向いて丁重に聞いた。パパはちょっと不満そうに、誠也さんの方を見る。 「長くて五分。おまえは明日から関西なんだから、早く帰って寝ろ。」  パパはそう言い残すと、家の中に入っていった。  わたしは改めて、誠也さんの方に向き直る。言いたいことも聞きたいこともたくさんあったような気がするけれど、今はただ誠也さんに会えたことが嬉しくて、言葉が出てこない。パパから与えられた五分間という短い時間で、何を話したらいいんだろう。 「どうしたの? パパと、なんの話をしていたの?」  わたしは取り急ぎ、今さっき気になったことを質問した。 「うん、小百合とのことを報告して、たぶん許してもらったところ。」  誠也さんの言葉が、わたしの頭の中にあるレコードに針を落とす。星森誠也トリオも演奏していたグレン・ミラーの名曲、”Moonlight Serenade”が流れ始める。セレナーデとはその昔、男の人が女の人の家の門前で、愛を伝えるために奏でた音楽のことらしい。  誠也さんは、パパとはわたしの話をしていたんだ。今夜はわたしのために、わざわざ来てくれたっていうこと? 嬉しさを隠しきれず、わたしは自然と口元が緩む。 「こないだは、無責任なこと言って、ごめん。」  急に誠也さんが、申し訳なさそうに謝った。 「なんのこと?」 「おれの父親に、聞いたよ。なんで、あの人を養子にしたのかって。」 「あ…。」  わたしは、このあと何が誠也さんの口から語られるのか、急に怖くなった。わたしが知りたがったから、誠也さんは確かめてくれたはずなのに。だけど今はもうあのときとは違って、真実を知ることが怖いよ。今ここで、誠也さんと永遠に向き合っていたい気持ちになる。ついこの間までは、怖いものなんてなかったはずの十五歳だったのに。十六歳になったわたしは、自分でも驚くほど臆病になってしまったみたい。 「わたしこそ、あのときはごめんなさい。知らずにいたいこともあるって、気がつけなくて。」  誠也さんが何事もなかったかのように接してくれるから、ついそのままにしてしまいそうだったけれど、わたしはずっと謝りたかったことを伝えた。 「わたしもパパと話をしたよ。パパはずっと一人だったから、オーナーが実のお父さんかもしれないって思えることが、パパのなぐさめなんだって思った。だからパパは本当のことは、あえて知りたくないんだと思うの。」 「小百合は? 知らずにいたいの?」  誠也さんが、真面目な顔で聞いた。  パパには、わたしも知らなくていいって答えたけど、本当のところはどうなのか、わたしは自分に問いかけてみる。 「わからない…。だって、もしオーナーとパパに何の関係もなかったら、パパはがっかりすると思う。でももしオーナーがパパのお父さんだったら、それを知っちゃったらもう、わたしは誠也さんとは一緒にいられなくなっちゃうし…。だからわたし、どっちだったとしても本当のことを知るのが怖くて…。」  わたしは、言葉に詰まる。パパのことを考えたら、わたしは誠也さんとは友達でいた方がいいに決まっている。でも誠也さんに手を引かれたら、それを振りほどくなんてこと、わたしにはできない。  黙ってわたしの話を聞いていた誠也さんだったけど、急にその右腕で優しく抱き寄せられた。誠也さんの鎖骨の下に、わたしの左耳が押しあてられる。誠也さんの体温を感じて、わたしの心臓が急に大きく鼓動する。 「おれも、真実を知るのが怖かったよ。でも、このままずっと気になってるのも嫌だった。」  誠也さんの胸からわたしの左耳に響く声は少しくぐもっていて、さっきまで空気をとおして聞いていたものとは違って聞こえた。 「おれの父親が言うには、たまたまあの人が自分の経営する店で働き始めて、その仕事ぶりが特別に気に入ったんだって。あの人にはすでに肉親はいなかったし、ずっと自分のそばに置いておくつもりで、養子にする話を持ちかけたって言ってた。  あと、おれの父親の認識では、実の子どもはおれだけらしい。でも若いころはいろんな女性とそれなりに深い関係になって、そのあと自然消滅ってことも多かったらしいから、知らないところでおれの兄や姉が存在しても否定はできないらしい。