悪の男と君

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悪の男と君

 俺はただ、君に見てほしかっただけなんだ。  君に笑ってほしかったんだ。  君を守りたいだけなんだ。  そのためならば、俺はいくらでも「悪」になる。  たとえ、卑怯者と罵られ、蔑まれたとしても。  世の中の、嫌われ者になったとしても。  君だけの王者チャンピオンに。      ※  鏡の前で表情を作ってみる。眉間に力を込めて、精一杯凄んでみせた。目元に施した黒のメイクは、寝不足でできたクマに見えないこともない。江川涼介はウェット系のワックスを、センター分けの黒髪に撫でつけていく。男にしては細く、軟らかい髪に艶が出る。 「うっし、こんなもんでいいか」  ヘアスプレーで固めると、一通りの準備は終わりだ。後は自分の出番まで、この控え室でひたすら待機するだけだ。テーブルに置いてあるスマホを取り、江川はラインを開いた。お目当ての人からのメッセージが一番上にきており、思わず頬が緩む。 「おお?恋人さんからのラインかあ?」  スマホに夢中になっていると、背後にスキンヘッドのいかつい男が、覗き込むように顔を近づけていた。 「そんなんじゃねえよ」 苦笑しながら、江川はスマホの画面を背けた。スキンヘッドから、受け取った缶コーヒーを軽く振る。スキンヘッドも、向い側のパイプ椅子に逞しい足を組んで座り、缶コーヒーを開けた。スキンヘッドの名前は、飯島貴信。年齢は江川より上の三一歳だが、同期である。  同期であっても、社会人的には年上の飯島には敬語を使うべきなのかもしれないが、飯島自身がため口で話すよう言ったのだ。最初はため口を使うのに恐縮した江川だが、飯島の細かいことを気にしない気さくな人柄に触れてからは、兄弟のようにざっくばらんに話すようになった。 「今日は二試合目か?」 「ああ、今日デビューする新人の河合の相手を、俺が務めることになってる」 「あのやけに根性ガッツだけある河合か。身長もそこそこあるやつだし、体格差に負けて、うっかりフォールを奪われるなよ」 「新人相手に、そんなへましねえよ」  飯島の冗談めいた心配に、笑って返した。飯島の言うように、二試合目に行われる新人のデビュー戦の相手が江川である。立場上、江川には滅多にない対戦カードだ。新人だからといって手加減するつもりは毛頭ない。いつものスタイルを貫くのみだ。 「だったら俺はセコンドにつかなくていいか?新人相手なら、そう時間も労力もいらんだろ」 「ああ、かまわねえよ。サクッと終わらせて、サクッと帰る。この後に予定が控えているからな」 「おお?試合の後に、例の恋人さんに会いに行くのか?」 「だから、そんなんじゃねえって」  飯島の茶化しにむずがゆさを覚えながら、リュックからマスクを取り出した。黒字に「髑髏どくろ」が禍々しくプリントされたマスク。それで口元を隠せば、準備は万端。  そう、江川の職業はプロレスラー。それも卑劣なファイトスタイルも平気で行うヒールレスラーだ。  髑髏のマスクを着けた姿は江川涼介ではなく、ヒールレスラー『キラーハイボール』である。  机の下に置いていたウイスキーの瓶を手に取ったキラーハイボールは、ごつごつとリングシューズをいわせながら控室を後にした。      ※ 「いつ……ッ」  車のドアに鍵を指し込んだ瞬間に、首に痛みが走り手で押さえた。先ほどの新人の河合との試合、江川は勝利したが楽勝というわけではなかった。飯島の言った通り、河合はその体格を活かしたパワフルな試合をしてきた。ボクシングなどの格闘技のような防御ガードという概念がないプロレスは、技の一つ一つを全て身体で受け止める。プロレスラーが身体の大きさに拘るのは、決して見てくれのためだけではなく、強力な技にも屈しないためでもある。  一七〇センチと、プロレスラーの中では小柄な部類に入る江川に対し、新人の河合は一九〇近い巨体を誇る。うまく受け身を取ったとしても、技の衝撃全てを受け流せるわけではない。試合で河合が繰り出した技のダメージは、江川の身体に蓄積され、試合が終わった今になって身体が痛みだした。  自販機で買ったペットボトルで、しばらく首元を冷やし、江川は車のエンジンを始動した。ガンメタリックのスカイラインのエンジン音が、地下駐車場に響き渡る。 「さあ、行こうか」  ギアを一速に入れて、アクセルを踏むと同時にクラッチから足を離すと、重低音を響かせながらスカイラインは進み始めた。  地上は午後一七時。もう少しすれば、東京は道路も鉄道も帰宅ラッシュで混雑し始める。試合がいい頃合いに終わった。病院の面会時間は二〇時までだ。江川は腕時計を見てほっとした。  江川はスカイラインのアクセルを緩め、法定速度で進んだ。