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俺は悪魔と取引をした。そう、娘を救うために。
娘はとんでもない罪を犯し神に罰せられた。その瞳は開くこともなくあの鈴を転がすような声で笑うこともない。ただただ貧乏臭い寝台で眠っている。死んでいるわけじゃない。ただ眠っているだけ。
いつか目を覚ますかもしれないという期待ともう目覚めないんじゃないかという絶望。悪魔はそんな俺の気持ちに付け込んできた。
――なぁオマエ、助けてやろうか?
ある夜、奴はそう言って俺の夢に現れた。
「娘を……目覚めさせることができるのか?」
美しい男の姿をした悪魔は口を歪めて嗤い、こう嘯いた。
――誰に言ってる? 俺にできないことなんてない。
気付けば俺は悪魔の前で跪きその手を握っていた。ぐにゃりとした異様な触感に怖気を震うも頭を垂れるしかない。これが最後の希望と俺は懇願した。
「お願いだ。娘を救ってくれ」
――いいだろう。なら取引だ。
悪魔はそう俺に囁く。ああ、わかってる。奴らの常套手段だ。でも今の俺は従うしかない。
「何を……すればいい」
血が出るほどに唇を嚙みしめ悪魔の応えを待つ。永遠に感じる程の沈黙の後、奴はこう言った。
――そうだな。よし、俺の命ずるままに命を刈り取り捧げよ。
その日から俺の地獄は始まった。悪魔は毎晩夢に現れて囁く。こんな風に。
――若い女の命を……。
――年老いた男の命を……。
――産まれたばかりの命を……。
俺の家は村外れにあり商いに向かう人々がよく通りかかる。獲物に不自由することはなかった。ただ通り過ぎようとする獲物の後ろに忍び寄り……。
ある時俺は悪魔に尋ねた。どうしてこんなことをさせるのか、と。
――おいおい、人の命を消すのに理由なんてないだろ。まぁ、強いて言うとしたら……。
奴は端正な顔を歪めてこう言った。
――面白いからだ。
それからも俺は殺し続けた。不思議なことに誰にも気付かれない。これも悪魔の仕業なのだろうか。
どれほどの命を刈り取っただろう。ある日悪魔はこれが最後だと言った。
――お前にとって一番大切な命を捧げよ。それで娘は救われる。
「一番大切な命……」
――そうだ、間違うなよ。
奴はそう言って消えた。
俺は考えた。娘を救うために誰を殺せばいい? そうだ、自らの命を絶つっていうのはどうだ。だがすぐに思い直す。そんなことをしたら娘の世話は誰がするんだ。最愛の娘を一人ぼっちで残しておくことなんてできない。
誰だ。誰だ。誰だ。
何度も世話になった隣の婆さんか? それとも市場でいつもオマケしてくれる爺さんか? いや、奴がそんなもので納得するはずもない。
誰だ。誰だ。誰だ。ダレだ。ダレだ。ダレだ……。
その夜、俺の夢に現れたのはいつもの悪魔ではなく今は亡き妻だった。まだ幸せだった頃の夢。家族三人、笑顔で過ごしていた頃の夢。最愛なる家族。ああそうか、そういうことか。
翌朝、俺は清々しい気分で目が覚めた。こんな朝はいつ以来だろう。これでようやく娘は救われる。どうして今まで気付かなかったのか。これしか方法はないというのに。
俺は眠り続ける娘を見下ろし、数多の命を刈り取った大きな斧を……。
Fin
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