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幸福な時間
「マサくん。これ、剥がして大丈夫なのかな?」と美希は言った。明らかに動揺した声だ。
「でも、お医者様がそう仰せになったのだから……」と僕の声も動揺が隠せない。
今、美希のお腹には8枚のホルモン剤の貼り薬が貼られていた。これは妊娠を定着させるものだ。医師からは今日からもう貼らなくと良いと言われたそうだ。でも、いきなり全てゼロにして良いのだろうか?不安はよぎる。少しずつ減らすべきでは無いのか?
「そうだよね。お医者様はプロだからね。言われた通りにするよ」と美希は震えた声で言い、一枚ずつ剥がしていった。「これで痒いのから解放されるよ。ラクになる〜」
5回目の体外受精で美希は妊娠した。信じられない気持ちだ。まさに奇跡が舞い降りたのだ。
僕たちは期待と喜びと不安に振り回されていた。デパートに行くたびに「このシャツ、可愛い」だとか、「派手な色や柄が許されるのは赤ちゃんのうちだけだよね」だとか、「やっぱり帽子は耳がついたやつの方が可愛いよね」だの言い、夫婦でまだ生まれていない、顔も見ていない我が子の服を買いまくっていた。
「あ〜マサくん。お腹空いたよ。でも気持ち悪くて食べられない〜」とテーブルに着いた美希が手をバタバタ振った。
美希は悪阻が酷かった。食べ物の匂い、特に生魚の匂いがダメになった。何とか食べられる物は素うどんのみ。匂いで戻しそうになるから、僕も素うどんだ。僕もお腹が空いた。でも、こんなに幸福感のある空腹は無い。
「はい。じゃあお願い」と美希は膨らみが目立つようになったお腹をペロンと出した。「はい。保湿クリーム」
僕は美希から受け取ったクリームを美希のまんまるなお腹に塗った。妊娠線予防の為のケアだ。どんな力で塗れば良いのかまるで分からない。
「マサくん。くすぐったい。もっと力をいれても大丈夫だよ。後!赤ちゃんに話しかけてながらだよ」
「あっ。おっお元気ですか?」と僕は美希のお腹に話しかけた。
「何をそれ〜」と美希は笑った。
すると反応が返って来た。赤ちゃんが美希のお腹を蹴ったのだ。
「あっ。返事が来た」
「ほんと!パパって分かるんだ。この子、天才かも!」
「でも、天才扱いよりは、まずは普通とは何かを教えた方が良いと僕は思う」
「そ、そうだね。あんまり天才扱いすると歪んじゃうかも知れないね。優しさとかそういうことの方が大事だよね」と美希は言い、笑った。
柔らかくて、温かくて、まんまるな居心地の良さそうなお腹だった。
美希のクリーム塗りは僕たち3人のしあわせな日課になった。日々が過ぎるにつれ、美希のお腹は大きくなっていった。
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