三〇年近く前の型ではあるが、当時は人気も性能も最高と謳われた車体である。本来はスピードを出してこその車であるが、事故を起こしたり、警察に捕まっては元も子もない。  あくまで、悪さをするのは「リング」の上だけだ。ヒールレスラーもリングを降りれば、善良な市民である。飯島のように三人の子を持つ父の者もいれば、給料の一部を福祉施設に寄付する者もいる。  そして、江川のように恋人がいる者もいる。  病院に入ると江川はマスクをつけた。プロレスのマスクではなく、普通の不織布のほうを。身体を資本とする職業のため、下手に風邪などをもらうわけにはいかない。どの医科も診察時間を終えているため、来診者はほぼ見受けられない。廊下を行き来する医師や看護師に頭を下げながら、江川はお目当ての部屋に向かう。  途中、自販機が目に留まり足を止める。しばらくラインナップを見つめていたが、珈琲とミルクティーのボタンを押した。  三〇二号室のドアノブに手をかけたが固まった。未だにこのドアを開くのに、緊張する自分がいる。プロレスラーとして多くの場数を踏み、ヒールとして観客を罵倒することに抵抗はないが、このドアだけは堂々と開けない。  そして、このドアの先にいる女性(ひと)の前では、俺は立ちすくむのでやっとだ。  深呼吸をし、手をかけたドアノブを横に引いた。      ※  江川が横に引く前に、中の方からドアが開いた。ドアの前には、白衣を着た長身の若い男が立っていた。目元が涼やかな男は、江川と頭一つ分くらい背が高い。思わず江川の顔つきは厳しいものになる。そんな江川の様子を意に介すことなく、男は会釈をして病室を出て行った。 「まりあ……」  窓際のベッドでタブレットを触っている女性に、小声で呼びかけた。タブレットに夢中になっていた娘だが、声の方を見て少し驚いた顔をしたが、すぐに白い歯を見せて笑った。江川がこの世で一番大好きな顔である。 「涼介君」 「そのタブレット、使ってくれてるんだ」 「うん。この病院、Wi-Fi飛んでるから。ユーチューブとか観放題なんだ」  ベッドの隣のパイプ椅子を開き腰かける。タブレットを充電ケーブルに繋ぐ娘の横顔を、江川は愛おしそうに見つめた。江川の視線に気づいたのか、娘は恥ずかしそうに赤らめた。 「もう、そんな見つめないで……化粧とか一切してないから」 「病院だから仕方ないじゃないか。あ、それとこそ、来る途中で買ったんだけど、一緒に食べよう」  江川から受け取ったケーキ箱を開いた娘は、「わあ可愛い」と頬をほころばせた。箱の中には、おしゃれな瓶に入ったマンゴーソースのプリンが、保冷剤とともにある。プリンを幸せそうに食す西川さいかわまりあを、江川は目尻を下げて眺めた。  彼女との出会いは二年半前、この病院であった。当時の江川はプロレスラーとして、デビューしたての新人だった。無論ヒールではなく、正統派のベビーフェイスの。  俺もいつかはベルトを獲り、団体の頂点に。純粋な青年レスラーの胸は、夢と希望に溢れていた。  しかし、現実は非情だった。デビューして半年も経たない時、試合中の出来事であった。相手選手の技に、うまく対応できなかった江川の首に衝撃が伝わった。意識を保つのがやっとのはずであったが、持ち前の精神力で江川は最後まで試合をこなしたが、そこが限界であった。  スリーカウントを取られた後、担架に乗せられ、そのまま病院に担ぎ込まれた。  首の骨折。  プロレスラーとして、これ以上ないほど致命的な怪我であった。プロレスラーという職業を選んだ時点で、怪我は覚悟の上であり、リングに上るレスラーは、皆いつリング上で死んでも後悔のないよう全力で生きている。  江川も諦めなかった。一日でも早く首を治し、復帰してリングに戻るんだ。だが、孤独なリハビリ生活は、江川の心を沈ませていった。  俺の首は治らないのではないか。俺はもうプロレスができないのか。一人ぼっちのリハビリで、江川は何度も涙を流した。 そんな時、出会ったのが、まりあだった。 『かっこいいTシャツですね』  リハビリまでの待ち時間、病院の廊下のテレビを無気力な顔で観ていた江川は、最初自分にかけられた声だと思わなかった。隣で胸元を見つめている人がいることに気づき、ようやく自分にかけられたものだと理解した。 『あ、そうすか……』  声の主の顔を見ることもなく、適当な返事をする。正直、今は誰とも話す気にならない。今の自分は人生のどん底にいる。誰も俺の気持ちなど分かってくれない。プロレスのできない人生に何の意味があるのか。街中で幸せそうに歩く人々、テレビで大きく口を開けて笑う芸人、幸せそうな顔をしている人の顔を見るたび江川の心は傷ついた。 『どこのブランドで買えるんですか?