不滅の愛は殺生の果てに

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 血のように赤く滲む夕暮れの中、女騎士のリゼと赤竜は人間と竜の死体が並ぶ大地を眺める。  空は割れんばかりの歓声に包まれていた。  英雄アルベガスが高らかに世界統一を宣言したのだ。 「終わったな。これでゆっくり羽を休められる」 「あぁ、長かった……これで、そなたらに同族殺しをさせずに済む」 「人間に協力すると決めたのは俺達の意思だ。竜にも派閥はある。支持した国が敵対していた……それだけのことだ」  リゼは赤竜の鉱石よりなお硬い鱗をそっと撫でた。 「それでももう、私はこの美しい生き物を傷つけたくないのだ。これからは穏やかに暮らすがよい」 「そうさせてもらおう。どの道魔力の回復にしばしの休息が必要だ。……お前は皇后になるのか?」 「まさか。私はしがない騎士だ。アルベガスには真名(まことな)すら教えていない」  赤竜は長い尾を左右にしならせる。 「ならば、また会いに来てくれるか? ──よ」  脳の最深部まで満たすような低い声で真名を囁かれ、リゼは目を見開く。  すぐに柔らかに微笑んだ。 「そなたが望むのなら、喜んで」  リゼと赤竜は互いの額を寄せ合った。    赤竜の寝床は緑に満ちた山を一つ越え、灰色の岩山を四つ越えた先にある。  リゼは何度もこの難所を通り、赤竜と和やかな逢瀬を交わした。  しかし、今日はどこか浮かない顔だ。 「疲れているようだな?」 「……そなた、不老不死について何か知っているか?」  リゼは頭を抱えながら手近な岩場に腰を下ろす。 「一つ言い伝えが残っている。不老不死になるには禁忌を犯さねばならない。その者にとって最も大切なものを差し出すこと……それが肝要だと言われている」 「……そうか」  額から手を離し、純白の手袋をつけた手を見つめ、やがて拳を握った。  立ち上がり赤竜と向かい合う。  乾いた風が二人の間を通り抜けた。 「そなた、私を愛しているか?」 「当然だ」 「よかった。これで私は不老不死になれる」  赤竜が口を開いた瞬間、銀の刃が心臓を貫く。  目を見開き、「なぜ……」と問いかけながら巨体が大きな音を立てて倒れる。  全身の力が抜け、赤竜はこの世を去った。    五百年後、かの者は唐突に目覚める。  平民の少年がある日頭を打ち、前世の記憶を取り戻したのだ。  その瞬間湧き起こる、強烈な殺意と憎しみ。 「リゼ……殺してやる!」  生まれ変わった赤竜は、早々に目標を定めた。      憎悪に駆り立てられるように、人間になった赤竜は村を飛び出した。  雨の日も風の日も、リゼの元へ行くことだけ考え、ただひたすらに歩き続ける。  リゼの真名を知る彼には、彼女が五百年たった今もこの世に存在していることが分かっていた。  真名は魂に刻まれた名前だ。  人間に姿を変えたとはいえ、こちらもまた魂は変わらない。  感じるままに行けば必ず彼女の元へ辿り着けるという確信があった。  ただ一つ誤算だったのは、このルタと呼ばれる少年は平凡な村人であり、空を飛べる翼も山を越える屈強な体も持ってはいなかったことだ。  すぐに全身が筋肉痛で動けなくなり、敗れた靴からは血の滲んだ足が覗いていた。  それでも、復讐への執着が足を進ませる。  そうして最低限の食事と睡眠をとる以外はひたすら歩き続けた結果、足の傷から粘り気のある体液が出るようになった。  流石におかしいと立ち止まって調べると、両足の至る所が赤く腫れて、筋肉痛とは異なる痛みが発生している。  とりあえず近くの水場で傷口を洗ってみるも、そう簡単に腫れは引かない。 (どうする……もしこの体に何かあったら、また生まれ変われるとも限らない。何としてでも傷を治さなければ)  焦る赤竜の目に、小さな黄色い花をつけた野草が飛び込んできた。  その瞬間、過去のリゼとの会話が蘇る。    ──なぜ野に咲く草を集めているのだ?  ──これはナナラ早と言って、傷の回復に役立つ草でな。    こうしてすりつぶして汁ごと傷口に当てておくと、治りが早くなる。   酷く膿んでしまった怪我にもよく効くから、見つける度に取っている。    赤竜はすぐにリゼが言っていた通りの処置をした。  翌日には患部の熱がだいぶ引いているのがわかって、心底安堵する。  これで歩けるかと腰をあげると、また耳元でリゼの声が聞こえてくる。    ──怪我は治りかけが肝心だ。    しっかり完治するまで、無理をしてはならぬ。      赤竜は付近になる木の実や野生動物を捕まえながら、数日養生した。    それからは、歩く速度も調整し、適宜休憩を取るようにしている。  何もしない時間ができると、ふと前世の記憶が頭をよぎる。  初めてリゼを背中に乗せて飛んだ日は、雨上がりのよく晴れた空だった。  沢山の竜が行き交う中、大きな虹を間近に見て、リゼが歓声を上げたことを覚えている。 (今日の空の青さは、あの日によく似ている)  もう近づくことのできない虹が地平線からのび、鳥一匹いない空の途中で途絶えていた。  また、新しい衣服を手に入れるために町へよると、出店にツヅレ木から作った櫛が売られているのが目に入る。  リゼの使っていた櫛と同じだ。  リゼは日の出と共に起き、鍛錬をした後、水浴びをして汗を流す。  服を着た後は決まってツヅレ木の櫛で髪をといていた。    ──戦場に男も女もないが、母が「髪は女の命」と言ってこの櫛でよく髪をといてくれてな。    私にとって髪の手入れは家族との思い出だ。    過去の記憶に耽っていると、不意に見知らぬ声が聞こえる。 「お客さん、その品買うかね?」  知らぬ間に櫛を手に取っていたらしい。  赤竜はそっと店先に櫛を戻した。    どこへ行き、何をしても、リゼと過ごした日々が蘇る。  野に咲く草花を見つければ、リゼが「一番好きな花だ」と笑う声が聞こえ、木の実を見つければ「これは大層甘い」と言って食べさせてくれたことを思い出す。  アルベガスが大陸戦争を平定するまで、彼らはいつも一緒に行動していたのだ。  共に歩くのに邪魔にならないよう、己の体を縮めることもあった。  いつでも想いあっていた。  だからこそ、前世での出来事が解せない。 (なぜ俺を殺したのだ、リゼ)  激しい憎悪に駆られた行進は、疑問の解消へ向けた歩みへと変わりつつあった。    地平線の先に王都が見える頃には、ルタの体は随分と持久力がついていた。  相変わらず空には小さな鳥くらいしか飛んでいない。  王都の方からリゼの魂を感じる。  赤竜は深呼吸をした。  ここで焦ってはならない。  王都は警備も厳重なはずだ。  準備のために近くの町に寄ることにする。  しかし、そこは町ではなかった。  外壁の中へ入り込むと、大きな建物があって、沢山の馬車と兵士が出入りする。  赤竜は手近な兵士を気絶させ、鎧を奪ってさらに建物内部へと侵入した。  どうやら工場のようで、何かを加工して出荷しているらしい。  周りの目を盗んで出荷物に近づくと、危うく悲鳴をあげそうになった。  鱗だ。  小さいけれど、暗い場所でも独特の光沢を放つそれは、紛れもなく竜のもの。  赤竜はさらに奥へと突き進んだ。  道中で、竜の爪や、竜の髭、そして竜の心臓まで運んでいるのが見える。  分厚い扉を一つ潜り抜けると、地下へと降りる階段があった。  階下からは、沢山の鳴き声が聞こえてくる。  赤竜は転がり落ちそうな勢いで駆け降りていった。  そこはまさに地獄。  小さな子竜達が泣き叫びながら、人間に切り裂かれている。  人間は笑いながら、まだ息のある子竜から眼球をくり抜き、舌を引き抜き、内臓を抉り取った。  赤竜は反射的に胃の中の物を全てぶちまける。 「なぜ、なぜ、なぜ……」  呪文のように同じ言葉を繰り返していると、近くにいた兵士が近寄ってきた。 「なんだ、お前新入りか? 最初は皆吐くんだよな。