観桜(かんおう)

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 寒さも綻び、ほの温かい空気が漂っていた。 「春かあ・・。」 旬(しゅん)はこの季節があまり好きでは無かった。卒業や就職、期待に胸躍らせて春を楽しむ人は多い。しかし、旬にはそんな思い出など、殆ど無かった。現に今、彼は就職戦線から脱落し、この先も決まらぬまま、虚ろな春を迎えていた。 「気晴らしに、水鳥でも見にいくか。」 そう呟くと、彼は家からそう遠く無い公園に向かった。其処には大きな池があり、冬には渡り鳥が身を寄せ合って越冬していた。寒々した景色の中、羽を膨らませて水辺に浮かぶ鳥を眺めていると、何故か気が安らいだ。池の畔近くの遊歩道に差し掛かったとき、いつもとは違って、妙に人出が多いことに旬は気付いた。 「あ、そうか。そういえば街路樹は桜だったな・・。」 公園のあちこちで薄ピンク色の花が咲き、人々が挙ってそれらを眺めに訪れていた。その下では、シートを広げて酒盛りをして騒いだり、持ち寄った食べ物を炭火で焼いたりと、花そのものよりも、このイベントを楽しもうという人でごった返していた。見るからに楽しそうな人々を他所に、とてもそんな気分になれない旬は、垂れ下がった桜の枝にそっと触れながら、 「オマエの美しさを見に来てる人が、果たしてどれほどいるのだろうな・・。」 そう呟きながら、何とか人気の無い所を探そうとした。時折、池の方に目を遣りながら水鳥を探したが、春の陽気に鳥たちも既に飛び立った後だった。仕方無くトボトボと歩いていると、池の畔から少し離れた藤棚の下に、殆ど人の居ない一画があった。そして、その下に木製のベンチがポツンとあった。旬はようやく一息着けると思い、ベンチに腰掛けて缶コーヒーでも飲もうと、すぐ近くにある自販機で温かいコーヒーを買った。 「ガタン。」 落ちてきた缶を取り出しながら、再びベンチの方を見ると、一人の老人が腰掛けていた。 「あれ?、あんな人いたっけ?。」 不思議に思いつつ、旬はベンチの辺りまで近付いていった。すると、その老人は何か書き物をしているようだった。細長くて白い紙に、筆で何かをしたためている。 「俳句でも詠んでるのかな・・?。」 そう思いながら、旬は老人の後ろ側から何気に書かれてあるものを覗き込んだ。すると、其処には、縦一列に書かれた幾つものマルがあった。 「何だ、これ?。」 かなりの数のマルだった。規則正しく、等間隔に描かれたマル。旬は、温かい缶が冷めるのも忘れて、老人の所作を食い入るように見つめた。すると、老人は徐に、一番上の方に描かれたマルに斜線を入れていった。 「何か数えてるのかな・・。」 何をしているのか、旬には皆目見当が付かなかった。と、後ろの気配に気付いたのか、老人は筆を止めると、静かに振り返った。 「あ。」 老人と目の合った旬は、思わず声を上げた。すると、 「お花見に来られたのですかな?。」 老人は旬にたずねた。 「あ、いえ。そうでは無いです。」 「ほう。では、何をしに?。」 「水鳥でも見ようかと思って・・。」 老人は、花見客でごった返している公園に、花を見に来た訳では無い者がいるのを、偉く不思議に思ったと見え、 「ほほー。水鳥ですか。それはまた・・。」 そういいながら、老人は旬の顔を見て、にっこりと微笑んだ。 「あの、ところで、それは何を描いてるんですか?。」 さっきまでは声を掛けるのも憚られる雰囲気だったが、老人から気さくに話しかけられたことで、旬は疑問に思っていたことを、老人にたずねた。 「ああ、これですか。これは、数を数えていたんです。」 「数?。何の数ですか?。」 旬の質問に、老人は筆の先を、花見客で賑わう方向に指しつつ、 「あれです。」 と、端的に答えた。 「花見客・・ですか?。」 「いえ、桜です。今年も咲いている。その一回までを、此処に記したのです。」 