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団欒を終えて自分の書斎に戻った私は、家族に見せるために引っ張り出したアルバムと入れ替えるように、一冊のアルバムを取り出した。
そこには、先程リビングで見ていたのと同じ写真が収められている。
眺めていると、当時の光景が、音が、匂いが迫ってくるような感覚に襲われて、目眩がした。
大学一年生の春休み、私は初めて自分のカメラを買った。このアルバムに入っているのは、そのカメラで初めて撮ったフィルムの写真だ。
鉄道同好会では、長期休みには合宿に行くことになっていて、この写真もその旅先で撮ったものだった。
鉄道同好会らしく、線路が見える野原に集まった私たちは、みな自分のカメラで思い思いの写真を撮っていた。
田舎のローカル線だったから、本数はそう多くない。撮影する時間より、電車が来るのを待つ時間の方がはるかに長かったが、気の置けない仲間たちと過ごす時間は楽しかった。
何枚か写真を撮ったころ、私は各務の姿が見当たらないのに気付いた。
きょろきょろと辺りを見回して、大きな木の陰に座っている彼をやっと見つけた。
葉の間から差す光に、彼の長いまつげがきらきらと輝いて、まるでおとぎ話の挿絵のようだった。
私は静かに彼の側に立ち、フィルムを交換する彼に向けてシャッターを切った。各務は弾かれたように顔を上げる。
「びっくりした。なんだ、西上か」
各務は笑いながら、カメラの裏蓋を閉じて立ち上がった。
「ねえ、カメラ、交換してみない?」
各務はそう言って彼のカメラを差し出した。
カメラの交換は当時の私たちがよくしていた遊びで、それを各務とできるようになったことを、私は嬉しく思った。
「いいよ。はい」
私が彼にカメラを差し出したのと入れ違いに、各務が彼のカメラを私に渡す。私のよりもいくらか高級なカメラを、些か緊張しながら受け取った。
私は、もうすぐ来る二十分ぶりの電車を撮影しようと、線路の方に歩き出した。他のメンバーも概ね皆同じ考えらしく、同じような場所に陣取った。
「ねえ、集合写真撮ろうよ。ほら、みんなそこに並んで」
各務が突然メンバーに呼びかけた。
私たちは困惑気味に顔を見合わせたが、それでも何となく各務の前に並んだ。
「はい、撮ります」
その声に、私は戸惑いながらも微笑んだ。撮影が終わると、皆また自分の場所に戻ってゆく。
私は、まだ咲く気配のない桜の木が写る位置に一人立って、電車が来るのを待った。
程なくして遠くから青緑色の車体が近づいてきて、私たちの前を通り過ぎる。一斉にシャッターの音が鳴る。私もそれに倣ったが、正直あまり自信は無かった。
カメラを下ろして、電車の後ろ姿を見送る。
「西上」
各務の声に振り向くと、その瞬間にシャッターが押された。
「え、ちょっと、」
狼狽する私に、各務はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「西上、ほら、そのまま。もうちょっと右にずれて。そうそう。はい、笑って」
各務に言われるまま、私はぎこちない笑みを作った。
私にカメラを向ける各務の楽しそうな顔を、今でもはっきりと思い出せる。大きな木の幹にもたれて立つ各務の白い顔の上で、揺れる葉の影までも鮮明に。
美しい春の思い出。しかしそれは同時に、どこか後ろめたい記憶でもあった。
それはきっと、私が各務に、そしてこの写真に、過剰なほどの思い入れを持っていたからだろう。幸子と出会って、結婚してからも、変わることなく。
あの頃の私たちの間には、行き過ぎといっても良い程の親密さがあった。
『そう言えばさ、僕が西上のカメラで撮った写真、あれ、焼き増しして送ってくれないかな』
二十年近く前、各務がアメリカに転勤する少し前にかかってきた電話に私は面食らった。あの写真のことを、彼がまだ覚えていたことを意外に思ったのだ。
彼が私と同じものを、思い出の品と認めている。そんな些細なことが、私にはひどく嬉しかった。じゃあ今度会ったときに渡すよ、と弾んだ声で返したことを今でもよく覚えている。
しかし結局、彼は私に会わないままアメリカに旅立って行った。関係を絶ったのは私の方だった。
それで本当に良かったのかと自問した時期もあったが、それすらももう随分と遠くに過ぎ去ってしまった。
さっきリビングでアルバムを一通り見終わった後、由衣が写真を封筒にしまいながら私に尋ねた。
「ねえねえ、この写真、もらっちゃ駄目? 」
「いいよ別に。好きにしなよ」
私は自分の父母の若いころの写真が欲しいなどと思ったことはないから、彼女がなぜそんなものを欲しがるのか理解できなかったが、その行為が私に不都合なことだとは思わなかった。
これでもう二度と、あの写真が各務の手に渡ることは無くなった。
そのことにどこか安心感を覚えている自分に気付く。
あの日の陽射しの温かさや葉の影の形が、頭の中でおぼろげになってゆくのを感じながら、私はそっとアルバムを閉じた。
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