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 何故こんなにも涙が止まらないのだろう。そもそもなんで泣いているのだろう。特段悲しい気分になったわけでも、何かに感動しているわけでもないのに。そんな私の気持ちは全く聞くそぶりを見せずに、体は次々と生理現象を引き起こしてゆく。つぅぅと涙が頬を伝い、目頭が刻々と熱くなり、息が浅くなるにしたがってうまく呼吸をすることが叶わず、不細工にも体を震わせる。そして又、涙を流してはこの繰り返しだ。    ようやく自分の手綱を握れてきたころに、白いコンクトートの壁が見えてきた。この無機質なやつは急に泣き出した老人を見ても、冷淡に、見て見ぬふりをしているかのようだった。娘夫婦の世話になるまいと、長年の、ただし些細な貯金を使ってこの老人ホームへの入居が決まったのが一年半前である。お世辞にもいい環境とは言えないこの施設は、人手は足りてないし、設備も新しいものではないが、居心地は案外悪くなかった。私はまだ体が自由に動く方であり、頭も衰えてきているが、まだもっていると自分では思っている。    佐々木さん、入りますよー、という声とノックが聞こえ、ドアが開けられた。私を見たその女性職員は 「佐々木さん!どうしたんですか!?どこか痛みますか?何かありましたか!?」 と次々と質問を投げかけてきた。 「どこも痛くないんだけど、自分でもどうして泣いてしまったか思い出せないんだよ」 「大丈夫よ。安心して!ほら深呼吸してみましょ。そしたらすーと気持ちが楽になると思うわ。」  もう涙も枯れ、すっかり落ち着いてしまった後に言われたもんだから、恥ずかしさと申し訳なさで一杯のきもちで深呼吸した。  夜になってもどうして泣いてしまったのかわからず、悶々とした気持ちを引きずっていた。最後に泣いたのはいつだったか、欠伸と共に出たものを除けば憶えていないはるか遠い記憶の中を探すことになる。あれはいったい何だったのだろうと考えながら眠りについた。  無重力のようなー実際には体験したことはないがー得体のしれない浮遊感と多交換に包まれながら、私はそこにいた。いつからいたのかもどうやってここへ来たのかも覚えていないが、ここには安心させてくれる何かがあった。ぼんやりとしていると声が聞こえてきた。 「あなた、ねえあなた?」妻の声だった。 「ねえ、今朝はどうしたのよ。珍しいじゃない?あなたが泣くなんて」 「君に見られてしまったか。どうしてだろうねぇ不思議なことに自分でも思い出せないんだ。」 「本当に心当たりはないの?」そう言った彼女は何でもお見通しといいたげな顔でこちらを見てきた。 「私はわかったわ」 「聞いてもいいかな」 「あなた、死ぬのが怖くなっちゃったのよ。」 これまでの人生で「死」に対して恐れを抱いたことはなかった。すべてはなるようになるし、時がいずれそうさせてゆくのだから仕方がないことだと考えているからだ。死とは生きとし生けるもの皆共通して抱えた爆弾であり、それがいつ爆発してしまうかといったことを考えても仕方がないものである。ともすれば、何故私が死を恐れているという結論になるのだろうか。 「ばあさんや、それは違うんじゃないかい。私は死を恐れる必要がないと、恐れたところでやがてやってくるのだからと考えているのにかい?」 「そうではなくってね、そういった負の考えでなくって、貴方はこれまでの人生がよかったから、生きて来れて嬉しかったから、いい人に会えたから、成功も失敗もたくさんしてきたこの人生を失うのが惜しくなったのよ」 言葉が出なかった。 「貴方は幸せ者ね、私が伴侶として添い遂げてあげたのだし。あぁもうこんな時間になってたのね。私は戻るわね。」 待ってくれ、まだ話したいことがあるんだと言いたかったのに言葉が出なかった。彼女が背を向けて歩き出した。何故だかいくら叫んでも声が出ない。息も苦しくなってきた。何故声が出ないんだ!出ろ!出ろ!出ろ! 「ありがとう」やっとの思いで出た言葉だった。言いたいことが山のようにあるのにこれしか言えなかったのである。彼女は振り返らずに歩いて行ってしまったが、ふと風が吹いてきて彼女の髪がなびいた際に微笑んでいるような顔が見えた気がした。    目が覚めると部屋に朝日が薄っすらと差し込んでいた。頬を涙が濡らしていた。
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