どうやら、老人は自身が花見に来た回数でも記しているようだった。そして、 「此処にマルが百、並べてあります。ワタシが生まれた年の春にも、桜はきっと咲いていたことでしょう。なので、それを最初の一回として、ワタシがこれまで重ねてきた齢(よわい)と同じ数だけ、年に一回ずつ、桜は咲いていた。そうやって、ワタシが見ることの出来たであろう桜の数を数えていたのです。」 そういいながら、老人は斜線の引かれた八十七個のマルと、何も引かれていない十三個のマルを旬に見せた。 「どうです?。人が百まで数えたり、その数だけ、いや、それ以上の印を描くのは、簡単なことでしょう?。ですが、我々は、百回もの桜を、一生の間に見ることは無いのです。長寿な方ならいざ知らず、大抵はその手前で、生を全うしますでな。」 いわれてみれば、その通りだった。当たり前のように、春になると花開く桜。毎年同じような光景が、ずっと繰り広げられているようでも、我々が一生のうちに見ることの出来るのは、ほんの百回弱。旬はそんなこと、考えたことも無かった。 「・・・確かにそうですね。」 老人が何気に語った話の重みを受け止めながら、旬は頷いた。  静かなベンチに腰掛けながら、旬は老人の話に耳を傾けた。まるで日頃の憂さを忘れるかのように。そして、 「でも、桜の花って、パッと咲いてパッと散りますよね。あれだけ人手で賑わっていても、散り頃と同時に、みんな普段の生活に戻っていく。葉桜になる頃には、殆ど誰も見向きもしない・・。何か儚いですよね。」 老人の話に感化されたのか、旬はしみじみと、そう語った。 「儚い・・かあ。人の見る夢の如く、じゃな。そう。この世のものとは、全てが儚い。そうやって、一年も、あっという間に過ぎ去っていく。そして、その積み重ねで、人の一生も、あっという間に終わる。」 老人はそういいながら、遠い目をした。旬は、老い先のことも気にせず、老人に余計なことをいってしまったかと、少し申し訳無い気分になった。ところが、 「と、そんな風に、ワシが思っとるように見えるかな?。」 老人は悪戯っぽい眼で、旬を見つめた。 「あ、いや、それは・・、」 自分の言葉で老人が感傷的になってしまったと思っていた旬は、老人の意外な言葉に驚いた。老人は、マルの描かれていた紙と筆を傍らに置くと、 「さて、若いの。アナタは見た所、こんな時間に公園で花見をするでも無く、ただフラフラと現れた。何処か浮かぬ顔をして。差し詰め、勤める先でも探しておられるかのように・・。」 老人の眼力に、旬はまたもや驚いた。 「・・あ、はい。実はそうです。」 旬は老人の図星な指摘に、そう答えるより他無かった。すると、 「ふむ。ま、顔色を見る限りでは、食い詰めている訳でも無さそうじゃな。となると、問題は気持ち・・かな。」 そういいながら、老人は旬の顔を覗き込んだ。恐らくこの老人には、自身の顔は仕事にあぶれて、惨めに思っている若者の姿が映っているのだろうと、旬は思った。 「ところで、アナタのポケットには、幾分の小銭が入っているのかな?。」 老人は、旬が缶コーヒーを持っているのを見て、そうたずねた。 「あ、はい。」 そう答えた旬だったが、缶が一つなのを見て、 「あ、良かったら、飲みます?。」 そういいながら、持っていた缶を老人に差し出した。老人は恐縮しながら、 「何か催促したようで、すまんな・・。有り難う。」 と、丁寧にお辞儀をしながら、老人は缶を受け取ると、フタを開けてコーヒーを飲み始めた。そして、一口二口飲み終えると、その缶を旬に手渡した。旬は黙ってそれを受け取ると、自身も一口二口と、コーヒーを飲んだ。それはまるで、一つの茶碗で立てた茶を飲むような、春の野点(のだて)の様相だった。 「さて、では話を一つ、してしんぜようかな・・。」 老人は語り始めた。 「アナタのポケットに、五百円玉が一枚あったとしよう。そして、そのことに気付かずに、何気にポケットに手を入れると、それを見つけた。