4 -Blue Moon-

1/1
前へ
/7ページ
次へ

4 -Blue Moon-

 翌朝、わたしはわざと寝坊した。目覚ましはかけずに、気の済むまで眠ろうと思っていた。けれどそんな朝に限って、いつもより早く目が覚めてしまう。わたしはベッドに横たわったまま、しばらく天井を見つめていた。けれどそのうちにお腹がすいて、観念して起き上がる。  今日から、誠也さんにどんな顔をして接すればいいだろう。身支度をしながら考えていたけれど、答えは出ない。誠也さんに会ったらそのときに考えるしかないという結論に至って、わたしはやっと一階に降りていく。  ダイニングルームの扉を開けると、グランマがいた。 「おはよう、小百合。今朝は遅かったのね。」  そう言ったグランマはいつもどおり、わたしが階段を降りる音を聞いてトースターでパンを温め始めてくれていた。 「誠也さんは?」  わたしは、シンクの方を見ながら聞いた。水切りかごのなかには、誠也さんが使ったと思われる食器はなかった。 「あら、今朝早く荷物をまとめて出ていったわよ。」  グランマが、わたしが知らなかったことに驚いた様子で、そう言った。  グランマからは、誠也さんは仕事の都合で早く出なければいけないと言って、朝食は食べずに出て行ったのだと聞いた。眠っていたわたしとパパには挨拶はなかったけれど、グランマには「今までお世話になりました」と礼儀正しく御礼を伝えていったらしい。  わたしが放っておいてなんて言ったから、出て行ってしまったのだろうか。自分でそう言ったくせに、わたしは深く傷ついた。  誠也さんのそばにいるから、苦しいんだと思っていた。けれど、もう誠也さんのそばにいられないと思うと、未来も希望もすべてを失ったような気持ちになる。  誠也さんは、突然わたしの人生に現れた、速く輝く彗星だった。怖いもの知らずのわたしはその眩しい光に惹かれて、なんの躊躇もなく飛び込んだ。  その先に誠也さんがいなくなってしまうなんて、全然考えられていなかった。誠也さんは意地悪な言い方をすることはあっても、わたしを突き放すことは一度もなかった。少しくらいわがままを言っても誠也さんなら受け入れてくれるって、心のどこかで信じていたのかもしれない。わたしはなんて想像力のない、自分勝手な人間だったんだろう。  そしてまた、わたしはいつもの生活に戻った。夏休み中をいいことに寝坊をして、夕方から”Misty”へ行く。誠也さんに再会する前の、ときめきもないけれど苦しみもない、平穏な自分に早く戻りたかった。  だけど、”Misty”で星森誠也トリオのポスターが目に入るたび、もう誠也さんとは会う機会もないし、気軽に話をすることもできないんだって、思い知らされてしまう。なんであんな言い方をしてしまったんだろうと、たまらなく泣きたくなった。  ポスターのなかの誠也さんは、相変わらず涼やかな佇まいでピアノに向かっている。当たり前だけど、わたしの方なんて見てはくれない。それが余計に、悲しかった。  次の火曜日のことだった。”Misty”では、サックス演奏もする男性ヴォーカルと、そのバックバンドの出演があった。わたしはいつもどおりカウンターの一番端の席に座って、ダニエルが作ってくれたリトル・リリー・スペシャルを片手にぼんやりとステージを眺めていた。  ステージの中盤、サックスのイントロから、”Blue Moon”の演奏が始まった。ヴォーカルの歌声に乗せて、自然と歌詞が耳に入ってくる。「夢も愛もなく孤独だったけれど、突然愛しあえる人と出会って、今はもう孤独じゃないよ」と、青い月に語りかける歌だ。  あの日、月を見上げながら誠也さんが口笛を吹いていたのが、”Blue Moon”だった。  わたしがもっと素直になっていれば、誠也さんの”The only one my arms will ever hold”(いつまでも抱きしめていたい、たった一人の人)になれる可能性があったのかな。