サボンの香り

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サボンの香り

夢のなか。 『お母さん』 呼んでみて、返事を待った。 でも、返事がない。 知ってる。 知ってるけど、呼んでみる。 頭の中で、お母さんの声を再生してみる。 『なあに、亜美ちゃん』 覚えていたはずなのに、最近よくわからなくなってきた。 これがあたしのお母さんの声なのか、今のお母さんの声なのか。 * あたしが小学校に入学する直前の春。 桜がちらほらと咲き始めたころ。 お母さんが亡くなった。 あたしを産んでくれたお母さん。 病気がちで、でもあたしの入学式の準備はたくさんしてくれた。 楽しそうだった。ランドセルも入学式用の服も。 一緒に買い物に行った思い出が、最後の楽しいお出かけ。 にこにこと太陽みたいに笑って、いつも石けんの匂いがしていたお母さん。 今でもあたしの好きな匂いは石けんの匂い。 そこからはお母さんが入院してそのまま帰ってこなくって。 お父さんのおばあちゃんの家に住むようになって。 嵐のようにすぎたあのころのことはあんまり覚えていない。 * 新しいお母さんができたのは小学4年生の春だった。 小春さんというその人は、あたしの記憶の中のお母さんと同じ匂いがした。 『亜美ちゃん、よろしくね』 そう言って腕を伸ばしてあたしをすっぽりと抱きしめてくれた。 髪がふわふわと揺れてあたしの頬をくすぐった。 『亜美、この人は新しいお母さんだぞ。これからはおばあちゃんちを出て三人で暮らすからな』 お父さんのその声ではっとした。 そうか。 この人は新しいお母さん。 おばあちゃんもいないのならこの人がごはんを作ってくれるのかな。 仲良くしてくれるかな。お手伝いたくさんしなくちゃだめかな。 そしてもう。 あたしを産んでくれたお母さんのことを、もう、思い出してはいけないんだな。 そう、思った。 * 「奏太、今日は日直」 そろそろっとスクールバッグを抱えて教室を出ようとしている奏太を呼び止めた。 「みんなの数学ノート、職員室に持っていかないと」 日直の正当な仕事を伝えると、ばつが悪そうにうつむいて頭をポリポリと掻く。そして奏太は両手を顔の前で合わせた。 「ごめん! 亜美やっといてくれる? 急いでるんだ」 「だーめ。日直は二人でやるの」 「そこをなんとか。母さんが入院したんだよ」 「入院?」 「そうなんだよ、昨日」 眉を八の字にして奏太が泣き出しそうな声を上げた。 入院という言葉には弱い。うちのことを知らないはずの奏太が言うのなら泣き落とし、というわけでもなさそう。 「じゃあいいよ。さっさと帰ってあげて」 「ありがと! 今度お礼するから」 「はいはい」 ものすごい勢いで教室をでていく奏太の背を見送る。 「はやく退院できるといいね」 小さく呟いて。 * 「昨日、ありがとな」 翌日奏太があたしの机に寄ってきて、はい、とお菓子を置いた。 キャンディとグミ。イチゴとオレンジの味の。 それを見て、奏太の顔に視線をうつす。今日は八の字眉毛じゃない。 「なにが?」 「母さんの入院、心配だったから速攻で行けてよかった」 「それならよかった。どうしたのお母さん」 「転んで腰を打って」 「ああ」 少しほっとした。病気だったらどうしようかと思った。 もう帰ってこないとか、そういうの、誰の話でも聞きたくなくて。 「すぐに退院できるといいね」 「うん、ありがと」 「じゃあこのキャンディとグミはありがたくもらっちゃうね! ノートの運び賃!」 つとめて明るく奏太に笑いかけた。 * 「ただいま」 「あみたんおかえりー」 玄関をあけると飛んでくる可愛い女の子。 あたしの妹。 お父さんと小春さんが結婚してそれから1年位でこの子──春香が生まれた。今はお父さんと小春さんと春香とあたしの四人家族。 