3 -Fly Me To The Moon-

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3 -Fly Me To The Moon-

 わたしが誠也さんと一緒に帰宅すると、まずグランマは驚いた表情を見せた。けれど誠也さんがオーナーの息子だとわかってからは納得した様子で特に何も聞かず、笑顔で誠也さんに声をかけた。 「うちにはアップライトピアノしかないけど、ちゃんと調律してあるから好きに使ってね。泊まるのは、ピアノがある部屋でいいかしら。」 「突然お世話になることになって、すみません。ありがとうございます。」  誠也さんはそう言うと、グランマに頭を下げた。  わたしはそのとき初めて、誠也さんの良識ある姿を見た。すごく変わった人かもしれないと思っていたけれど、ピアノから離れたら、案外普通の人なのかもしれない。  パパはオーナーの自宅で事情を話したあと、オーナーの奥さんから誠也さんの身の回りのものなどを預かってから帰宅した。誠也さんはグランマの提案どおり、ママが生前クラシックピアノの練習をするために使っていた部屋で、グランパが生前使っていたベッドで眠ることになった。  翌朝から、わたしは予定がなくても目覚ましをかけて早起きした。誠也さんを自宅に招いたからには、グランマの仕事を増やさないように率先して働かなければいけないと思ったからだ。  グランマはグランパと結婚してからずっと専業主婦で、家事全般を担当してくれている。家の南側にある庭で育てた野菜を食卓に出すのが、グランマのささやかな楽しみらしい。グランマはお友だちが多くて習い事もたくさんしていて、毎日いろんな予定があっていつも忙しく過ごしている。  誠也さんは普段はランチ、ディナー、バータイムと、何箇所かの飲食店でピアノを弾く仕事をしている。朝は決まった時間に起きて、仕事に出かけるまでは休みなくピアノと向き合っている。毎日三十分以上は基礎練習をして、そのあとは仕事の予習をしたり、トリオのリハーサルに向けて練習をしたり。一日でも練習を休むと取り戻すのに三日かかると聞いたことがあるけれど、今の実力を維持するにも毎日練習が欠かせないなんて、ピアニストって大変な職業だ。  誠也さんがわたしの家で暮らし始めて、何日か経った日の朝のこと。誠也さんがピアノの練習をし始めた音を聞きつけて、わたしは誠也さんの部屋をノックした。 「はい。」  返事があったので、ドアを開ける。誠也さんはアップライトピアノの前で、黒い長椅子に腰掛けたまま振り返った。  わたしと目があった誠也さんは、「なんだ、おまえか」というような、拍子抜けした表情をする。厳しいパパやお世話になっているグランマじゃなくて、身構えて損をしたという感じだ。 「絶対にじゃましないから、ここにいていい?」  わたしは、構わず聞く。 「ただの練習だから、つまんないよ。」  そう言うと、誠也さんはピアノに向き直り、基礎練習を始めた。ひとつのスケールをいろんなリズムで、ひたすら登っては降りてをくり返している。  わたしは小さいころ、ママがよくクラシックを弾いていたというこのアップライトピアノに興味を持って、何度か自分で音を鳴らしてみたことがあった。けれど今、誠也さんが奏でている音は、そのときわたしが鳴らした音とはまったく違う。とても同じ楽器から聴こえる音とは思えない。うちの古いアップライトピアノでも、ちゃんと誠也さんの音を鳴らすことができるなんて、やっぱり誠也さんはすごい。  十五分くらい経ったころ、誠也さんが練習を中断して振り返った。ベットの上に座っているわたしに対して、迷惑そうな顔で口を開く。 「やっぱり集中できないから、そろそろ出て行ってくれない? 今日はランチタイムに演奏があるから、もう出かけないといけないし。」  