もっと上手に、自分の気持ちを伝えていたら…。  でももしそうだったとしても、わたしと誠也さんが姪と叔父の関係かもしれないってことは、変わるわけじゃない。知られてしまった時点で、わたしの気持ちは終わりを迎える以外の道はなかったのに。聞かれてもいないのに、なんで知られるようなことを言ってしまったんだろう。  でもあのときは、わたしの中でどんどん大きくなる誠也さんへの気持ちが、わたしのいたるところからあふれ出て、本人に届いてしまったんだと思い込んでしまった。それくらい同じ時間を過ごすうちに、誠也さんへの気持ちが果てしなく膨らみ続けていた。  “Blue Moon”が終わるころ、新たに来店の気配があった。そのお客さんが、わたしの隣の席に座る。ふと見ると、その人は空色のスリーピーススーツを着ていた。  わたしは、はっとして顔を上げる。そこに座っていたのは、誠也さんだった。 「え?」  思わず、わたしの口から声が漏れた。誠也さんは、今は都内の別のジャズクラブで演奏をしているはずだった。 「小百合、明日誕生日だよね。これ一日早いけど、プレゼント。」  そう言って、茶色い紙袋を渡された。 「どうして、ここに?」 「ステージの間に、抜けてきた。すぐ戻らないと次のステージに間に合わないから、じゃあね。」  そう言うと誠也さんは立ち上がって、”Misty”から出ていった。一部始終は、パパにもダニエルにも見られているだろう。  わたしは、紙袋を開いた。ピンクのユリの花束と、封筒が入っている。封筒を取り出すときにユリの花の香りがふわりと漂ってきて、なぜが胸が強く締め付けられる。今まで男の人に花束をプレゼントされたことなんて、なかった。  封筒の中には、チケットとメッセージカードが入っていた。京都の老舗ジャズクラブで開催される、星森誠也トリオのライブチケットだった。  メッセージカードには、誠也さんの手書きで、こう書かれていた。  ーー小百合へ    十六歳の誕生日、おめでとう。    来週の関西ツアーの最終日、京都まで聴きに来て。    次の日は休みだから、一緒に京都を観光しよう。    返事をくれたら、新幹線とホテルを予約しておくよ。  カードの最後には、誠也さんの連絡先が記されていた。  パパやダニエルがわたしの様子を見ていたとしても、さすがに文面までは見えないはずだけれど、わたしは読み終わるとすぐカードを紙袋の中に隠した。時間差で、自分の頬がかっと熱くなるのを感じる。紅潮していることは、周りの人から見てもわかってしまうだろうか。 「小百合ちゃん、いつの間に誠也くんと付き合ってたの? 店長は知ってるの?」  小声で話しかけられて、わたしははっとして顔を上げる。カウンターの向こうには、顔面いっぱいに好奇の表情を浮かべたダニエルがいた。 「まさか、そんなわけないよ。」  わたしはとっさに紙袋を両腕で覆って隠そうとしながら、慌てて訂正する。 「ふうん、だとしたら、誠也くんは本気で小百合ちゃんのことを口説きに来たんじゃない? 仕事の合間にプレゼントを渡しにくるなんて。やるね、店長が目に入れても痛くないほど可愛がってる一人娘に、手を出すなんて。  で、小百合ちゃんは、どうするの?」  ダニエルはさも楽しそうに、わたしに聞いた。  わたしは、どうするんだろう。ひどいことを言ったのに、わたしの言葉に傷ついたから出て行ったんだと思ったのに、まだ誠也さんの方からわたしに構ってくれるなんて、思ってもみなかった。  誠也さんに、嫌われていなかったーー。  その事実がわかっただけで、わたしは嬉しさを隠しきれない。自然と、両方の口角が上がってきてしまう。わたしはダニエルに気づかれないようにそれを元に戻すことに必死になって、そのあとの演奏が耳に入ってこなかった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

22人が本棚に入れています
本棚に追加