その時、アナタはどう思うかな?。」 老人は旬に問いながら、じっと彼を見つめた。 「え?、五百円ですか?。うーん、そうだなあ・・、まあ、五百円玉だなって。」 「ふむ。その手にした五百円玉を見て、五百円かあ・・と、そう思うか、それとも、五百円もあると、そんな風に思うか、どちらかな?。」 老人は、一枚の五百円に対する、旬の心の機微を問うた。 「あ、それは・・、やはり、前者の方ですかね。」 旬の答えに、老人はさらに問うた。 「何故、前者の方になったと、アナタは思われるかな?。」 「・・それは、やっぱり、五百円位じゃ、あまり欲しい物は買えないから・・ですかね。」 それを聞いて、老人は、 「その通り。アナタは五百円より多くを持つ暮らしに慣れてしまっている。故に、手持ちが五百円になってしまうと、それを少ない、足りないと、そう感じるのじゃ。」 老人の言葉に、旬はハッとなった。確かにその通りだと。自分は別に、これまでの人生で、其処まで窮地に追い込まれた記憶は無かった。今はたまたま、仕事にあぶれているだけで、帰る家も寝る所もある。その人や次の日に何を食べるかを選べるだけの余裕もある。なのに、五百円ぽっちじゃ満足いかない感覚で、自分が生きていることに気付かされたのだった。すると老人は、ゴミ箱の辺りで空き缶を漁っている人物の方を見て、 「彼処にいる、ほれ、あの人物が、五百円あれば、何日暮らせると思うな?。」 そう旬にたずねた。旬は質素な風体の、その人物について想像しつつ、 「一日百円ずつで、五日ですかね?。」 そう答えた。すると老人はケラケラと笑い出し、 「一日とて、もちませぬわい。」 と、淡々と答えた。 「彼は、贅を尽くして没落した、そういう家の出ですわい。仮に五百円玉を今すぐに恵んだとしても、その金で、すぐにカップ酒でも呷って、その辺りでゴロンと雑魚寝する。そういう人生ですわい。真に質素の何たるかを弁えたる者は、あんな風には暮らしませぬ。」 そういって、老人は旬の人を見る目の浅はかさを諫めた。そして、 「人が不安に駆られるのは、今目の前にある現象に対して、自身がそれに対処出来るだけの判断材料を持ち合わせていないからですわい。」  旬は、老人が自分にもっと人生経験を積むようにと、そう諭しているように聞こえた。しかし、彼の本意は其処には無かった。そして、 「アナタは自分には、まだまだ人を見る目が足りないと、そう思っておられるようじゃが、そうでは無いんじゃ。」 と、老人はいった。 「え、違うんですか?。」 老人の言葉から推測するその先は、悉く旬の思い描いたものとはかけ離れていた。 「ワシはたまたま、彼の人となりを知る立場にいただけじゃよ。それは偶然に過ぎん。それに、人を見る目なんぞ養って、何になります?。疑心暗鬼の種を増やすだけですわ。ほっほっほっ。」 老人は笑いながら、旬の持っている缶を手にすると、再びコーヒーを飲んだ。そして、その缶をまた旬の手に返すと、 「なけなしの五百円をどのように使うかなど、人それぞれの生き様ですわい。パッと飲んで、路頭に迷うのも人生。使わずに堅実に貯めておくのも、また人生。まさに人それぞれ。それに、」 「それに?。」 「五百円を持っていようが、いなかろうが、死ぬ時は死にますわい。」 そういうと、老人は池の水面辺りに目を遣った。旬は、まるで仙人のように達観した言葉を紡ぐこの老人が、大層気に入った。 「・・・ですね。じゃあ、くよくよしてても、仕方無いですね。」 旬が老人の言葉に同調しようと思ったその時、 「いや、くよくよはしますぞ。いつ何時死ぬか解らないんですから。だから、何時だって、不安に駆られる。人は生きてる限り、不安に駆られる生きもんです。」 またもや旬の予測は老人の答えからは大きく外れた。 「だから、せめて雲間から時折零れる日差しのように、日の当たる瞬間があれば、束の間の日差しを楽しめばいい。それだけで十分と思えたら、どんな些細なこととて、楽しくなるもんですわい。」 