北極人魚と悪魔のおにぎり【短編読み切り】

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 本日は5月某日。初夏だが北極は氷点下を下回る日が多く、今日は暖かい方だが摂氏5℃しかない。  明るいうちに仕事を終えたい飯村は手早くおにぎりを弁当に包むと、傷心中の親友の尻を叩いて仕事の準備をする。  金のない観測隊なので主計である飯村も率先してフィールドワークに向かわなければならない。オレンジ色の派手な防寒具を着込み、仕事道具と弁当を持ったら、北極の氷の大地へと足を踏みいれた。  外に一歩出ると、目に映るのは真っ白な氷と目の覚めるような青空のみの世界だった。  360度どこを見渡しても氷、氷、氷の世界。今日は晴天だから視界良好。  飯村と山中はスノーモービルを2台前後に並べてくず氷を散らしながら走った。荷台の研究道具が崩れたり壊れたりしないように気を遣いながら走らないといけないのに、山中は遠慮なくスピードを出す。流氷の厚みが十分に足りているエリアを選んで走っているとはいえ、後続の飯村は少しひやひやしていた。 「なぁ〜!飯村!」  観測地点までの移動は慣れたもので2人とも迷うこともなく道を進んだ。スノーモービルの運転中、山中が緊張感もなくインカム越しに話しかけてくるので、飯村も彼の暇つぶしに渋々付き合ってやる。 「何?」 「人魚がほんまにおったらどうする?」  こいつほんまにあほやな。と飯村は思った。 「……俺なら生体サンプル採取させてもらう。鱗とか血とかの成分が気になる。痛いのがあかんのなら、せめて写真撮らせてほしい」 「まじめやな〜」 「だいたいそのクァルなんとかはどういう人魚なんよ」 「言うことを聞かん子供を、海に引き摺り込むらしいで」 「北極版ナマハゲみたいなもんかぁ」 「肌は緑やって」 「河童やん」 「そんで、フンフンフン♫ってハミングするらしいぞ」 「そこは人魚っぽいなぁ」 「いいなぁ。女の子の鼻歌ならいやされる……フンフン、フフフ〜ン♫」  飯村はおじさんの鼻歌なんて聞きたくないのでインカムを切った。  飯村はイヤホンを外すと北極の冷たい空気へと耳を傾ける。夏の間に繁殖する鳥たちが、ぎえ、ぎえと鳴いていた。  フンフンフン♩という鼻歌を聴きながら飯村は自然で生き抜く生き物たちへと思いを馳せる。彼らは獲物を捕ったらすぐに巣で餌を待ち侘びる子どもへの元へ餌を届ける。それを何度も繰り返すのだ。  北極は暖かい土地と違って餌になる物が少ない。それでもここに住む動物たちは、突き刺すような冷たい水やひもじさ、不条理な自然の猛威にも負けずに命を繋ぎ続けている。  地球温暖化を緩徐する研究は野生動物の役に立つはずだ。と飯村は強く信じている。  ――俺は、この美しい景色を息子に繋いでいくための仕事をしているんだ。  どんなに寒さが厳しい日だろうと、飯村はどんなに厳しい労働だろうとそう思えばへっちゃらに思えるのだ。
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