でも、慣れてくると結構楽しいぜ」  そう言って心底愉快そうに、兵士は瀕死の子竜の首を持ち上げた。 「昔は竜って、山よりも大きくて、最強の生き物だったらしい。けど今じゃこの有様さ」  男の手に力が篭り、子竜の首が潰れボキリと音が鳴る。  再び胃液が迫り上がって来た。 「初代国王は不老不死になるために、戦争後休眠に入った竜を特殊な薬漬けにして研究しまくったらしい。研究は成功を収め、用済みとなった竜は貴重な資源として人間様の役に立ってるってわけさ」 「そう、か。だから……」  だから、生まれ変わってから一度も竜を見かけなかったのだ。  どこかおかしいと思いながら、復讐に気を取られ、考えることを放棄していた。  腹の底から、ドロドロとしたものが込み上げてくる。 「俺もこいつの心臓食ったら不老不死になんねぇかな。永遠に若い姿でおねえちゃん達と楽しいことしたいぜ」  不老不死になったのは、リゼだけではなかった。  アルベガスとリゼ。  二人は数百年の時を共に生きているのだ。  竜を犠牲にして、赤竜の知らない時を、寄り添いあって。 (そのために俺は殺された──!) 「ふ、ふふ。あはははは!」 「な、なんだお前、突然笑い出して……ぐっ」  赤竜は腰から短剣を引き抜き、兵士の喉を切り裂いた。  周囲から上がる悲鳴。  騒がしくなる足音。  赤竜は泣きながら笑っていた。 「殺してやる…殺してやるぞ! リゼ! アルベガス!」  駆けつけた兵士達が赤竜を包囲する。  赤竜は夢中で短剣を振り回した。  次々と上がる血飛沫。  しかし、すぐに取り押さえられ冷たい床に頭を擦り付けられる。 「隊長、外で鎧を脱がされた兵が倒れてました」 「この男の仕業だろう。殺せ」  鈍い光を放つ剣が高く振り上げられ、赤竜目がけて振り下ろされる。  その瞬間、地下の最奥からけたたましい咆哮が轟いた。  兵士達は皆叫びながら頭を抱えてうずくまる。  拘束が解けた赤竜は勢いよく体を起こした。  この叫び声、魂が知っている。  すぐさま走って奥の扉を開けた。  そこは竜達の監獄であった。  沢山の子竜が狭い檻にひしめきあい、場所によっては共食いをしている。  一番奥にある檻だけは、格別な広さだった。  中で一匹の竜が横たわっている。  海のように輝く鱗に、空のように鮮やかな羽根。 「青竜……」  檻の前に立ち、かつての友を間近で見て、赤竜は言葉を失った。  記憶にある雄々しい姿はどこにもなく、やせ細った体をぐったりと横たわらせている。 「赤竜よ……久しい、な」  息も絶え絶えに声を絞り出す青竜の尻周りには、灰色の卵が幾つも転がっている。  赤竜は全てを理解した。 「お前、卵を産まされているのか。あの子竜達は全て、お前の……」 「無精ゆえ、無我の子しか生まれんがな」  雌竜は単体でも卵を産むことができる。  ただ、雄の手を借りない卵から生まれる子は自我を持たず、言葉も魔法も扱えない。  それが無我の子だ。  大きさもとても小さい。  それでも、鱗や牙の硬さなどは変わらないので、人間にとって資源として役に立つのだろう。  赤竜は奥歯が砕けそうなくらいに歯と歯を噛み締めた。 「許さん……許さんぞ。リゼもアルベガスも、人間そのものも……根絶やしにしてやる!」 「赤竜、それは違う」 「何?」  青竜は力を振り絞って首を持ち上げ、赤竜と向かい合う。 「助かった同胞達もいるのだ。もう遠くへ旅立って、この世界にはいないが……半分くらいは、生きている。研究は、途中で打ち切られたからな」 「打ち切られた? なぜ?」 「そもそも我々が研究対象になったのは、竜が最も不老不死に近い存在だったからだ。だが、真の不老不死が現れた。お前の、死と引き換えに」  赤竜は目を見開いた。 「彼女は我らを守るために、自らの身を研究対象として王に差し出した。彼女は我らの、恩人だ」  体中に稲妻が落ちたような衝撃が走る。  足の力が抜け、赤竜はその場にへたり込んでしまった。 「リゼが、恩人……俺が殺されたのは、同胞を守るためだった……」  両目からとめどなく涙が溢れてくる。  