おれには、女性と交際するときはよく考えるように、なんて言ってたけどね。」  わたしは思わず、顔を上げた。本当のことは、オーナーでもわからなかったんだ。  顔を上げたことでわたしの視界に入ってきた誠也さんは、優しい表情で、わたしを見つめていた。 「おれはやっぱり、知りたかったみたい。おれがあの人を尊敬してるのは事実だけど、それ以上におれの父親から特別に評価されるあの人に、ずっと嫉妬してた。大人になればなるほど、おれは一生かけてもあの人を超えられないんじゃないかって、途方にくれてた。だけど小百合のおかげで直接父親に話を聞くことができて、少し納得できたよ。ありがとう。」  あのときの、どっちでもいいとか気にしてないっていう言葉は、強がりだったんだ。誠也さんがそんな複雑な気持ちを抱いていたなんて、気がつかなかった。誠也さんがパパに対して反抗的な態度を取っていた理由が、今やっとわかったような気がする。 「おれは今まで父親から指示されるのを待ってただけで、自分から質問したことなんてなかったし、なんかやたら緊張したよ。おれの方こそ、子どもだね。小百合に子どもだなんて、言っときながら。」  誠也さんはそう言って、ばつが悪そうに少し笑った。 「誠也さんはオーナーに、もっと自分を認めてほしいって思ってたの? だから、がんばりすぎて疲れちゃってたの?」  わたしは聞く。 「そうだね。父親はおれに厳しくするばっかりで、なんでも自分の思うとおりにできて当然って感じだったし、あんまり褒められたこともなかったから…。格好悪いって思った?」  誠也さんは片方の眉毛を釣り上げて聞いた。  わたしは、ママのアップライトピアノで毎日、欠かさずに基礎練習をしていた誠也さんの姿を思い出す。 「ううん、どんな誠也さんも格好悪いときなんてないよ。でもね、パパは誠也さんのことを本当に大切に思ってるから、もっと素直に可愛がられてほしいな。」 「わかったよ。小百合は本当に、あの人が大好きだね。」  わたしの言葉に、誠也さんはしみじみとそう言いながら、わたしの頭の上に優しく左手を置いた。  それはわたしにとって、とても特別なことに感じる。誠也さんと心が通じたように感じた今夜のことを、わたしは一生忘れられないと思った。 「長くて五分って言われちゃったからね、もう帰るよ。最終日のジャズクラブは、あの人のコネで週末にしてもらったから、期待に応えないと。」 「そうなんだ、楽しみにしてる。」  本当に京都の有名なジャズクラブに、誠也さんの演奏を聴きに行けるんだ。わたしは初めて実感したような気がして、嬉しくなる。 「おれ、なるべく早く自立して、世界で通用するピアニストになるから。」  誠也さんは、急に真剣な顔つきになって、そう言った。  そして、そっとわたしから両手を離すと、優しい表情に戻って言う。 「おやすみ、小百合。」 「おやすみなさい。」  わたしが挨拶を返すと、誠也さんは軽く手を振ってから帰宅の途についた。  誠也さんなら、なれるよ。どれだけ技術が進歩して、たとえ生演奏さながらの音質や映像で、いつでも音楽を楽しめるようになったとしても。誠也さんの演奏を直接体感したいっていう人たちが、世界中から集まるようなピアニストに、きっとなる。  生まれ持った才能と恵まれた環境があって、それだけでも誠也さんは選ばれた人だと思う。だけどそれに甘んじることなく、三歳から今も毎日ずっと、そして昨日よりもっと、絶えず努力し続けてるんだもの。  今夜、誠也さんがわたしとのことを真剣に考えてくれて、嬉しかった。そして今までよりもオーナーともパパとも絆が深まったみたいで、よかった。これからはもっともっと、誠也さんのことを知りたい。わたしはまだ、誠也さんのことをぜんぜん知らないんだから。  わたしは誠也さんの姿が見えなくなっても、しばらくその場に立ちつくしていた。そしてこの五分間の出来事を何度も反芻して、味わい続けていた。
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