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「おなか空いたなー」が高校生になってからの彼の口癖。
私は保育園からツバサのことを知っているが、昔はそこまで大食いといった感じではなかった。この口癖はきっと、彼が高校でもバスケ部に入ったことが影響している。
学校でツバサは大食いキャラのようになっており、クラスメイトからたくさんお菓子をもらったり、お昼休みにはお弁当を分けてもらったりしている。
ご飯をいっぱい食べるのは体づくりの一環。すべてはバスケのためだと、彼はとにかくバスケ部でスタメンに這い上がろうと、毎日汗を流していた。
私は今、それを素直に応援することができない。どうしても、そこまでして成し遂げないといけないことなのかと思ってしまう。
「ツバサ、今日一緒に帰らない?」
私はだめもとでツバサを誘う。
「ミホじゃん。今日はちょっとごめんな」
「今日はって、いつもじゃん」
「いやっ今日は部活じゃなくて、歯医者に行かないとだめなんだよ」
「あっそうなんだ」
「高校生で虫歯とか恥ずかしいよな」
ツバサは冗談っぽく、困った表情をしてみせる。
「ちゃんと歯磨きしないとね」
「はーい」
私はツバサといつもどおりの感じで話せているだろうか。少し不安になる。
「手、怪我でもしたの? それも部活?」
「えっ? あっこれか。そうバスケ! 先輩のパスが早すぎてさ。取りミスっちゃった」
彼はぎこちなく笑う。
「色々と怪我とか気を付けてね」
「もうなんだよ。相変わらずミホは俺の親より過保護だな」
私の心配がそのように伝わってくれたのなら良かった。
ピンポーンと家のチャイムを鳴らす。
すぐにツバサのお母さんが微笑みながら、私を迎え入れてくれる。しかし明らかにその顔はやつれていた。もしかしたら私もこんな顔になっているのだろうか。
ツバサには内緒だが、ここ最近彼が部活に出ている間、お母さんと話をすることが日課となっていた。ツバサに関する情報共有。私とお母さんにとってこの時間はなくてはならない、大切な時間だった。
どうやら最近彼は、アイスを食べなくなったらしい。小学生の頃は毎日のようにホームランアイスを食べていたというのに。ツバサ曰く、体づくりのためにアイスは必要ないらしい。
いつものとおりあまり進展はないものの、互いに思いを確認し合い、私は彼が帰ってくる前に家を後にしようとした。
「ただいまー」
しまった。今日は部活じゃなかった。てっきりいつもどおり18時過ぎまで帰ってこないものだと安心していた。
忘れていた私はまだしも、お母さんもこのことを知らないのであれば、ツバサは歯医者のことを私にしか話していないのだ。
「あれ? お客さん? ってミホじゃん」
「うん。私。お邪魔してます」
「今日はどうしたんだよ。一緒に帰ろーとか、帰ったら家にいるし」
「まあ色々あって」
「そうなの?」
「ツバサ、早かったのね」
お母さんは、昔の頃と変わらない声色でツバサに話しかける。
「そうなんだよね。早く部活終わってさ」
ツバサは私に静かにと人差し指を立てて見せる。
「そうなのね。今日はミホちゃんと一緒にケーキ食べたくて、お母さんが家に呼んだの」
お母さんは、家にいることが不自然にならないよう、私に助け舟を出してくれる。
「そうなの?」
純粋な目でツバサは私を見つめる。
「まあそういうこと」
「あっ! だからか! 俺がケーキ食べれないと思って何かミホ変だったのか」
ツバサが私にとって都合の良い解釈をしてくれる。
「そうそう」
「水臭いな。気にせずいっぱい食べなよ! 俺は色々と直ったら食べるからさ」
最後の部分だけ、お母さんに聞こえないよう、彼は小声で私に伝えてくる。
「私とミホちゃんはケーキ食べるから、ツバサはご飯食べちゃいなさい」
「はーい。今日は?」
「ミートソースパスタ」
「俺の好物」
何年ぶりだろうか、私たちは3人で食卓を囲むこととなった。
束の間の団らんを終えた私は、ツバサの部屋で少し話していくことにした。
「ツバサは部活楽しいの? すごいしんどそうに見えるけど」
「楽しいよ。……まあもちろんしんどいけどさ。でも絶対、中学の時みたいにスタメンで活躍するからさ、ミホも見ててよ」
「うん。ツバサのことは言われなくても見てるよ。心配だから」
「そんなに俺って頼りない?」
ツバサは少し困ったように、私の顔をうかがう。