もうすぐ3歳、かな。 ふふ。大きくなった。 あたしは制服のスカートにしがみついてくる春香の頭をそっと撫でた。抱っこ、と手を伸ばしてくるがそれは見えないフリで歩みを止めない。 「亜美ちゃん、おかえりなさい」 キッチンから小春さんの声が聞こえた。 あたしは「ただいま」ともう一度声をだして、自室に入った。なんとなく小春さんの顔を見られない。春香は抱っこをしてくれなかったあたしを諦めてキッチンの小春さんのところへ戻っていった。 ふう。 ため息をついて制服を脱ぐ。部屋着に着替えて勉強机の前に座った。 昨日の奏太の「入院」の言葉をきいてから胸がざわざわしていた。 だめだ、ってわかっているのにどうしても思い出してしまう。 せっけんの匂い。 あたしは机の引き出しの奥から古いノートを引っ張り出した。 それは幼稚園のころのあたしが描いた絵のノート。 「あみちゃん5歳」とか「4歳のおたんじょうび」とかメモが書いてある。 本当のお母さんの字。 それからせっけんの匂いを思い出して、胸にすうっと吸い込む。 そうしてノートの最後に挟んだ写真を手に取りじっと見つめた。 「おかあさん」 小さく呟いて、あわてて口を塞ぐ。 聞こえたらいけない。 小春さんと暮らすようになって、お父さんはお母さんの写真をあらかたかたづけてしまった。それまではおばあちゃんの家で、部屋のどこかしらにフォトフレームの中で笑うお母さんがいたのだけれど。 この家に来たときに段ボールにいれてしまって、お父さんしか知らない場所にあるらしい。 だから、あたしも同じようにした。 部屋にも飾らない。 引き出しの中の奥のほうにしまってある。 どうするのが正しいのかわからないまま。 「あみたん?」 きっちりしまっていなかったドアの隙間から春香がそそっと入ってきた。あたしの横にちょこんと立って、つま先立ちでノートを覗き込もうとする。 ぱたん、とノートをとじてそのまま引き出しを押し込んだ。 「いたい!!」 「え」 「あみたん、はるたんのゆびいたいいたいのよう」 泣き声をあげて春香が主張した。はっとしてその指をみると、強く押し込んだ引き出しに、小さな指が挟まっている。 慌てて引き出しをあけて指を解放する。赤くなってしまっていた。 「ああ、ごめん。ごめんごめん泣かないで」 「えええーん」 ひときわ大きくなった声に、小春さんがキッチンからパタパタと走ってきた。泣いている春香を「どうしたの」と言って抱きしめる。 ごめんなさい、とあたしは二人に頭をさげた。 「引き出しに指をはさんでしまって」 すぐに小春さんが確かめようとする。 「春香、みせてごらん」 小春さんのその声に、春香がまた大声を上げる。 「あみたんののおと、みたかったの」 「はるかごめん」 「あみたんの!」 「だまってってば!」 大きな声で怒鳴ってしまった。はっとして口を手でふさぐ。 小春さんと春香に視線をさまよわせる。 どうしよう。なにを見たかったのか、春香が言ってしまったら。 「春香。亜美ちゃんこまらせないの」 そのとき、強い口調で小春さんが春香を諭した。 ひくっと息を吸い込み、肩をぶるりとふるわせて春香が黙った。 小春さんはあたしに優しく言った。 「亜美ちゃん、ごめんね。春香がこまらせて」 「う、ううん。ごめん、あたしこそ怒鳴ってごめんね」 目にためた涙がだあっとこぼれる春香を小春さんが抱き上げた。 そうして静かに部屋をでていった。 * こんこん ドアをたたく音がして「亜美ちゃん」と小春さんの声がした。 あたしはベッドでぼんやり横になっていたのを慌てて起き上がる。 それと同時に入ってきた小春さんが小さく笑った。 「寝転んでていいのに」 「あ、でも」 「いいの、家族だもの」 言いながら小春さんは、ごろん、とベッドに横になった。 それは突然のことで、あたしは驚いてしまう。 