誠也さんのじゃまになるのは、わたしの本意じゃない。わたしは、おとなしく立ち上がった。ドアに向かう途中で、誠也さんの方を向いて素直に謝る。 「わかった、ごめんなさい。今日は、どんなお店でピアノを弾くの?」 「高級焼肉店だよ。」 「今度、聴きに行きたいな。」 「お客が会話と食事を楽しむためのBGMとしての演奏だから、派手なことはしないし、つまんないよ。それに本当に高級店だから、小百合のお小遣いじゃ、ランチすら食べられない。」  そう言った誠也さんは真顔だったけれど、口元にうっすら笑みを浮かべていたのを、わたしは見逃さなかった。また子ども扱いされたことに気がついて、わたしはふてくされながら部屋を後にした。  その日の夜、わたしはいつものように、”Misty”のカウンターの一番端の席に座っていた。そしていつものように、ダニエルが作ってくれたリトル・リリー・スペシャルを片手にステージを見つめていた。梅雨は明けたにもかかわらず今日はあいにくの雨で、店内は空いていた。 「ねえ、あの日からずっと、誠也くんが小百合ちゃんの家にいるの?」  ダニエルがカウンターの中から、興味深そうに聞く。 「うん、そうだよ。誠也さんはすぐに馴染んで、普通に過ごしてるよ。」  わたしがそう答えると、ダニエルは意外そうに言った。 「へえ、なんか想像つかないなあ。誠也くんって他人と共同生活なんて無理って感じの、天才にありがちな気難しい人かと思ってたけど。」 「どちらかと言うと、気難しい人で合ってると思うよ。でも、うちでは礼儀正しくしてるから、グランマも誠也さんのこと気に入ってるみたい。」 「やっぱりあれかな、店長って、表向きはオーナーの養子ってことになってるけど、実はオーナーの隠し子で、実の息子なんでしょ? 母親は違っても、誠也くんと店長とは本当の兄弟だし、それでうまくいくのかな。」  思いがけないダニエルの言葉に、わたしは思わず手からグラスを滑らせた。幸いグラスはテーブルから数センチのところにあったので、多少大きな音がしただけだった。 「大丈夫?」  ダニエルが音に気がついて、心配して聞いた。 「本当なの? パパがオーナーの実の息子って、だれから聞いたの?」  わたしは、そう聞いた自分の声が震えていることに気がついた。  パパがオーナーの経営するジャズクラブで店長をやっていること、オーナーがパパを後継者に決めたこと、パパが誠也さんに肩入れすること、パパが実はオーナーの息子だとしたら、すべて納得できる。 「ごめん、ただの噂だから、気にしないで。つい、調子に乗って本当のことみたく言っちゃっただけだから。」  慌てて取りつくろうダニエルの言葉が、途中から聞こえなくなった。  パパは、わたしには何も教えてくれない。  その日、わたしはパパと顔を合わせることはなく、そのまま帰宅した。  八月下旬に、わたしの誕生日がある。ママはわたしが一歳になる前に亡くなってしまったから、わたしはママに誕生日を祝ってもらったことはない。毎年誕生日の当日は、グランマがご馳走を作ってくれて、パパがプレゼントを買ってきてくれていた。  十六歳になる誕生日を迎える二週間くらい前の、ある日の朝のこと。わたしは、庭で野菜の世話をしているグランマに声をかけた。 「ここのミニトマト、もう取ってもいい?」 「ええ、いいわよ。小百合は、ミニトマトには本当に目がないわね。」  つばの大きな帽子をかぶっているグランマが、すでに汗ばんでいる額を肩にかけたタオルで拭きながら答えた。  わたしはグランマのそばにかがんで、かごの中にミニトマトを収穫し始める。 「あー、本当に可愛いよね、ミニトマトって。」  わたしは収穫したミニトマトを眺めながら、思わず声をあげた。太陽の光をいっぱいに浴びて鮮やかに色づいた赤い実を、とても愛おしく思う。 「小百合は、普通のトマトはそんなに食べないのにね。」  