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「死んだ娘が見えるんです」
俺は言った。
「ほう、娘さんですか」
ドクターは興味を示したようだった。
「どのように見えるのか、詳しく教えていただけますか」
「五歳くらいのときの娘です。最初は、一瞬見えたと思ったら、すぐに消えてしまったので、娘だとわからなかった。でも次第に娘だとわかるようになりました。黄色いワンピースを着た幼い娘が、ときにキッチンの椅子に座り、ときにリビングを飛び跳ね、ときに寝室のベッドで眠っていました。病気で亡くなる前の、元気だったころの娘の姿です。幻影の娘は、一日数回現れ、次第に長く見えるようになっていきました。今ではほとんど常に見えています。今もここに一緒にいます。私の横で、私に抱きついています」
俺は娘に触れることはできないが、俺を見上げる愛らしい娘の表情は、はっきりと見えていた。
ドクターはモニター画面のカルテを見直して言った。
「娘さんの幻影が見えるようになったのは、半年前に、目を交換してからなのですね」
「ええ。元は政府支給の目が入ってました。政府の人体パーツは性能が悪いですからね。ちょっと見にくくなってきたので、おたくの最新型のものに交換してみたんです」
「実はですね、我が社で製作した最新の眼球パーツXE5型なんですが、ええ、今あなたに使用していただいてるものですが、古い記憶の幻影が見えるという事例が、何件か報告されています。どうやら、あなたのように人間だったときの記憶を持っている方の人工脳と、我が社のXE5型眼球の相性の問題のようなのです」
「やはりそういうことですか」
人間が生物としての肉体を完全に失ってから三百年以上経つ。地球環境の悪化や、様々なウイルスの蔓延により、人類は生命活動を維持することが困難になった。肉体のすべてを、特殊な物質で作られた人工のものにするしかすべがなかったのだ。
画期的だったのは、個人の記憶や思考など、すべての脳の機能を、人工脳に移植できるようになったことだ。肉体のあらゆる部分を人工のものに入れ替え、最後に脳を人工にすることで、人間は生物としての肉体から解放されたのだ。それは同時に、生物としての人類の滅亡を意味した。
「あなたのように、三百年前の人間だったときの記憶を脳内に残していらっしゃる方は、今ではとても少数です。ご存知とは思いますが、人間的な思考や記憶は、人工脳の処理機能を邪魔して、様々なバグが生じることがあります。今回の幻影もバグの一種と推測されます。XE5型の特徴として、画像解析のために、個人の記憶領域にアクセスする機能があります。どうやらそれが関係しているらしいということがわかってきています」
現在、全地球上の人類――そう呼んでいいのか疑問だが――約百億人のうち、元々人間だった個体は一億にすぎない。残りの99パーセントの個体は、一から人工的に作られた完全なる人工体だ。文明と知能を維持・発展させるために、完全人工人間は日々作られ続けている。目の前にいるドクターもその一人だ。
元人間だった個体も、完全人工体も、作りは全く同じものだ。その違いは、脳内に、三百年前の生物として人間だったときの記憶が、入っているかいないかだけだ。
だが人間だったという記憶や思考が、人工脳の機能の障害になる事例が多かったため、やがてそれを消去する者が増えていった。現在、俺のように脳内に人間だった記憶と思考回路を維持している者は、およそ十万人程度と言われており、日々減り続けている。生命ではなくなった人類の存在意義が、文明と知能の維持・発展であるならば、過去の記憶は不必要だと考える者が多いらしい。
俺は、娘を亡くしたという精神的な辛さから逃れるために、その記憶を消したいと思うこともあった。しかし俺には妻がいた。娘を亡くしたことは辛いが、娘の思い出をすべて消してしまうことは、俺たち夫婦にはできなかった。夫婦で完全人工人体になったとき、ずっと娘を忘れないでいよう、そう妻と誓い合った。
「当社としては、あなたの脳のデータを詳しく調べさせていただきたいと考えていますが、もしも幻影をすぐに消したいのであれば、一番有効なのは人間時代の記憶の消去ということになります」
「いえ、違うんです。私は娘の姿を消したいわけではないのです。今日一緒に来たこの妻にも、こちらの会社の目を入れてもらいたいのです」
俺は、後ろに立っている妻に顔を向けた。妻は、期待と不安が入り混じったような表情をしていた。
「妻にも、三百年前に失った娘の姿を見せてやりたいのです。こちらで製造した目がきっかけならば、バグでもいいからぜひ、娘の姿を見せてやりたいんです。妻の人工脳も私と同じタイプですから、同じ現象が起きるかもしれないでしょう?」
人工人体は歳をとらないし、子供も生まれない。よって夫婦というのは、人間時代に夫婦だった者が習慣的におこなっている生活形態だ。俺は妻と、三百年前の人間時代に結婚しており、そのとき生まれたのが、今俺が見ているこの娘だ。
この娘の愛らしさを、妻と共有したい。俺は心からそう思っていた。
「最新の目を奥さんに?」と、ドクターは不思議そうな顔をした。
「それは重症ですな。記憶の混乱もあるようです。やはり人間時代の記憶の消去をされたほうがよいかもしれません」
「え……、どういうことですか?」
「記録によれば、奥様の個体は四十年前に事故で失われています。あなたが今、奥様の姿が見えているとすれば、それもまた幻影です」
「そんな、バカな……」
俺は妻を見た。ちゃんと後ろに立って、俺を見ている。この妻が実在しないというのか?