「ほら、亜美ちゃんも」 言われるままにおずおずとベッドに横になる。二人でベッドに横になって、なんだか不思議な気持ちだった。 そういえば。 小春さんは、お母さんと呼べ、と一度も言ったことがなかった。 むしろお父さんのほうから無言の圧力があったくらいで。 「だから、写真とか。お母さんも家族のひとりでいいのよ」 「……お母さんって?」 「あなたのお母さん」 小春さんは涼しい顔でそう言った。 「──でもお母さんは小春さんで」 「だから。いいのよ。みんなひとつで家族でいいの。ずっと我慢してたのよね? ごめんなさいほんとうにごめんなさい」 あたしに向かって、いつのまにか起き上がっていた小春さんが頭を下げていた。あたしも起き上がる。小春さんは静かに口を開いた。 「あなたがお母さんのこと、この家から消そう消そうとしているのわかってた。わかっててもずるくって私、あなたにお母さんのこと我慢させてた」 「がまんなんて」 「してたよね? ずっとずっと写真も飾らず何も見せずに我慢、してたよね?」 息を吸うとひゅっと音がした。 呼吸の仕方がよくわからない。それでも言葉を絞り出す。 「それがただしいことだと思ってて」 「あなたがお母さんのこと思い出すのも正しいことよ」 きっぱりと小春さんが言った。 あたしの顔をじっと見つめて。 すると小春さんは不意にちらりと舌を出した。目を細めてあたしを見つめている。 「だってね、あなたのお母さんならこの家族の一員だと思うの。お父さんのいまの奥さんは私だけれど、それも全部ひっくるめて家族だと思うのよ」 はじめてそんなことを言われた。 どういう顔をしていいのかわからなかった。 全部。 全部、かぞくで、いいの? 「もちろん、春香もね」 当たり前だ。春香は妹。大事な妹。なのに。 「ごめんなさい、怒鳴って」 「いいんだってば。それより私も見たいの。あなたのお母さん。お父さんって本当に隠してしまって私にはみせてくれないのよ。きっと、きっと自分だけの大切な思い出にしたいのだと思う。だから」 「はい」 「だからね、お父さんのこともちょっとだけ、わかってあげて」 「は、い」 あたしよりずっとお父さんのことをわかっているような小春さんに驚く。そして、もういいんだと思った。 「消さなくて、いい?」 「もちろんよ。だからみせてよ、亜美ちゃん」 「ええっと」 「おばあちゃんのおうちのお仏壇でしかみたことがなくて。亜美ちゃんのお母さんのこと、知りたいな」 * リビングの本棚の一角にお母さんの写真を飾る。 あたしのノートに挟んであった大事な一枚。 仕事から帰ってきたお父さんがその写真をみて足を止めた。 知らんふりをしている小春さんとあたしを交互に見て、何も言わずにじっと写真を見つめていた。 せっけんの匂い。 せっけんの匂いが優しく部屋を包んでいるみたいだった。 * 次の日の教室で。 奏太の机の前に立った。 持ってきた包みをそっと差し出す。 「奏太、これあげる」 「え」 「チョコとクッキー」 「なんで?」 驚いた顔で奏太が聞いてきた。 「お母さん、退院した?」 「した、けど」 「じゃあ、退院祝い」 「??」 あたしはにへっと笑う。 「お母さん大事にしてあげてね」 「? おう」 「と、お礼」 「ああ? なんの?」 ますます不思議そうな顔で奏太が聞き返してくる。 「お母さんがリビングにいるの」 「?」 「わかんなくていいよ」 「そうなの?」 考えるのを諦めたように奏太が答えてチョコとクッキーを手にした。 「うまそ。ありがとな」 「うん! 食べて」 大きな声で答えて、なんとなく。 次の日直が楽しみだな、なんて思ったら。 せっけんの匂いがふわっと鼻をくすぐった気がした。
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