旬は、これ以上、自身の言葉を差し挟むのをやめた。無理に理解しようとせず、自身の及ばぬであろうことは、黙して聞く方が、かえって心地良いと、そんな風に感じたからだった。そして、 「あの、さっきのマルなんですが・・、」 と、旬は当初の疑問について、自分なりの感慨を語り始めた。 「ワタシは消されたマルばかりに目がいってましたが、そうでは無い。まだマルが残っている。それをどう楽しむか。アナタから伺った五百円玉の話で、何となくそう思いました。違ってたらすみません・・。」 そういい終えると、旬はコーヒーを飲んだ。すると、 「ほっほっほっ。ご名算!。結局は、今を盛りと咲き誇る花を愛でるのも、あるいは、此方で厭世的に斜に構えて物思いに耽るのも、それを楽しいと思うのであれば、それでいい。楽しめている訳ですからのう。」 旬が何気に感じたままを語ったことが、初めて老人の意見と一致した。 「はい。」 少し嬉しそうに、しかし、これまでとは違う、考えるのでは無く、無為自然に捉えることの大切さと難しさを思いつつ、旬は静かに頷きながら返事をした。 「ところで、」 老人は話を続けた。 「ワタシは昔、八卦見をしとりましてな。解りますかな?。」 「八卦見って、あの、占いみたいな?。」 「そう。訳あって、随分昔に辞めましたがな。」 「え?、それはまた、何故?。」 旬は、如何にも八卦身風な老人の姿をしていながら、その生業を辞めたということに、いたく興味を引かれた。老人は右手の平を口元に当てながら、 「此処だけの話、ワタシの八卦見は、大層当たりましてな。」 本当かどうかはいざ知らず、しかし、旬には例えそれが嘘であっても、これまでの話から、十分な説得力を持っていた。そして、 「今日は久しく、気分がいい。どうです?。ひとつ、見てしんぜましょうか?。」 さっきまでにこやかだった老人だったが、一転、真剣な眼差しで旬を見つめて、そういった。荒唐無稽で科学的根拠に乏しいことがあまり好きでは無い旬だったが、折角の機会だし、老人のいうがままに任せようかと、一瞬、そう考えた。しかし、その間を、老人は見逃さなかった。そして、 「では、いきます。」 老人はそういうと、旬の顔をじっと見つめて、 「うむ。アナタはこの先、良い人生を歩みますぞ。」 と、優しい眼差しで、そう答えた。えらく簡単に占うものだなと、旬は驚いた。 「それが、見立て・・ですか?。」 と、自身の幸福を示唆してくれたことの喜びよりも、占う時間の短さに驚いて、そう答えた。すると、 「いえ。見立てではありません。アナタが占いがお好きでは無さそうだったので、思うままを伝えました。」 やはり老人はただ者では無さそうだった。旬の一瞬の躊躇で、全てを見透かしていた。そして、 「アナタは、見ず知らずの老人に、自身の缶コーヒーを、何の躊躇も無く差し出して下さった。そして、見ず知らずのワタシが口を付けた缶を、何の躊躇も無く、ご自身も口を付けて飲んだ。それだけで十分ですわい。アナタの人となりを覗うのには。」  老人はそういうと、実に満ち足りた様子で旬に深々と頭を下げた。 「どうも、ご馳走様でした。」 老人の言葉に、旬もお辞儀をした。とその時、 「ビューッ!。」 と、もの凄い勢いで突風が辺りに吹き付けた。向こうで花見を楽しんでいる人達も、急な風に慌てふためいている様子だった。幾千、幾万もの花弁が舞い散る中を、旬はようやく薄目を開けながら辺りを見回した。しかし、其処には既に老人の姿は無かった。 「あれ?。何処いったのかな・・?。」 風が治まったのを見計らって、旬はその辺りを歩き回って老人を探した。しかし、やはり老人の姿は無かった。仕方無くベンチに戻ると、端っこの方に何か結わえてあるのを、旬は見つけた。 「何だろう・・。」 それを解いて見てみると、先程まで老人がマルを描いていた紙だった。旬はその紙を手にしながら、ベンチに腰掛けた。