「違う違う。私がただ心配性なだけ。それにしてもツバサって痩せたよね」
話をそらしたかったのだが、少し話題を間違えてしまったかもしれない。
「本当はもっと分厚い体になりたいんだけどな……」
「いやそうじゃなくて、小学校の頃は顔も体も丸っこかったでしょ?」
私は必死になってごまかす。
「いつの話だよ! もう昔太ってたの恥ずかしいんだから。いつも卒業アルバムとか友達に見せると誰だよって言われる」
ツバサは恥ずかしそうに笑う。
「そっかそっか。昔は昔でかわいかったよ」
彼を傷つけずに済んだのだと分かり、私はほっとする。
「ごめんミホ、ちょっとトイレ」
分かりやすいジャスチャーで私に断ると、ツバサは急いで部屋を出ていった。
ツバサは部屋になかなか戻ってこなかった。
このまま彼と話していると、なんだかぼろを出してしまいそうだったので、私はツバサの部屋を出て、玄関へと向かった。
階段を下りる音に気が付いたお母さんは、丁寧にも、私を見送りに来てくれる。
「いつも本当にありがとうね。今はミホちゃんが私の心の支えなの」
「とんでもありません。それは私も同じですから」
「……優しいのね。本当は親の私がなんとかしないといけないんだけど。どうすればいいか、分からなくて……」
苦悶に満ちた表情とはまさにこういうものなんだなと私は思った。
「お母さんのせいじゃありません。誰も悪くない。もちろんツバサも」
「そうね。そう、なのよね。でも……。ごめんなさい。みほちゃんのお母さんによろしくね」
「はい。また明日来ます」
トイレからツバサが出てくる。
「あれっ、もう帰るの?」
私は、はっと息を飲んでしまう。
「うん。お母さんがご飯あるから早く帰ってきなさいって」
「本当にごめんね。遅くまで」
先ほどの表情が嘘かのように、ツバサのお母さんは、いつもどおりのお母さんへと豹変する。
「ミホ、もう外暗いし、送っていこうか?」
ツバサは本当に優しい、素敵な人だ。これは昔から全然変わってない。
「いや、いいよ。家近いし。それよりツバサ口拭かないと。晩御飯のついてるよ」
今度はツバサが息を飲む番だった。
「あれ? まじ? さっきよく確認したんだけどな……。ありがと」
「いいよ。ツバサ、また明日来るね」
「えっ? あっ、うん」
もうこのままにはしておけない。こんなツバサを私はもう見ていられなかった。
私は心に確かに誓う。物語を1つ、いや0.5だけでもいいから、前に進めるんだと。
翌日、私はツバサの家に向かう前に、近所のスーパーを訪れていた。
昨日プリントアウトした紙を参考に、買い物かごに食品をどんどん入れていく。
「何が体に合うか分からないからなー」
かごには既に、ヨーグルト、こんにゃく、ゼリーにプリン、それに豆腐が入っていた。
「アイスはしみるからダメっと。あとオクラ買って......。うーん、豆腐と一緒にみそ汁にしてもいいか」
私はひとりでぶつぶつ言いながら、今回の作戦に適した食品を買っていった。
あと忘れずに、プラスチックのスプーンももらっていこう。
家に着くと、ツバサがどの順番で食べるのが最適かを考えつつ、私は夜ごはんの準備を始めた。
勝手なことをして申し訳ないと思いつつ、お母さんには、ツバサと2人きりで夜ごはんを食べさせてほしいと私からお願いした。普段優しいツバサのお母さんも、いきなりそんなことを言われ、初めはさすがに戸惑っていたが、最終的には何か考えがあるのねと許してくれた。
「よしっ。さすがにゼリーとプリンを先に食べてもらうのはね」
私はなるべく不自然な順番とならないよう、オクラと豆腐のみそ汁とこんにゃくの炒め物などを前菜として食べてもらおうと計画する。和食なのに前菜というのもなんだかおかしいが、甘いものを主食の前に食べるよりは良いだろう。
ピーピーピーと炊飯器の音が鳴ると同時に、玄関の扉が開く音がした。
「ミホーー。いるのー?」
とんでもなく大きいスポーツバックを抱えたツバサがリビングに入ってくる。額には短い前髪がすこし張り付いていた。
「いるよ。ご飯作ってたの」
「もう本当にお母さんじゃん」
「今日はツバサのお母さんに言って、2人でご飯食べようと思って」
「2人!? 何で?」
「まあ良いから良いから」
優しいツバサもさすがに怪しいと感じたのか、少し眉間にしわを寄せつつ、ダイニングチェアに腰を下ろす。
「お風呂先入る?」
「いいよ。そんなミホがわざわざご飯作ってくれたのに。あったかいうちに食べたい」