グランマが雑草を抜きながら、そうわたしに声をかけた。 「ミニトマトって、小さいトマトじゃないんだよ。味も食感も、まったく違うんだから!」  わたしの言葉に、グランマは「はい、はい」と言って笑った。わたしは、ミニトマトの素晴らしさを伝えることの難しさを、改めて感じる。  明け方に帰ってきたパパは、まだ一階の自分の部屋で眠っている。家の中からは、誠也さんが練習しているピアノの音が聴こえる。わたしはグランマにだけ聞こえる声で、話しかけた。 「ねえ、グランマは、パパのお父さんとお母さんに会ったことある?」 「どうしたの? 急に。」  グランマは顔を上げて、聞いた。 「わたしのもう一人のおじいちゃんとおばあちゃんって、どんな人なのかなあと思って。」  グランマは立ち上がって腰を伸ばしたあと、わたしのほうを向いて話してくれた。 「グランマも、お会いしたことがないのよ。パパとママは結婚式もしなかったし、パパの親戚の方にはどなたにもお会いしたことがないの。  パパは、ママよりかなり年上だったしね。結婚を報告されたとき、ぼくには家族はいませんって言われて、それ以上は聞かなかったわ。」  わたしはミニトマトでいっぱいになったかごを抱いて、立ち上がって聞いた。 「パパのお父さんとお母さんがどんな人か、気にならなかったの?」 「そうねえ、一人娘のお婿さんだから、本当はもっと気にするべきだったのかもしれないけど。でも、パパのご両親がどんな人たちだったかを知ったところで、パパのことを知ったことにはならないでしょ?  小百合のパパはね、ママが帽子を拾ってくれたっていうだけで、わざわざうちまでお礼を言いに来てくれたんだけど、そのときから礼儀正しい人だなって、グランマもグランパも思っていたの。そのあともママがパパと出かけるときは、パパはいつもママを家まで迎えに来て、わたしたちにも必ずきちんと挨拶をしてくれてたのよ。もちろん毎回ちゃんと決まった時間に、ママを家まで送り届けてくれたしね。  ママが二十歳の誕生日に、結婚を前提に今日からお付き合いさせてもらうことになりましたって言われたときは、逆に驚いたわ。だって、しょっちゅう二人で出かけていたし、とっくに付き合ってるとばっかり思ってたから。  それくらい誠意を見せてくれていたパパだから、ついに結婚するってことになったときは、すでにわたしたちもパパを信頼していたのよ。小百合から、パパに聞いてみたことはあるの?」  わたしは黙って、かぶりを振った。  わたしはきっとパパに一番近い存在なのだとは思うけれど、いつも無表情なパパが本当は何を考えているのか、わたしはあまりわかっていない。パパは、たとえ娘のわたしであっても、気安く本心を見せたりはしない。  わたしは小さいとき、純粋に子どものころのパパがどんなふうだったのかを知りたかった。だから、ことあるごとに「パパが子どものときはどうだったの?」って、よく質問していた。  パパは、自分が子どものころ世間一般ではどうだったかについては、詳しく教えてくれた。けれど、パパ自身がどうだったのかっていうところになると、なんとなく見えないカーテンを引いているようで、教えてもらうことはできなかった。わたしもパパが言いたくないことなんだって子どもながらに察して、自然と聞かなくなっていった。  収穫したミニトマトを洗ってお皿に盛り付け、昼食の一品としてダイニングテーブルに並べていると、パパがやっと起きてきた。誠也さんは、すでにランチタイムの演奏に出かけたあとだった。”Misty”が閉店したあと、パパはどこでだれとお酒を飲んでいるんだろう。  パパは髭を剃る前の顔で、わたしに声をかけた。 「小百合、今年の誕生日は何がほしい?」  わたしは正直ずっとパパとオーナーとの関係が気になっていて、誕生日プレゼントどころではなかった。 「去年は、新しい自転車だったな。