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3.
両手を広げるようにしてなお笑って見せれば、英雄様からは叩きつけるような怒気が溢れて来た。
やはりこの人は危険だ。
これほどに憔悴させてなお、戦意を持ち、本当の意味での戦う力を失ってはいない。
それに今のこの人でも、私一人程度やろうと思えば。
いつで、も。
そう思った瞬間には視界が反転していた。
「……うっ」
「お前を、お前のこの細首を捻れば、全てが助かるのか?」
私は一瞬の内にベッドへと引きずり込まれ、押し倒されていた。
痩せた英雄様が私にのしかかり、片手を私の喉にかけている。
「うぐっ、くふっ」
「どうしてだ。なぜ殺した。なぜ壊した。なぜ潰せる」
「かっ、あっ……っ」
「お前が命じて殺した人々がどれほどの数になると思う。攫われた人々は今どうなっている。何が目的で、こんな事をしている!!」
「あが、ぐっ。うっ」
英雄様の指が私に抉りこんでくる。
苦しい、息ができない。
拒むことなど許されないが、まだ死ぬわけにもいかない。
あぁ、強く気持ちをもたないと、意識が。
「どうして抵抗しないのだ! 世界に仇なす魔女なのだろうお前は!!」
英雄様が叫び、手が離される。
私は両手で首を押え激しくせき込んだ。
「ごほっ、がはっ。あっ、かふっ、はぁっはっ、はっはぐっはっ…………」
「どういう、つもりなんだ」
「わた、ごふっ。私を殺せ、ば、白と黒は制御を、けふっ、喪い、ます。今度こそ、人類は、終わりでしょう」
「人質、ということか」
「そう、取ってもらって、構いません。けほっ」
咳が落ち着くのに少し時間がかかった。
喉を押えていた手をパタリとシーツに落とす。
馬乗りになり顔を近づけ、英雄様は油断なくこちらを警戒している。
押し倒されるのも英雄様になら悪くないな、なんて今思うべきでない事を考えてしまう。
英雄様が吐き捨てるように睨みつけてくるのを、少し酸素の足りないぼぉっとした気持ちで見上げる。
嗚呼、凛々しい顔だ。衰えても素敵なお姿だ。この人のためにこそ私は生きたい。
思わず手を伸ばして彼の頬を撫でてしまう。
残念ながら英雄様にすぐ跳ねのけられてしまったが。
「なんのつもりだ」
「そういえば英雄様とはそれなりの年月を一緒にいましたが、身体を重ねたことはなかったなと思いまして」
「玉体よりも大事にしなければいけなかった賢者殿に、俺が傷をつけるわけにはいかなかろうが」
「では。人類の敵たる魔女であれば、嬲ってくださいますか?」
「それで人が救えるのか?」
ハイ。と答えれば手を付けてくれそうであるが、これ以上の嘘は忍びないので正直に答えることにする。
「いいえ。残念ながら」
「ではやめておく」
「そうですか。残念です」
本当に残念だ。
もう随分と昔になったあの時に命を救われ、どうすればこの人の役に立てるだろうかと無い頭で考えた最初の覚悟だったはずだが、ズレた私の我欲に過ぎないものだったようだ。
やはり身を捧げる程度ではこの人の力にはなれないのだ。
世界を敵に回すぐらいの覚悟でちょうど良かったようだ。
さて、冗談はこれくらいにしておこう。
「英雄様」
「なんだ」
「私には目的があります。私の目的が達せられれば大魔王達はお互い殺し合い、死ぬでしょう」
「それはなんだ」
「探ってください」
「なんだと」
「私を疑ってください。私を監視して下さい。私を見ていて下さい。私に頼って、願ってください」
語る言葉に思わず熱がこもる。本懐ではないが、ずっと思っていたことだ。
「分かった時には。その時には、私の目的はきっと完遂していることでしょう」
これで、この人には首輪がかけられる。
まだ人々は英雄様を忘れていない。
この人に頼る声が消えていない。
英雄様を血みどろの戦いへと引きずり出し、殺し合いをさせようとしている。
消さなければいけない。
英雄様は戦って戦って戦って戦い尽くし、傷つき、疲れ果てていた。
でもこの人を望む声がある限り、英雄様は立ち上がってしまう。
ならば忘れてもらわなければ、存在を。価値を。志しを。
記憶を殺し、記録を壊し、軌跡を潰して、歴史からもいなくなってもらうのだ。
そうすればこの人はもう、傷つかない。
そうすればこの人を、守れる。
非力で卑怯で最低な私にはこんな方法しかなかった。
「英雄様。嫌っても憎んでも、私だけを見ていて、くださいね」
「それが人類を守る、ためならばな」
人類を守る貴方を守りたい人が一人くらいいてもいいと、私は思う。
だが、私は私がこの人を守り切れなくなった時が怖い。
この世には世界には未だ知られざる危機が無数にある。
英雄様一つの命ではとても足りないほどの破滅が何重にも用意されていた。
人々は大魔王の軍勢が人類圏とは反対の側で何と戦い続けているかなど一生知ることはないだろう。
だから彼を英雄の座から引きずり下ろしたのだ。
それでも、この世界が危機にあるのが運命であり、魔物の王などいなくとも、神や悪魔や天地が人々をなお脅かすのなら。
私でさえ彼を守る壁でいられなくなってしまったならば。
その時彼がどんなに弱く、小さな存在になっていたとしても。
それでも立ち上がってしまうのが、英雄という人なのだろう。
私の小さな想いなど捨て置いて、彼は誰からも忘れられぬ英雄に、いずれまたなってしまうのだろう。
私はただ、それが恐ろしい。
(おしまい)
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