大粒の水滴が、硬い床にいくつものシミを作っていく。 「ああ! ああぁぁぁ!」  赤竜は両手を床に突き、顔を突っ伏して泣いた。  青竜がわずかに残る魔力で、地下に小さな炎を灯す。  冷たい床で長時間泣き続けても、体は温かいままだった。    ようやく涙が収まった頃、赤竜はゆっくりと顔を上げる。  涙の跡で顔はひどい有様だったが、その表情は幾分か落ち着いたものだった。 「兵士は、アルベガスが不老不死になったと言っていた。だが、リゼが生きている以上、それはない。奴は紛れもなくリゼを愛していた」 「だが、国王の名は五百年前と変わっていない。つまり、分かるな?」  赤竜は沈痛の面持ちを見せる。 「不老不死になる真の方法は知られておらず、まだリゼを対象とした研究は続いている。それによってアルベガスは生き永らえてるんだな?」  青竜は控えめに頷いた。  赤竜はゆっくりと立ち上がる。 「……行かなければ、王都に。不老不死の始まりが愛なら、終わりもまた愛だ」 「短剣を貸せ。我の力を込めてやろう。その剣で、我を殺してから行け」  赤竜は青竜の体を今一度見た。  もう二度と、立ち上がることすらできないだろう。 「……生まれ変わったら、飛行競争の代わりにかけっこでもやるか」 「阿呆か」  赤竜は小さく笑った後、青竜の心臓をひと突きにした。      豪華絢爛を極めた王城内に錆びた鉄のような匂いが立ち込める。  廊下には血の足跡が連なっていた。  長く伸びるその軌跡は迷うことなく城の主人の元へと向かっている。  謁見の間に続く重厚な扉が開かれた。  血の足取りは真っ直ぐに玉座へと向かっていく。  ふんだんに宝石を散りばめた椅子には全身の皮膚がただれ湿疹だらけの人間が座っていた。  赤竜は眉を顰める。 「随分と様変わりしたではないか。昔は誰もが見惚れる色男だったというのに……。今では俺の方が男前になってしまったな、アルベガスよ」 「ふふ……赤竜、お前が来ることは彼女から聞いていた。久しいな」  アルベガスは声も老人のようにしわがれていた。 「それが、お前の求めた不老不死の成れの果てか? 俺を、同胞を死に追いやり、リゼを犠牲にし続けている失敗作め」 「随分な言い方じゃないか。私はもう五百年もの間生き続けている。これを不老不死と呼ばずして何と呼ぶ? 奇跡だ。彼女は奇跡をもたらしたのだ。あぁ、私だけの女神よ。彼女の血肉を食す限り、私は永遠を保ち続ける」  手から血が滲むほどに、赤竜は強く拳を握りしめる。 「なぜだ。なぜこうなってしまったのだ! 俺の知るお前は、リゼを愛していたではないか。溶けそうなほど甘い表情で、リゼに触れていたではないか。お前なら! 種族の違う俺にはできない、人間の男女の寄り添い合いも許せると思ったのに!」  アルベガスは声高に笑い始めた。 「何を言う! 愛する者の血肉を取り込み、名実ともに一つになることほど尊いものがあるか! 私は彼女を愛している! 彼女の目を、彼女の髪を、彼女の唇を……この身で噛み締める度にいい知れぬ悦びに満たされるのだ! 私ほど彼女を愛している者はいな、い……ぐほっ」  大声を出すうちに大量の血を吐き、その場に膝をつく。  しばらくむせりながら吐血し続けたが、やがて収まると見計らったかのように侍従が盆を持って奥からやってきた。  アルベガスが立ち上がり侍従の元まで歩く。  体にもガタが来ているのか、足を引き摺っていた。  クローシュを開けると、銀の皿の上に切り取られた乳房が乗せられている。 「おぉ、おぉ。どの部位も美味いがやはりこれが一番いい。柔らかく口溶けが滑らかでとても……」  アルベガスは大量の涎を垂らしながら赤黒い下で乳房を舐める。 「そそられる」  その瞬間、赤竜は記憶が飛んだ。  獣のような咆哮を上げた後、猛然と走り出した彼は恐ろしい跳躍力でアルベガスに飛びかかり、短剣で滅多刺しにする。  一回、二回、三回四回五回──。  