今思いつかないなら、考えとけよ。」  パパはそう言うと、ダイニングを立ち去ろうとしていた。いつも自分の言いたいことだけ言って、いなくなろうとするんだから。 「今年は高級焼肉店で、パパとデートしたいな。もちろんランチでいいから。」 「え? どこで?」  てっきり物をねだられると思っていたらしいパパが、意外そうな声をあげた。わたしは誠也さんがよく演奏している、焼肉店の名前を伝える。 「それはまた、確かに高級だな。でも、他にプレゼントはいらないなら、いいよ。」  パパが承諾してくれた。パパとのランチで聞きたいことを聞こう、わたしはそう決心した。  せっかくだから誠也さんの仕事をしている姿を見たいと思ったわたしは、誠也さんからそれとなくスケジュールを聞き出した。そして翌週の月曜日、パパと電車でその焼肉店へ向かった。  高級焼肉店が入っているビルは、繁華街の裏路地にある古いビルだった。けれど一歩中に入ると、外装を忘れるほどきらびやかな内装と、一流の接客に迎えられた。  わたしはちょっと、怖気付く。店内を見渡しても、わたしのような高校生はいない。店内中央には大きなシャンデリアがあり、その下にはグランドピアノが設置してあるのが見えた。 「あら、奇遇ねえ。」  声がして振り向くと、そこにはなんとオーナーと、その奥さんと思われる女性がいた。声の主はオーナーの奥さんで、上品だけど華やかなワンピースと装飾品を身につけていて、オーナーよりも一回り以上は若く見える。 「こんにちは。」  パパは驚いた様子はほとんど見せず、紳士的に会釈しながら挨拶する。 「そちらの可愛らしいお嬢さんは、どなた?」  奥さんが、わたしの顔を覗き込んで聞いた。 「娘の、小百合です。」  パパが答えると、奥さんは驚いて言った。 「えーっ、最後に会ったのいつだっけ? ずいぶん大きくなったのね。わたしてっきり、あなたの彼女かと思ったわよ。」  わたしはオーナーの奥さんとは初対面だと思ったのだけれど、奥さんの認識は違ったようだった。誠也さんからは、わたしが小さいころパパがわたしをよくオーナーの自宅に連れて行っていたと聞いたけれど、そのときに会っていたのだろうか。 「二人とも、こっちに来なさい。」  突然のオーナーの一声で、わたしとパパはオーナー夫妻と同席することになった。店員に案内されたテーブルは、グランドピアノのすぐ横だった。 「わたしたち、たまに誠也の演奏を聴きに、ここでランチするの。早めに予約すると、ピアノの横のテーブルにしてもらえるのよ。わたしたちはいつも見てるから、今日はあなたたちがこっち側の席に座りなさいよ。」  わたしとパパは奥さんに勧められるまま、ピアノに向かった席に座ることになった。オーナー夫妻は、ピアノに背を向けて座ることになる。  オーナーは、わたしたちに相談することはなく、店員にオーダーを伝えた。しばらくすると、オーナーとパパにはビール、奥さんには赤ワイン、わたしにはオレンジジュースが運ばれてきた。 「誠也は、どうだ。」  ビールを飲みながら、オーナーがパパに聞いた。オーナーのぎょろりとした目と、ぶっきらぼうな物言いは、わたしには少し威圧的に感じる。 「元気にしています。」  淡々と、パパが答える。 「星森誠也トリオは、どうだ?」 「悪い評判は聞いてないです。」 「まあ、誠也はオーナーであるおれの息子なんだし、悪い話は店長のおまえの耳には入らないか。」  そう言いながら、オーナーは愉快そうに笑った。  サラダが運ばれてきたころ、どこからか空色のスリーピーススーツを着た誠也さんが現れた。わたしたちに気がついているのいないのか、特にこちらを見る様子もなく、グランドピアノの前に座る。  鍵盤の上を滑る誠也さんの指から奏でられるソロ演奏は、とても素敵だった。