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猪俣村の真実
★
無事に退院した萌香は、真っ先に事故現場へと向かった。
足を踏み外して滑り落ちた跡はもう残っていなかった。けれど崖のような湖岸を見下ろした瞬間、そのときの恐怖を思い出して身震いがした。ガードレールを掴んでしゃがむと、背後からしわがれた声が聞こえた。
「あまり水に近づくでないぞ。連れて行かれるかもしれんからの」
腰の曲がったお爺さんが萌香を心配そうな顔で見ていた。
「わたし、しばらく前にここから落ちちゃったんです」
「ああ、その娘さんじゃったか。助かってなによりじゃわい」
おじいさんは驚いた顔をし、その経緯を語ってくれた。
おじいさんはすぐそばに住んでいたから、騒ぎを聞きつけて窓から外を覗いた。見ると家族が滑り落ちたと叫ぶ女性の姿があった。
女性は意を決して水に飛び込んだ。けれどなかなか水から上がってこない。落ちた家族が見つからないようだ。
おじいさんは懐中電灯を持ち出して外に出る。湖面を照らすと、水中に漂う女の子の姿が淡く見えた。もうひとり、追ってきた中年の男性が水に飛び込み、かろうじて陸上に引き上げた。下手をしたら家族の方が溺れていた、命懸けの救助だったという。
そんなこと、両親はひとことだって言わなかった。知ると同時にあまりにも申し訳なくて、涙を流すことさえ罪のように感じた。
ふと、萌香はおじいさんに尋ねてみようと思ったことがあった。
「あの、お聞きしますが、昔このあたりに村はありませんでしたか? 猪俣村っていう名前の」
おじいさんは目を丸くした。
「ほぅ、若者で知っている者がいるとは驚きじゃ」
「その村のこと、教えていただけませんか?」
「かつての村に興味があるのか。ならばこちらへ来るがよい」
おじいさんに連れられて少し歩くと、湖畔の茂みを抜ける細道があった。踏み込んでゆくと、背の高さほどの石碑が姿を見せた。
「この湖はダムを作るためにせき止められてできた人造湖じゃ」
「もしかして、村はダムに沈んだっていうことなんですか?」
「そうじゃ。じゃが、そのときには住民はほとんどおらんかった」
「どうして……?」
「大きな洪水が起こって、村は壊滅したんじゃ」
おじいさんは目を細め、儀式のように石碑を指でゆっくりとなぞる。そこには洪水に呑まれた故人の名が記されていた。
その名前を見た萌香の胸が早鐘を打つ。いくつか知る名前があったのだ。
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