1 忘れられない匂い

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1 忘れられない匂い

「大丈夫。僕が必ず守ってあげるからね。ずっと一緒だよ」 そう言って僕を抱きしめてくれた幼なじみはある日突然いなくなってしまった。 僕がパニックを起こすと必ず抱きしめて落ち着かせてくれた彼はもうどこにもいない。 彼の声を思い出せなくなってずいぶんと経つけれど大好きないちごミルクのアメの匂いよりもっと美味しそうないい匂いがしていたのを覚えている。 それは、忘れられないくらいのいい匂い。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「とんかつ?ですか?」 一瞬言われた言葉が理解できず担当さんの言葉を繰り返すと電話の向こうで彼女が吐息だけで笑う気配がした。 「いえ。こ・ん・か・つ・です。お見合いパーティとかそういう方の」 (あぁまたその話か) そう思って断ろうと口を開きかける。が、続いた言葉に断りの言葉は出せず仕舞いになった。 「木本さんもそろそろ番を決めていただけると私も安心して引退できるというか。せめて積極的に探しているふりだけでもしていただけると」 ことさら柔らかい口調になったことで彼女が気を配りながらこの話をだしてきたことが感じられる。 そりゃそうだ、自分が生活支援担当をしているオメガ相手に番を作れだなんてセクハラかつパワハラととられても仕方がない。 たとえそれがで社会のお荷物である僕であってもだ。 優しい彼女は僕の事情をわかってくれているけれど次の担当者が僕のことを大げさに騒ぎ立てて生活支援を引き出そうとするオメガだと断定してくるような人かもしれない。後ろ向きで何事にも変化を嫌う僕は次の担当さんが大きな声でズケズケ喋るおじさんだったらどうしよう。と想像をして背中にじんわりと嫌な汗をかき始めた。 「引退、ですか?」 「そうなんです。だから私に最後に花を持たせると思ってお願いします」 そう言われると心苦しい。電話の向こうにいる彼女には確かに今まで世話になった。職場探しはもちろん職場で急に始まった発情期あれやこれやの後始末とか社会のお荷物になってからもずーっと彼女にお世話になりっぱなしだ。 「人助けだと思ってお願いします」 『』その言葉は今の僕にはとても効く。 思わず僕は了承の返事をしていた。 だって僕は『』に失敗したばかりだったから…… 人畜無害。少なくとも悪いことをしない良い人であると思っていた自負は1週間前に粉々に砕け散った。 実は僕は物語で言えば意地悪な悪役だった。 最低で最悪の頭でっかちの邪魔者。 才能のある他人をうらやんで底辺をのたうつモンスター……らしい。 電話を終えて手に持ったスマフォの画面で時間を確認してから机に置かれたパソコンへ視線を彷徨わせ僕は思わず顔をしかめた。 僕を拒絶した楽園を覗く勇気はまだ出ない。
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