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善く生きる契約
兄は殺された。
町外れのゴロツキ達がたむろする酒場で遺体は発見された。
おそらくゴロツキによる暴行死。
兄は仲間のゴロツキと揉めて集団リンチにあったのだ。
私の知っている兄は両親亡き後、叔母の援助を断って一人で私を育ててくれた優しくて頼りになる兄だった。
そんな兄がゴロツキの仲間だったなんて最初は私のイメージする兄が全て幻想だったと裏切られた気分だったが。
兄とのお別れの日。
亡き骸が埋葬人によって葬られる直前に私は啜り泣く叔母の制止を振り切り、兄の顔を見た。
もうあの凛々しい面影はなく、顔中腫れ上がり、暴力を一身に受け取り朽ちた青白い蝋人形の顔がそこにあった。
痛かったよね...お兄ちゃん。
心の中でそう呟いた。
それを察するかのように叔母が私の肩を抱き、嗚咽混じりに泣き崩れた。
絶望と悲しみが私の頬を伝って流れ、私も崩れた。
私と兄はずいぶん歳が離れていて、私は物心ついた時から兄に育てられていた。
叔母は自分の姉と義理の兄が亡くなった後、叔母は兄と私を引き取ろうとしたが、兄は一人暮らしの叔母に迷惑かけられないと、兄妹二人で生きて行けると宣言したのだ。
そんなわたしは10歳で一人身になった。
私を引き取ってくれて叔母には感謝しなくてはいけないことぐらいわかってはいるのだが。
私はあの葬式の日以来。一日中部屋のベッドの上にいて、シーツにくるまっている。
叔母はそんな私に気を使ってか、食事の時以外は声をかけずにそっとしておいてくれる。
叔母だって甥っ子が殺されたことによって相当な心の傷を負っているはずなのに、私を引き取り養ってくれる余力をみせている。
叔母が仕事に出かけた後、家の中はより静まり返っていた。
一人の空間の中では、誰も気を使う心配もない。
叔母がいる間はよからぬことを考えなくなってしまう。
犯人はまだ捕まってない。
兄を殺したゴロツキは町の中で兄を殺したことを気に止めず何事もなかったかのように仲間とたむろっているかと妄想してしまう。
私が殺そうか。
だが、こんな小さく腕力も持たない者が立ち向かったところで返り討ちに合うだけだ。
でもこのままじゃあんまりだ。
兄のために復讐を誓う憎しみの炎は私を何かに駆り立てるが、それと同時に己の無力さと非力さが心をゆっくり炙り苦しめる。
自分は復讐するのにはあまりにも弱すぎる。
その事実がこの世にとどまっている私に容赦なく突き刺さる。
もう死にたい。
生きたくない。
私はベッドから降りてそのまま身支度もせずに家を出た。
向かった先は家の裏側にある森の中。
本来なら葉っぱや枝を掻き分けながら進むようにするのだが、私は気にせず体が鋭い葉に切られてもそのまま突き進む。
よく兄と一緒に森の中を駆け巡り、山菜取りに勤しんだ思い出がある。
その知識で得たところによると。
あった。
このキノコ。
昔私が誤って食べそうになり、兄に散々注意されたことがある。
まさかこんな形でこのキノコを食べたくなる日がくるとは思わなかった。
キノコを手に取ろうとしたが、少し躊躇する。
私が死んだら誰か悲しみかな。
叔母は悲しむだろう。
だが私も兄を失ったことで悲しいし、苦しい。
生きる気力がない。
私はキノコを手に取り口に運び齧った。
柔らかい食感と共に、口いっぱいにひどく苦い味がした。
そのまま飲み込んだ。
数分もしないうちに体中が痺れ、呼吸もしづらくなってきた。
いよいよだ。だがこれでいいのだ。
私は地面に横たわり、目を閉じた。
子守唄を聞かされ安堵の眠りに陥る幼な子のように、私の意識は闇に沈んだ。
私は夜の海に浮かんでいた。
だが不思議と海水が口や耳の中に入ってこないで、体に海水の冷たさを感じながらただただ仰向けに体が浮いているような感覚だ。
空には星はなく、ただ異様にでかい赤い満月が闇の海を照らしている。
かなり強い蛍光色の赤のようで、不気味さと同時に美しさも感じられる。
ここはあの世なのだろうか?
