仔羊たちのSmall Talk ~ フェティッシュ・ヴァリエーション:Case01

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 八月も終わりに近づいたある夕方、東京都内でも最深部を走るその地下鉄の車内は空席こそないものの、帰宅時のラッシュを考慮した強めのクーラーのおかげで十分に快適だった。酷暑と言うべき厳しい外気温の下、ほんの少し歩いただけでもあっというまに汗でびしょびしょになってしまったシャツも小振りの省エネ車両の天井からゴウゴウと吹き下す冷気のおかげで二駅も過ぎた頃にはすっかり乾いてしまっていた。  車内では乗客の多くが思い思いのポジションをキープしてスマートフォンの画面に目を落としている。吊り革に手をかけながらもう一方の手で器用に操作するビジネスマン、横向きにして両手を使ってゲームに興じる若い兄さん、片手に通勤カバンを下げながら空いた手の親指で器用にスルスルとフリックしながらSNSに目を通す中年男性などなど、みなそれぞれが互いに干渉することもぶつかることもないくらいの余裕が車内にはあった。来週からは新学期も始まり通勤電車の車内にも学生たちが戻ってくる。それまでの数日間はこのゆったりとした帰宅時間をまったりと楽しむことができることだろう。  以前からの近視に加えて最近は老眼の気が出て来た私にとって、電車内での暇つぶしはスマートフォンの画面を見ることよりも、ストレージに大量に落とした音楽を楽しむことだった。この路線は私の乗車駅から降車駅までの間は駅の構造上片側のドアのみが開く。特に帰路を急がない日など、私は乗るべき便を一本見送ってでも降車まで開くことがない方の側のドアの脇を陣取っておよそ二十分間、ささやかな妄想を描きながら音楽を楽しむのだった。
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