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柚季はスマートフォンの連絡先一覧から山内和義を消した。
和義は付き合って三年だったが、彼には結婚願望がないことを知り、別れることを決意した。結婚して両親を安心させたい気持ちもある。
雑踏の中、柚季は別れを告げる。
「もう、別れよう」
予期していたのか、
「そうか」
と呟いて和義は離れていった。
柚季は涙が零れていた。もしかしたら、彼が考え直してくれるかもという淡い期待があったのだろう。
二年目あたりから、だらだらと続く下り坂のような関係だった。恋愛感情は薄く、泣くことはないだろうと思っていた。
スマートフォンのディスプレイに瞳から落ちた雫がついたので、それを拭う。連絡先一覧を起動し、連絡先から山内和樹を削除した。
「サヨナラ」
ぐうと腹が鳴り、柚季は失笑した。悲しくても食欲はある。適当な飲食店に入り、好きなものを食べて気分を切り替えて、家路につこう。
ジャンルは何がいいだろうかと柚季は考える。パスタなどのイタリアンもいいが、がっつり中華料理を食べるのもありだ。今なら勢いに任せて、いつも以上に食べられるような気がした。
ふと、小麦粉が焼ける香ばしい匂いがした。パンをお持ち帰りするという選択肢もいいなと柚季は思い直す。
どこの店からの匂いだろうと辺りを見回す。
「いらっしゃいませー」
華やいだ若い女性の声が聞こえ、柚季はそちらに目を移した。
パン屋の店員だ。白を基調とした清潔感のあるユニフォーム姿の店員が、柔和に客と会話をしていた。
――よしっ。あそこにしよう。
柚季はターゲットを決めた。パン・ハンティングの開始だ。
パン屋『パパンパパンパンパンパイア』の店内はお洒落だが、パンの配置は動線をしっかりと考えられている。お買い得商品は入り口付近にあり、一番人気のカレーパンは中ほどにあり、レジ前にはラスク類が並んでいた。奥の厨房では鹿爪らしい顔をした職人が黙々と作業をしている。
これは当たりのパン屋だと柚季は直感した。どの商品を購入しても美味しいだろう。
「ん? これは……」
柚季は白いパンに目を惹かれた。商品ラベルには『フォーチュン・パン』と書いてある。
「これ、どういうパンですか?」
近くにいた店員に尋ねた。
「そちらは、もちもちしたパンで、中にはおみくじが入っております」
「おみくじ!?」
柚季は驚いた。職人気質のパン屋だと思っていたが、そういう遊び心もあるのか。
「美味しいですか?」
「もちろんです」
女性店員は微笑を返した。この人なら信用できそうだと、柚季は『フォーチュン・パン』をトレイに乗せた。他にも、人気のカレーパンとメロンパンを取る。
「ありがとうございましたー」
お会計を済ませ、柚季は退店した。
家に持ち帰ろうかと思ったが、駅までへの道中に公園があったので、そこのベンチに座って食べることにした。
「さて、まずは」
一番人気のカレーパンを手に取った。カレールーの香辛料の匂いが食欲をそそる。
一口で三分の一ほど齧る。隣に好みの男性が座っていれば、大口を開けず上品に食べるのだが、別れた直後の女に怖いものはない。目一杯頬張る。
「うーん。おいしー」
柚季は足をバタつかせて食の喜びを表現する。
「ルーも中辛で、丁度いい」
さきほど自動販売機で買っておいたミネラルウォーターのペットボトルを開栓し、飲む。硬水だと味の邪魔をする可能性があるので、柚季は軟水を購入した。彼女なりのこだわりだ。
カレーパンを食べ終えると、メロンパンを手に取った。辛いの次に甘い。いささか妙な組み合わせのようだが、軟水で舌をリセットした彼女には関係なかった。
「美味しい!」
柚季は感嘆した。パンにはとろりとしたメープルシロップが入っており、がつんと甘味がある。あっという間にぺろりと平らげてしまった。
「さて、ラストは……」
柚季は、あえて『フォーチュン・パン』を最後に残していた。おみくじで大吉を引いて締めくくろうという魂胆だ。こういう類の商品に凶などは入っておらず、客が喜びそうな吉から大吉が入っていると彼女は予想している。
半分ほど食べ進めると、違和感があった。紙がある。これがおみくじだ。
「どれどれ」
パンを水で流し込み、おみくじを開く。
『小吉』
「なんだ。小吉かぁ。うーん。イマイチな結果」
おみくじには続きがあった。
『好事魔多し。一番親しい人を大切にすること』
最後の一文を読み、柚季は息を飲んだ。
「もう、遅いよ。今更……」
彼女は泣き始めた。
近くの砂場にいる親子が、楽しそうな歓声をあげていた。
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