「そっか。じゃあご飯にしよう」
なんだか半歩だけでも前に進んでみようと思ったからか、久々にツバサと自然に話せている気がした。
「じゃあまずはみそ汁と、こんにゃくの炒め物ね。あと海藻サラダ」
「えっ、まずはって先にこれだけ食べるの??」
本当にどういうことだか分からないといった感じで、ツバサは困惑する。
「いいから。冷めちゃうよ?」
「う、うん。いただきます……」
恐る恐るツバサは私の作った前菜に口をつける。
「えっ、めっちゃおいしい」
「そりゃそうだよ。私料理得意だもん」
「確かに、ミホってそうだったね」
ツバサはうんうんと頷きながら、懐かしそうに、でもどこか寂しそうにも見える表情でご飯を食べ進める。
「ゆっくり噛んで食べてね。ちゃんとご飯も炊いてあるし、メインにデザートもあるから」
「うん! ってミホさ、何か俺に高いものでも買わせようとしてる?」
優しいツバサはまた冗談を言ってくる。
「違うって。そんな意地悪しないよ。今日はただツバサに少し楽になってもらいたいだけ」
「楽? ……そう、なんだ」
前菜の後には、メインの生姜焼きと煮物、それに白米をツバサに食べてもらった。汁物と一緒にご飯を食べてもらえないのはちょっと悲しかったけど、それはこの際仕方がない。
最後はデザートということで、私たちはゼリーとプリンを半分ずつ交換しながら食べていた。
「いやー本当に美味しかった。おなか一杯。それにしてもミホは凄いね」
「凄くはないよ。料理が好きなだけだから」
ツバサはなんだか少しそわそわしていた。
「このプリンとゼリー結構高そう。俺お金払うよ」
「いいよ。これから嘘つかずに、正直にツバサが私と話してくれれば、それ以外何もいらない」
「……どういうこと?」
「もう少し時間が経ったら、ね」
食事を終えて数十分程度が経とうとしていた。
「ごめんミホ、ちょっとトイレ」
「うん。じゃあツバサこれ使って」
私は、スーパーでもらってきたプラスチック製のスプーンにラップを巻きつけた物を渡す。
「なに、これ?」
「吐くならこれ使った方がいいよ。手の甲赤くなってる」
ツバサの瞳がくわっと大きく開かれると、うまく息ができないのか、浅い息を吸ったり吐いたりする。
「えっ……。どうい、はくっ、えっ」
「だから、食べたご飯を吐くときは、手を使わない方がいいよって。あともうツバサは良く知ってるかもしれないけど、ご飯食べるなら今日みたいな順番で、吐くときに負担が少なくなるように食べた方がいいし、吐いた後はたくさん水でうがいしてね? そのせいで歯医者行ってたんでしょ?」
ツバサは呆然とただ涙を流していた。
「ミホ、知ってたの? なんで? ……もう俺っ、ダメだ……」
「知ってたよ。分かるよ。ツバサが悩んでたことなんて。私ツバサのことずっと見てたから」
膝から崩れ落ちると、ツバサはぐしゃぐしゃの顔で私を見上げる。
「ミホは、ミホはさ。俺に吐くのやめなよって言わないの?」
「言わない。言えないよ。ツバサが今、バスケ部で苦しんでるストレスはそれでしか解決できないんでしょ? それなら私は何も止められない。そんな権利ない」
「でもっ!! お医者さんも親も! みんなはっきり言わないけど……。なんとかっ、なんとか克服できたら、いいねって……。だから俺っ! もうこれ病気なんだ、普通の人間じゃっ、なくなったんだって……」
ツバサは苦しそうに、必死になって感情を吐露する。
「ツバサは普通の人間だよ。私が保証する。中学の時スタメンで頑張ってたツバサも、今のツバサもどっちも同じ普通の人間だよ」
「でも……治さないと」
「そうだね。ツバサが治したいと思ってるなら、治そう。でもバスケでスタメンになるのも、ツバサがそれを治すのも、すぐにうまくいくとは限らない。もうちょっと時間がかかるかもしれない。だからちょっと、ほんのちょっとだけ前に進んでみようよ。少しでいいから」
「前、に?」
「うん。ほんの少しだけ前に。まずは体に負担をかけないように吐いてみようよ」
ツバサは私をただ見つめる。
「それでツバサが嫌じゃなかったら、それを私に手伝わせてくれないかな」
「............ミホ。なん、で」
「ツバサが私にとって特別な人だから、それだけじゃ足りないかな」
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