それ』 『いや……あの』  少し静かにしてくれないか。馴れ馴れしく声をかけてくる隣人に注意しようと、江川は初めてその顔を見た。江川は絶句した。  綺麗だ……心の声かもしれないし、実際に呟いたのかもしれない。だが、その娘は、江川がこれまでの人生の中で見た、一番美しい女性ひとだったかもしれない。白い肌に、首元で綺麗に切り揃えられたショートカット。ぱっちりとした瞳に、小さな顔にしては、少し大きめな口で微笑んだ表情は、最高に男心をくすぐる。江川は咄嗟に顔を反らした。自分の顔がみるみる赤くなるのが分かる。 『あ、すみません……気に障ること言いました?あたし』 『いや、そんなことないです……このTシャツはですね。試合会場とかで買えます』 『試合会場?』  見惚れそうになるのを何とか堪えながら、先ほどの質問に答える。「試合会場」というワードに、娘はピンときていないようだ。恥ずかしさを押し隠しながら、このTシャツはプロレス団体のものであること、そして、自分はその団体に所属するレスラーであることを話した。 『ええ……!プロレスラーの方だったんですか?』  娘は目をまん丸くし、江川の全体を見回した。年若い女性にとって、プロレスラーは異次元の存在なのだろうか。あるいは、筋骨隆々とした昭和のレスラーが思い浮かぶのかもしれない。江川は苦笑した。自分のような一般人・・・とさほど変わらない体格の人間を、プロレスラーと思うほうが無理である。 『一応ね。「魂スピリットプロレス」という団体に所属しています』 「魂……ごめんなさい、聞いたことないです」 『まあ、インディーズの団体ですから』  今でこそ、プロレス界に名を轟かせる「魂プロレス」であるが、当時は新日本プロレスや全日本プロレスに比べ、知る人ぞ知るといったような団体であった。その団体の、デビューして半年そこらの新人レスラーの江川を知っている者など、筋金入りのプロレスマニアくらいであろう。 『お名前は何て言うんですか?』 『江川です。江川涼介。もちろん本名で、リングネームも同じです』 『江川さん……ごめんなさい。やっぱり聞いたことないです。私、プロレスとか格闘技とか、全然詳しくなくて』 『いえ、知らなくて当然です。まだまだ新人なんで』  娘は申し訳なさそうな顔をするが、江川は何とも思わなかった。 『プロレスラーをされてて、やっぱり楽しいですか?』 『最高にね。プロレスは人生・・そのものです』 『人生?』  気づけば病院の待合室にいることを忘れて、夢中で彼女にプロレスの素晴らしさを語っていた。稽古の辛さ、技の食らった時の痛さ、スリーカウントを奪とった時の嬉しさ。そして、プロレスラーであることの誇り。  江川のプロレス講座に、娘は真剣な表情で聞き入っていた。 『あ……すいません。一方的に俺が喋って』 『ううん、全然』  昔からプロレスのことになると、周りを忘れて熱くなる癖がある。叶うなら、今すぐにでもリングに上り試合がしたい。 『江川さんは、ほんとにプロレスが好きなんですね』 『ま、まあ……はい』  面と向かって言われ、少し恥ずかしくなった。 『好きなことがあって、それに一生懸命になれるっていいですね。好きなことを仕事にしている人って、ほんと素敵です。私にはそういうのありませんから……』  江川は思わず娘の顔を見た。眩しそうな瞳でテレビを見上げる彼女の横顔は、実に美しかった。 おそらく、この時、彼女に惹かれたのだと思う。  この女性ひとにプロレスを見せたい。自分がベルトを掲げる姿を見てほしい。そのために何としても、リングに復帰してみせる。江川のレスラーとしての魂が復活した瞬間であった。 『よ、よければ…こん』 『西川さ~ん?西川まりあさ~ん?』  今度、うちの試合を観に来ませんか?勇気を振り絞り、そう言おうとした瞬間、感情のこもっていない声に遮られた。舌打ちしたい思いで声の方を見ると、女性の看護師が娘を手招きしている。 『あ、そろそろ検診の時間だ……』 「待って……」椅子から立ち上がる彼女の背中に、江川は手を出しかけた。もうこのまま一生会えないのではないか。  もう一度会いたい。不安と切なさが混ざり合い、江川の心を締め付けた。 『あ、そうだ』 看護師の後に着いていこうとする娘だったが、ふとこちらを振り向いた。そして、並びの良い白い歯を見せた。 『私、西川っていいます。「西川まりあ」です』 『まり……あさん?』 『はい!また、お話しましょう、江川さん。もっと、プロレスのこと教えてくださいね』  手を振って西川まりあは去っていった。江川も差し出しかけていた手を、彼女に振っていた。  俺も頑張らねば。あの娘に会うために。
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