けれど確かに誠也さんが言っていたとおり、あくまでBGMとしてお客さんが会話と食事を楽しめるような音量とテンポで過度なアレンジもなく、誠也さんらしさはあまり感じられない。ジャズのスタンダードナンバーを、途切れることなく淡々と演奏している。  その後も誠也さんのピアノが聴こえるなか、オーナー夫妻の問いかけにパパが答える形で会話が進んでいく。  オーナーがパパのお父さんだとしても、奥さんはパパのお母さんではない。奥さんの年齢を推測するに、パパが生まれたのは、オーナーが今の奥さんと結婚する前なんだと思う。今日パパに聞こうと思っていたオーナーとパパとの関係なんて、オーナー夫妻がいる前ではとても質問できるわけがなかった。  誠也さんはまだ演奏の途中だったけれど全員が食事を終えたので、わたしたちは焼肉店を後にした。パパはオーナーからこの後の用事に同行するように言われ、わたしは一人で帰宅することになった。  わたしが帰宅してしばらくすると、パパから「今日はオーナーと夕飯を食べてから帰る」という連絡があった。こういうときパパはたいてい深夜に帰宅するから、きっと今日はもうパパと話をする機会はない。  パパとオーナーは、二人きりのときはどんな会話をするんだろう。今日のランチでも、二人の間にはだれにも入れないような、そんな空気感を感じて、ちょっと寂しい気持ちになった。それはやっぱり、本当の親子だから、なのかなーー。  今夜はグランマもお友達のお宅にお呼ばれしていて、夕方から不在だった。わたしは結局パパに聞きたいことも聞けず、もやもやした気持ちのまま、一人で夕飯を作り始めた。 「手伝おうか?」  まな板の上で野菜を切っていると、カウンターキッチンの向こうから、声がした。見ると、Tシャツにショートパンツ姿の誠也さんだった。今日はもう、すべての仕事を終えたらしい。 「パスタとサラダだけだし、もうすぐ出来るから大丈夫。指を怪我したら大変でしょ。」  わたしはそう答えて、黙々と料理を進行する。 「今日は皆さんおそろいで、驚いたよ。」  てっきり夕飯ができるまで部屋に戻るかと思っていた誠也さんが、再びわたしに話しかけた。誠也さんは、わたしとパパが来店していたことに気がついていたんだ。 「パパに誕生日のお祝いに焼肉をご馳走してもらおうと思ったんだけど、たまたまオーナー夫妻がいて、一緒のテーブルに招待されたの。」  わたしは切った野菜を平鍋に入れ、軽く炒めながら答えた。 「じゃあ、おれの父親が会計したんでしょ。小百合はもう一回、あの人にご馳走してもらえるね。」 「うーん、そうかもね。」  そうは答えたものの、もう一度パパを誘う気にはなれなかった。せっかく意を決して出かけたのに、またやり直しだなんて。わたしのなけなしの勇気は、すっかり挫けてしまっていた。  夕食が完成して、誠也さんと二人で食卓を囲む。 「これ、うまいね。」  誠也さんが一口食べて、言ってくれた。 「別に、普通でしょ。」  わたしは気持ちが沈んだままで、気の無い返事をする。 「小百合の誕生日って、いつ?」 「来週の水曜日。」 「なんか、元気ないね。」  誠也さんが、意外そうに言う。 「わたしだって、そんな日もあるよ。」  可愛くない態度だとはわかっていても、今日のわたしは終始、そんなふうにしか答えられなかった。  食後にわたしが食器を洗っていると、誠也さんは洗い終わった食器を拭くのを手伝ってくれた。 「おれ、これから寝るまでピアノ弾くけど、何か聴きたい曲ある?」  初めて、リクエストを聞かれた。本来ならお金を払わないと聴くことができない生演奏なのに、誠也さんなりに元気がないわたしを気遣ってくれているらしい。 「”Fly Me To The Moon”かな。」 「いいよ。」 「誠也さんの、弾き語りで。」 「そんなの、一度もやったことないけど。」  誠也さんが、あきれた顔で言った。 「だから、聴きたいの。」  