それとも地獄?
天国ではないのは見たかんじ確かなんだけど。
赤い月を眺めながら、この場所の考察をしていると、突然月がぐにゃりと曲がり、パンの生地をこねるかのようにぐにゃぐにゃ掻き回された後、鼻、口、目が形成されて巨大な人の顔になった。
私は絶句した。
人間の顔がこうも巨大に写し出されると、恐怖を感じる。
顔は大きな目でこちらをじっと見つめて後、ため息混じりにこう言った。
「君はまだ死ぬには早かったよ」
顔が話すと海に波紋が広がる。
思ったよりも優しく、落ち着きのある低い声だ。
顔は続ける。
「でもこのまま君を地獄に落とさないといけないね。お兄さんにも会えないよ。」
その言葉に私は愕然とし、私が抗議の声をあげようと体を動かそうとしたが、何故か体は海水に浸かったまま動かず、声もあげられない。
まるで金縛りにあったかのように。
それを察してか顔は同情するかのように優しげな表情を浮かべ「地獄には落ちたくないだろう?何より死んでもお兄さんに会えなくなるのは嫌だろう?」
と言った。
私は声を出せない代わりに目で必死に訴えた。
それが伝わったのか顔は「よし。」と言い「なら契約を結ぼう」と答えた。
契約?
私は目で疑問符を送る。
「君がお兄さんを殺した奴に復讐するなら、あるいは君が今回みたいに自殺をするなら、君を地獄に落とす。」
そんな!復讐できないなんて!
私は再び抗議の声をあげようとするが、やはり何もできず、顔が一方的に喋るまま。
「だがもし、君が自殺も復讐を堪えて生きるのであれば、最終的にお兄さんに会わせてあげよう。」
兄に会える?本当に?
私は考えた。
自殺も復讐も堪えるのは、今の私には地獄の苦しみでしかない。
でもそれに耐え続けた後は兄に会える。
私はいつの間にか。
「耐えます。お兄ちゃんに会えるなら。」
答えていた。
「契約成立だね。」
その時。私の体は暗闇の海に沈み始めていた。
顔はどんどん遠くなっていく。
「善く生きることを放棄したら、君の魂ドブに捨てられることを忘れないでね。」
顔のこの言葉を最後に私は完全に沈みきり、闇に閉ざされた。
私は誰かの呼び声に目が覚めた。
気がつくと。私は自宅のベッドに寝かされていた。
私の目の前には、叔母と数人の人達が心配そうに覗き込んでいた。
私は状況がうまく掴めず、起き上がると叔母は泣き叫びながら私に抱きついた。
そこでようやく。数人の人達の一人が口を開いた。
どうやら。私は森の中で倒れているのを偶然私を知っている近所の人が発見し、叔母のいる家に運んだらしい。
叔母の周りにいる人達は医者と看護師達だ。
私はかなり危険な状態だったらしい。
それでも必死に治療してくれたお医者さん達と一人身になった私を愛してくれり叔母に、この時始めて私を支えてくれる人達がいるのを痛感した。
私は今まで独りよがりだったのかもしれない。
私のために泣いてくれる叔母に、いつ間にかお互い抱き合って泣き叫んでいた。
あれからしばらく経って。
私も叔母に迷惑かけられないと、引きこもるのをやめて叔母の手伝いをしつつ勉強もした。
兄が生きていた頃の生活リズムを取り戻そうと努力している。
毎日兄の墓の前で今日あったことを話す。
そしてその度に思い出す。
あの暗闇の海の出来事を。
この世とあの世の狭間にいたのか、今となっては確かめようにも、もう私に自殺の選択肢もない。
復讐の選択肢もない。
あれは夢にしてはあまりに生々しく、闇の海の冷たさを今でも体が覚えている。
それにあの優しげな巨大な月の顔。
夢だったらすぐに忘れてしまうはずなのに、覚めた後今に至るまで、鮮明に覚えている。
そのおかげで私は真っ当に生きている。
そして真っ当に生きていればいつか兄に会える。
本当にそうなのか、まだわからない。
だが私が善く生きる理由には十分なのだ。
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