7人が本棚に入れています
本棚に追加
一升炊きの炊飯器を開けば、湯気とともに炊き立ての白米の匂いが台所中に広がった。
ご飯の匂いが髪に移りそう。と男は思いながらしゃもじでご飯をほぐす。底のお焦げはお煎餅に似た味がして美味しいので、ついつまみ食いする。
炊きムラがないことを確認すると弁当に使う分をボールに分けた。あら塩を手になじませ、熱々のご飯を素手ですくいとる。
火傷しそうな程熱い米に我慢しながら、準備しておいたツナマヨと細かく刻んだタクアンを中心に乗せた。そのまま「ぎゅ、ぎゅ」と具材が溢れないよう包み込んでリズミカルに握っていく。
綺麗な正三角形になるように握るのがこの男のこだわりであり、矜持であり、流儀である。綺麗に三角結びされたおにぎりは手で持ちやすいし、ご飯粒がばらけて落ちるという粗相を引き起こさない。
粒が揃った米でできるおにぎりの白い輝きはまるで真珠だ。たっぷりと水を含んでふっくら炊き上がったご飯は一粒一粒がピカピカと輝きを放つ。
男は見事な出来栄えにふふんと得意げになっていた。
「飯村、北極も人魚がおるねんて。知っとる?」
しかし途中で邪魔が入った。同僚の山中が台所に顔を出したのだ。
おにぎりを握っていた飯村太嗣は、いつもの根拠のない話に大きなため息が出そうになった。
「あぁーそれは嘘だと思っとる顔やな?北極の言い伝えでな。おんねんて。この辺にも」
この2人は夏の北極に駐在している私設北極観測隊の研究員である。
地球温暖化の影響で北極の氷が溶けると、環境にどのような影響を及ぼすのか、というのを研究するために遠くはるばる日本から派遣されてきた。
飯村は研究員兼主計士としての命も受けており、男だらけの基地で料理を担当している。
山中が出来上がったばかりのツナマヨのおにぎりに手を伸ばしたので、飯村はすかさずその手を叩いて牽制した。山下は「けち村」と小さく飯村を貶した。
「でも、俺たちが知ってるとのはまた別人魚らしいねん」
「何がちゃうの」
「クァルパリクっていう人魚で、人魚やけど手足があるねんて。……あ、今日の具、好きなやつばっかや」
山中は飯村に言われたわけでもなく自然な流れで飯をすくうと、おにぎりを握り始めた。
「足があるならそれは人魚なんか?」
「アラスカのイヌイットに伝わる正真正銘の人魚らしい」
「人魚ねぇ……」
「てか、あぢ、あぢあぢ。よく真顔でこんな熱いもん握れるな飯村」
山中が作るおにぎりは飯村の物より二回りほど大きい。不揃いなおにぎりが皿に増え始めた。
「俺はそういう化け物の類は信じへん」
「えー。でも、女の人魚なんやって。めっちゃええやん」
「女を化け物で補おうとするなや。寂しいなら美恵ちゃんに電話したらええやん」
「……美恵っち、最近電話してもそっけなくてな」
「…………なんかごめん」
最初のコメントを投稿しよう!