わたしは少し元気になって、いつもの生意気な口調に戻っていた。  誠也さんの部屋に入ると、わたしはグランパのベットの上に腰掛けた。  誠也さんは、アップライトピアノの上に積んであった楽譜の中から、一冊を手に取る。そしてアップライトピアノの前にある黒い長椅子に座り、”Fly Me To The Moon”のページを開いて譜面台に置く。  楽譜はかなり年季が入って使い込まれていて、すぐに譜面台に馴染んだ。誠也さんの自宅から持ってきた物だろうか。  誠也さんは右手でピアノの二つの鍵盤を鳴らすと、すぐにスタンダードなスイングに乗せて歌い始めた。  一度もやったことがないと言いながら弾き語りも即興でできるなんて、やっぱり誠也さんはすごい。留学経験があるからか、力の抜けた歌声は、まるでネイティヴスピーカーが歌っているように自然だった。  ”Fly Me To The Moon”の歌詞は、「わたしを月に連れて行って、つまり言い換えると、手を握って口づけをして」という、正直わたしには難解なものだ。どこをどう言い換えるとそうなるのか、何度考えてもわからない。大人になったら、わかるのだろうか。  誠也さんがフルコーラスを歌い終わり、わたしは思わず全力で拍手をする。すごく贅沢な時間をプレゼントしてもらった気がして、わたしは上機嫌になった。そんなわたしに向かって、誠也さんがちょっと意地悪そうな顔で言う。 「次は、小百合が歌う番ね。」 「なんで? 無理だよ。」  わたしは両手を大きく振って、全力で拒否する。  誠也さんは黒い長椅子を左にずらし、その右側に座った。そして、空いた長椅子の左側を軽くたたく。うながされるまま、わたしは黒い長椅子の左隣に座る。  誠也さんはアップライトピアノでコードをいくつか鳴らし、「キーはこのくらい?」と聞いた。わたしの返事を待つことはせず、流暢な発音でフォー・カウントをとる。  四拍目でまたピアノの二音が入り、次の小節からヴォーカルが始まってしまった。わたしは、あわてて歌い始める。必死に譜面の歌詞を追うけれど、日本語にはない子音と母音の組み合わせに振り回されて、どんどんリズムから遅れていってしまう。  すると誠也さんは、次のフレーズから演奏をバラード調に変更した。わたしの口元を見て、わたしが歌うタイミングに合わせてコードを変えてくれる。わたしは発音に振り回されることなく、自分のペースで歌うことができるようになる。誠也さんのその臨機応変な対応に、わたしはまたもや感心する。  ワンコーラスの終わり、“In other words, darling kiss me.”(言い換えると、口づけをして)のフレーズまでわたしが歌い終わると、誠也さんは突然ぱっと鍵盤から手を離した。解放されたすべての鍵盤が、いっせいに元の位置に戻る音がする。わたしは急にどうしたのかと驚いて、誠也さんの方を見た。  誠也さんは素早くわたしの手を握って引き寄せると、”Fly Me To The Moon”の歌詞のとおり、わたしの唇に、その唇で触れた。 「どうして?」  そう聞いたわたしの声は、涙声だった。 「ごめん、嫌だった?」  誠也さんが、初めて見る真面目な顔で、初めて聴く優しく声で、聞いた。 「わたしが嫌がらないって思ったから、したんでしょ? わたしが誠也さんのこと好きだって、知ってたんでしょ?」  だれにも言ったことはないのに、ずっと隠していたのに、どうして誠也さんはわたしの気持ちに気がついてしまったんだろう。 「いや、おれが小百合を好きだから、したんだけど。」  誠也さんは拍子抜けた様子で、けれどわたしをまっすぐ見て、誠実に言った。考えてもいなかった言葉だった。  誠也さんはわたしより七歳も年上の大人の男の人で、多くの人が認める才能ある一流のジャズピアニストで、ただの女子高校生であるわたしなんて、相手にされるわけがなかった。