そうか。たしかに妻は四十年前に事故に遭っている。外見が同じである妻の人体再生は可能だったが、記憶の復元が出来ないというので、再生は諦めたのだった。以来俺はひとり暮らしだったのに、いつの間にこんなふうに思い込んでしまったんだ……。
そうだ。妻が見え始めたのも、半年前に目を新しくしてからだ。娘よりも先に、妻の幻影を見ていたんだ。しかも記憶が混乱して、本物と思ってしまうなんて。
「記憶に影響を与える症状は、よくありませんね。一つ前の型の目に、無償で交換させていただくよう、手続きいたしましょうか?」
「いえ、このままでけっこうです。このままでいれば、妻が実在すると思い込んでいたように、娘の存在も本物と思えるようになるかもしれない」
一瞬でもいいから、妻と娘との幸せなあの時間に戻りたい……。
「お気持ちはわかりますが、我が社のほうとしても、この件を政府の人体管理部に報告しなくてはなりません。日常生活に支障があるような人工人体の不具合は、強制的な修繕対象となります。このままお帰りになったとしても、数時間後には、強制的に連行される可能性が高いと思われます」
「そんな……なんとか、見逃していただけないでしょうか」
「このやりとり自体が記録されていますし、なかったことにすることは無理なご相談です」
「……そうですか」
俺は落胆した。妻や娘の幻影とも、これでお別れするしかないのか……。
「ひとつだけ……」ドクターが、言いにくそうに口を開いた。
「本来お勧めするようなことではないのですが……」
「なんでしょう。何かいい方法があるんですか」
「基本的に〈廃棄〉と同じような扱いなのですが……」
「廃棄?」
「そう。あなたの市民番号は抹消されて、あなたは廃棄処分と同等になりますが、研究対象として生かされ、観察されるのです」
「聞いたことがあります。人間だったときの記憶により、バグがひどい個体が収容される研究所があると」
「そう。そこでは、人間の感情とか、愛情というものが研究されています。この感情というものは、わたくしのような完全人工体として生まれたものには、理解しがたいものです。だがそれを研究する機関が、実は存在するのです」
この愛しい妻と娘がいない世界なんて、もう生きていても意味がない。だから廃棄となってもいい。俺はそう思った。
「廃棄……でもかまいません。その研究所に行けば、妻と娘と一緒にいられるのですか?」
ドクターは、少し考えてからこう言った。
「わたくしのように、人工人体として生まれ、人間の記憶がない個体にも、意図的に思考の個体差が埋め込まれているのをご存知ですか」
ドクターは、質問の答えとは関係ないような話を始めた。
「このように人体パーツ開発企業で働くように個性付けされたわたくしは、当然人体についての関心度が高いように設定されています。様々なパラメーター設定値の組み合わせなんでしょうかね、わたくし、人間の感情といったものにとても興味があるんです」
「……」それが何だというのか。
「我々は生まれたときから働く場所が決められていますが、ときどき移動というものもあります。わたくし実は、その研究所に移動願いを出していて、最近受理されたんです。今週中にも移動になります。わたくし、あなたの幻影の観察を担当させてもらえないか、今から研究所に問い合わせてみます」
そうか。このドクター自身が、俺のような人間に興味があったのか。だからこんなことを勧めてきたというわけか。
「問い合わせたところ、観察させてもらえるようです。ただ、あくまでも廃棄扱いであり、いつどのように処分されるかわからないということは、覚悟しておいてくださいね、よろしいですか」
「ええ、大丈夫です」
俺の覚悟は決まっていた。最悪でも、俺自身が存在しなくなるだけだ。
「では、あなたの市民抹消手続きについて説明しますね」
覚悟していたつもりだったが、俺は一瞬、
〈市民抹消だと? 妻と娘はどうなるんだ〉と思った。
〈妻と娘がここにこうして二人ともいるのに!〉と、そう思ったのだ。
……二人とも存在しないのだった。
俺は、自分の記憶が混乱していることが嬉しかった。もう、娘の存在も現実のものと感じ始めている。
一通り説明し終わったドクターが言った。
「ではあなたの市民番号、市民権の一切を消しますよ、いいですか」
俺は言った。
「ええ。楽しみです」と。
〈了〉
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