顔の原型も止めないほど刺してから、赤竜はようやく体を起こした。  侍従は失禁した上で泡を吹いて倒れている。 「ひ……ひ。この程度で、死ぬと、思うなよ」  背後からしわがれた声が何事か呟いている。  赤竜は一度も振り返ることなく謁見の間を後にして、リゼの魂の気配を辿った。    リゼの魂は地下にある。  赤竜は襲いくる兵士達を薙ぎ倒しながら城の奥深くへと降りていく。  しかし、王を襲ったことで反逆者となった彼には、切っても切っても城中の精鋭達が束になって襲い掛かってくる。  例え竜の加護を得た短剣を持っていても、人間の体には体力の限界があった。  右腕が飛んだ。  ならばと左手で短剣を拾い、なおも切り進む。  左腕も飛んだ。  赤竜を切った男はそのまま剣を首筋に当て、睨みつけてきた。 「勝負あったな。大人しく投稿しろ。王の御前で処刑するよう言いつかっている」  赤竜は戦闘の構えを解いて、体から力を抜きその場に立ち尽くす。  男は剣を下げ、周囲にいる兵士達に指示を出そうとほんの一瞬赤竜から気を離した。  その僅かな間に、勝敗は逆転する。  赤竜は血走った目を見開き、男に飛びかかりその喉笛を噛みちぎった。  驚きと恐怖に目を見開いたまま、男はその巨体を後ろへ倒す。  赤竜はちぎった肉片を吐き捨て、力の限り吠えた。  獰猛な獣が周囲を威嚇するかの如く、恐ろしい目つきで兵達を睨みつけながら。  何人かが思わず尻餅をついた。  残った者達も、皆誰に言われるでもなく後ずさる。  赤竜はゆっくりと前に進み始めた。  もうリゼのいる部屋はすぐそこだ。  両腕から夥しい量の血が噴き出している。  常人であれば、とうに動けなくなっているはずだ。  赤竜が去ってから、兵の中の誰かが呟いた。 「あれは本当に、人なのか……? まるで自分より何倍も大きな生き物に睨まれた気分だ……」  赤竜を追う者はいなかった。    暗く、湿った匂いのする部屋に彼女はいた。  部屋の中央に、裸のまま腰から上の部位が横たわっている。  肘から先や、乳房の片方は失われていて、ちょうど細胞が蠢いているのが見えた。  時間が経てば、少しずつ再生していくのだろう。 (あぁ……やっと)  赤竜はゆっくりと、時折ふらつきながら彼女に近づいていき、目の前まで着くと、ドサリと膝をついた。  急に口の中が塩辛くなって、初めて涙を流していることに気付く。 「起きろ、──」  真名を口にすると、リゼはそっと瞼を持ち上げた。  彼女と目が合うと、今度ははっきりと目頭が熱くなるのが分かる。 「やっと……やっと会えた。ずっと、会いたかった。お前に会うためだけに、ここまで来た」 「……私のことを、恨んでいないのか?」  赤竜は首を横に振る。 「いいんだ、もういい。ひと目会えたから、それで」 「お人好しめ」  彼女の口元がほんのり弧を描く。 (そうだ、こうやって笑う女だった)  赤竜は懐かしさに目を細める。  リゼが今一度真顔で問いかけてくる。 「憎悪に駆られたのでなければ、何のために会いにきた?」  赤竜もまた顔を引き締めリゼに尋ねる。 「今も俺を愛しているか?」 「もちろんだ」 「よかった、これで俺は不老不死になれる」  リゼが眉を顰める。 「そなたに永遠の責め苦を譲る気はない」 「なら、いつか生まれ変わった時に、また俺を殺してくれ」  背後の暗闇から、荒い息遣いが聞こえてくる。  何かを引きずるような足音と共に。 「頼む。俺を殺していいのは、お前だけだ」  リゼはほんの一瞬悲しげに眉を下げたが、すぐにその形のよい唇で軽やかに赤竜の真名を唱える。 「──」  その瞬間全身を熱い血潮が巡り、頭の中で何かが弾けた。  視界は一瞬真白な世界を映し、言いようのない喜びと悦楽に満たされる。  もう、足音はすぐそこまで迫っている。  赤竜は未だ溢れる涙で愛しい女を濡らしながら、その喉笛に歯を立てた。
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