わたしが誠也さんにとって、選択肢にすらなり得るわけがない。そんな願うことさえ最初から諦めていた望みがいきなり叶うなんて。そんなことを突然言われても、とても信じられるわけがない。 「嘘。わたしのこと、子どもだって言ったじゃない。」 「ごめん、本当は思ってない。小百合はおれなんかよりもずっと、ちゃんとしてるよ。」  今までになく近くで聞く誠也さんの声は、静かで低く、落ち着いていた。声の音の波はわたしの耳から全身を駆け巡って、心を芯から震わせる。けれどわたしは精一杯強がって、さらに問い詰めた。 「子どもだと思って、からかってるんでしょ?」 「あの人の一人娘に、しかも十五歳の女の子に、冗談でこんなことしないよ。一歩間違ったら犯罪者だし、あの人にだって殴られるだけじゃ済まないと思うし。」  確かにそのとおりかもしれないと、わたしは次の言葉をすぐには切り返せなかった。わたしをもてあそぶようなことをしたとわかったら、パパが許すはずがない。 「小百合は、あの人が本気でギターを弾いてるのを聴いたことある? おれは、あの人にはギターで弾けない音楽はないって思ってるよ。」 「パパが?」  思わず、わたしは聞き返した。  パパが自分の部屋で一人で弾いているアコースティックギターの音色なら、幾度となく聴いてきた。いつもパパが弾いているのは、わたしやグランマの生活のじゃまになることはない、聴いていて心地がいい曲ばかりだ。ギターを弾くことを仕事にしていたらしいパパだけれど、だれかに向けて演奏しているところは、一度も見たことがなかった。 「おれは三歳からピアノを弾いてきたけど、練習は孤独だし、父親はジャズ以外の音楽は認めないし、正直思うようにいかないときの方が多かった。でもあの人が家に来たとき、必ずおれに声を掛けて、演奏を聴いてくれた。それで、このコードには実はこの音を足すこともできるとかって、音楽の面白さを教えてくれた。その積み重ねが、おれの原点になってると思う。きっと父親と一対一だったら、つまんないジャズピアニストになってただろうし、今ごろ音楽そのものが嫌いになってたかもしれない。  おれが日本を離れてから会わなくなって、最近もあんまり話せてないけど、あの人はおれにとって、歳は離れてるけど本当の兄貴みたいな存在なんだ。」  生まれてからずっとパパと一緒にいたわたしは、パパが誠也さんのことを特別に思っていることは、すぐにわかった。けれど、誠也さんがパパのことをどう思っているのか、正直よくわかっていなかった。  でも、誠也さんもパパのことを特別に思っていたことがわかって、とても嬉しい。誠也さんが、パパに声をかけられても無視したりするのは、なんでだろうって思っていた。けれどそれは、信頼関係があるがゆえの、誠也さんなりに甘えている姿だったのかもしれない。 「あの人は基本的にはおれの父親の言うことには絶対に逆らわないんだけど、父親が今まで何度も再婚を勧めても、それだけは聞かなかったんだ。亡くなった奥さんのことを忘れられないのかもしれないけど、でもきっと小百合にさみしい思いをさせないためだって、おれは思うよ。だから今でも亡くなった奥さんの苗字のままだし、籍も抜かないんじゃないかな。」  わたしは、ただ黙って頷いた。誠也さんは、すべて知っていたんだ。  そう、パパはわかっている。わたしが、パパにママ以外のだれかを愛してほしくないことを。そして、わたしもわかっている。誠也さんが言うように、パパはわたしのことを何よりも大切にしてくれている。だから、この先だれがパパの前に現れても、わたしの気持ちが変わらない以上は、パパはママだけを愛し続けてくれるだろうということを。 「あの人から、あの人が何よりも大切にしている小百合を奪うってことは、おれが相当な覚悟をしたってことだから。