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次の日、道原君は美術室に来なかった。
美術室の窓は開けられることなく、美術室に風が吹き込むこともない。
私のやることは変わらない。いつもと同じように、キャンバスに筆を乗せていく。窓から差し込む光の質が変わり、それが夕日と呼べるような色になった頃、私はようやく絵筆を置いた。
できた。
「完成したんだね」
驚いて振り返ると、道原君が私の後ろから絵を覗き込んでいる。見られた。背中を、冷や汗が一筋伝う。私は隠すようにその絵の前に立った。
道原君は私を見た。そして言った。
「綺麗な女の人の絵だね」
キャンバスに描かれているのは、黒髪の女の人だった。目を伏せた、憂いを帯びた横顔だった。
「上手だね。さすが美術部」
「そうかな」
「ずっと描いてたもんね」
「……うん」
声は、震えていないだろうか。道原君の視界から逃げたくて、キャンバスの前から離れて窓の方へ向かう。道原君がいつも居た窓は、今日はきちんと閉められている。
道原君が美術室に足を踏み入れたのは、初めてのことだった。
「……今日、部活は?」
「ない。だから、ちょっと時間あって、美術室来てみようかなって」
「そうなんだ」
私は窓の外を見ながら言葉を話す。グラウンドに、ボールを奪い合うサッカー部の姿はない。地面は砂埃が舞うこともなく、穏やかに凪いでいた。
皮肉なものだ。窓の外にはいつだって、私とは真逆のものが映っている。
「ねえ桜井さん」
道原君が、絵をじっと見ている気配がする。
「この人って、元は男だった?」
心臓が早鐘を打つ。
「……どうして、そう思うの?」
「なんか、骨格?とか? わかんね、勘かな」
そう言って、爽やかに笑う。その唇の少し下には、一つ、ホクロがある。
私はそのホクロを、塗り潰して消した。
睫毛を伸ばし、唇に艶を足し、爽やかな短髪を腰の長さまでの黒髪にした。
そうやって私は、絵の中から私の好きな人の痕跡を消した。
本当は昨日の時点で、絵は完成していた。
昨日、夕日の差し込む美術室で、私は自分が描いた道原君の絵と向き合った。そして思った。
私は、何をしているのだろう。
私と道原君が教室で話すことはない。
道原君が教室で話すのは、同じサッカー部の友達や、他の運動部の男子や、あるいは、バレー部の女子や、どう生まれついたらそうなるのか理解できないくらい、可愛くて綺麗な子達だ。
光を背負った道原君が、私と交わることはない。
好きだからって、向いているとは限らないのだ。
怖くなった。
この人を好きでいることが。
この人を好きでいる自分が。
そんな自分がバレることが。
「気のせいだよ」
そう答えて私は笑う。笑ってみせる。道原君は「そっか」と素直に頷いて笑う。
「本当は今日、お礼を言いに来たんだ」
「お礼?」
戸惑う私に、道原君は窓を指差す。
「鍵、閉めないでいてくれたでしょ。桜井さん俺のこと歓迎してなかったけど、それでも窓の鍵は開けといてくれてた。閉めて、拒絶することだってできたはずなのに」
私の指先が、窓の錠に触れる。クレセント錠は今日も下げられ、解放されていた。
「桜井さんが拒絶しないでいてくれたから、俺、毎日窓を開けてここに来れたんだよ。だからありがとう。俺はもう大丈夫だよ」
桜井さん、と道原君の声が私を呼ぶ。教室では決して呼ばれない私の名前が、美術室に真っ直ぐに響く。
「ありがとうね。話聞いてくれて。居場所になってくれて。それと、」
道原君は私と目を合わせた。道原君の瞳は、今日も綺麗に澄んでいる。
私の中身を見透かしてしまいそうな、澄んだ瞳がそこにはあった。
「色々、ありがとう」
道原君は身を翻すと、美術室から去っていく。私はその背中を見送る。道原君の目を、声を、頭の中で反芻する。
道原君はきっと、こう言おうとしたのだ。
『好きになってくれて、ありがとう』
私が塗り潰したはずの気持ちを見つけて、ありがとうと言葉をくれた。
道原君はきっともう、美術室には来ないだろう。自分の問題は、自分でなんとかするんだろう。ささやかな居場所を自分で捨てたのはきっと、私への気遣いだ。
道原君は、行き場のない私の気持ちに居場所をくれた。
バレてしまったんだ。
私は肩を落として項垂れる。今まで肩の力が入っていたことにようやく気がついた。自分の恋を引き上げるように、私はクレセント錠に指をかける。
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