そして、さっきまで老人が語ってくれた話を、ゆっくりと思い出していた。 「過ぎた時より、残された時・・。」 「幸不幸に、答えは無い・・。」 「謀(はかりごと)より、感ずるままに・・。」 話を聞いて、それに答えているときには、まだしっくりとこなかったが、今は不思議と、老人のいわんとしたことが、次々に端的に言葉となって思い浮かんだ。そして、 「先々より、今・・かあ。」 恐らく老人は、そういいたかったのだろうと、旬は推測した。そして、マルが描かれた細長い紙を丁寧に折りたたむと、それをシャツの胸ポケットに仕舞い込んだ。 「さて、いくか。」 そういうと、旬は空になった缶を持って立ち上がると、公園を後にした。その去り際、横目で桜を愛でる人々を見ながら、 「何時かボクも、あんな風に桜の下で・・。」 そう心の中で呟いて、歩いていった。公園を出て暫くいくと、裏露地を出た辺りで、旬は小さな和菓子屋を見つけた。 「へー。こんな所に和菓子屋さんがあったんだ・・。」 こぢんまりとした、しかし、何処となく風情のあるその和菓子屋の店先には、桜餅が並べられていて、その奥にお婆さんが一人座っていた。 「あの、すみません。桜餅一つ下さい。」 旬はお婆さんにそういうと、桜餅を一つ買った。そして、早速店先でそれを口にした。程よく塩に漬けられた桜の葉と、ほんのり甘い桜餅が、何ともバランス良く口の中で旨味と香りとなって広がった。 「美味しいですね。これ。」 「そうですか。それはそれは。どうも有り難う御座います。」 お婆さんは、旬の言葉ににこやかに微笑んだ。そして、 「よかったら、お茶もありますので。」 そういうと、お婆さんは温かいお茶を湯吞みに注いで、旬に差し出した。 「すみません。いただきます。」 旬は湯吞みを受け取ると、桜餅を食べつつ、お茶も飲んだ。桜の花は十分には愛でなかったが、目の前にある薄ピンクの桜餅が、如何にも春其の者といった感じを醸し出していた。そして、桜餅を食べ終えた旬は、湯吞みをお婆さんに返した。そして、何気に横を見ると、 「職人さん募集。」 と、張り紙があるのが見えた。 「あの・・、」 「はい?。」 「この張り紙の募集は、まだしているんですか?。」 旬は何気にたずねた。 「ええ。ワタシら夫婦は、もうすっかり、年をとりましてなあ。で、後を継ぐもんがおらんかったら、店を畳もうかと、主人とそう話しておるんです。」 「じゃあ、もしよかったら、此処で働かせてもらえませんか?。」 即答だった。今まで探していて、そして、あぶれた業種とは全く異なる世界だった。それでも旬は、何の躊躇も無かった。何故かしら、此処で働きたいと、咄嗟にそう思ったのだった。旬の言葉に、お婆さんは目を丸くして驚いていたが、 「アンタ、此処で働きたいって人が来てくれたよ!。」 と、お婆さんは奥に向かって、大きめの声でいった。すると、前掛けをした腰の曲がった老人が奥から現れて、 「おお!、それはそれは。」 と、一体どんな人が訪ねてきたのかと、興味津々の様子で現れた。 「あ、初めまして。旬といいます。」 彼は丁寧に老夫婦に自己紹介をした。老夫婦は満面の笑みで、旬を迎え入れた。その日のうちに、旬は早速、次の菓子を作る手伝いをした。いつから働きに来るのかとか、お給料はとか、そんなことは後でもいい。今はちょっとでも早く、仕事を覚えよう。旬はそのこと以外、頭には無かった。 「今を、生きよう・・。」 旬は頭の中でそう呟くと、胸ポケットの辺りに手を当てた。そして、老人が指示してくれる通りに、色んな作業をこなしていった。そして、不慣れな作業ばかりで、くたくたになった旬は、 「どうも有り難う御座いました。これからも、宜しくお願いします。」 と、老夫婦に礼をいうと、和菓子屋を後にした。心地良い疲労感が今を生きる証。旬はそう思いつつ、春の宵を満喫した。
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