小百合が大人になるまで黙って待ってるべきだったかもしれないけど、その間に知らない男子高校生に取られたら困るし。小百合がおれを受け入れてくれるなら、あの人には、おれから正面切って説明するよ。」  わたしはとっくに誠也さんにほだされていて、ただじっと、その美しい切れ長の目元を見つめていた。誠也さんの瞳は、よく晴れた真夏の青い空のように、どこまでも澄んでいる。誠也さんはパパと同じくらい信じられる人だって、わたしのなかで確信してしまった。  いつもは、わたしから何を言ってもつれない態度だったのに。そんなふうに急にわたしが喜ぶようなことばかり言われたら、どうしていいかわからないよ。  でも、このまま誠也さんの言動に流されてしまって、いいのだろうか。ずっと胸の奥に引っかかっていることに、目を向けてみる。気になっていることをそのままにしたままで、心から幸せになれるわけがない。  わたしは思い切って、ずっとだれかに聞きたかったことを口にした。 「パパがオーナーの実の息子だって、本当?」  誠也さんは、すぐには答えなかった。でも、特に驚いたりもしなかった。その可能性があるということは、すでに知っているようだった。 「真相は知らないけど、おれはどっちでも関係ないと思ってるから、気にしてないよ。」  誠也さんは、冷静にそう答えた。  突然、喉の奥が締め付けられるような感覚があった。そして、わたしの体の奥から、大きな涙の波が、両眼に目がけて押し寄せて来る。 「わたしは気にするよ。わたしはパパにもだれにも祝福される人と付き合って、結婚して、子どもだって産みたいもん。」  そう言ったわたしの声は、再び涙声だった。 そんなわたしを見て、誠也さんは驚いた表情を見せる。 「もう、わたしに優しくしないで。いつもみたいに冷たくしてよ。もう、わたしのことは放っておいて。」  わたしはそう言い残すと、誠也さんの手を振り払った。そのまま自分の部屋に逃げ込んで、勢いよくドアを閉める。そしてベットに倒れこみ、大きな声を出して泣いた。  あの日、誠也さんのピアノを初めて聞いたときから、純粋に、ただ誠也さんを応援したいと思った。そして、少しでも大好きなパパの役に立ちたいと思った。  そう思ってこれまで誠也さんに接してきたはずなのに、わたしの気持ちが急にひどく安っぽいものに感じられた。本当のところは、少しでも誠也さん近づきたいっていう、不純な気持ちだったんじゃないかって思えてくる。  だって、気がついたときにはもう、誠也さんのことを好きになっていた。だけど恋をする対象じゃなくて、本当のお兄さんみたいに大好きになりたかった。  誠也さんに好きだって言われて、今までの人生で一番嬉しかった。だけど、いつかは冷めるような恋心じゃなくて、本当の妹みたいに愛し続けてもらいたかった。  誠也さんはわたしにとって、たまたま偶然出会えた人じゃない。わたしがパパの娘でなければ、あの日”Misty”から出て行った誠也さんを追いかけようとは思わなかった。わたしがパパの娘だったから、本来は交わることがなかった誠也さんの人生とわたしの人生が、重なる瞬間が訪れたんだ。  だからずっと、自分の気持ちは隠しとおすつもりだったのに。そしてそのままずっと、誠也さんのそばに居座るつもりだったのに。今夜、知られてしまった。  わたしだって二年後には成人するし、パパだって十六歳だったママに声をかけたって言っていたし、年齢差のことはあまり気にならない。だけど、本当にパパのお父さんがオーナーで、わたしと誠也さんが本当に叔父と姪の関係だったとしたら?  もし軽い気持ちでこの先へ進んでしまったら、もう後戻りはできないような気がする。だから、踏みとどまるなら今しかない。それが、奇跡を逃すことになってもーー。
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