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ある日の出来事
小雨の降るある日──
「アンタ、いくつだい?」
ベンチに座ってバスを待っていると、突然隣りのお年寄りが尋ねてきた。
白髪を綺麗に束ねたお婆さんだ。
「あ……えと……十六だけど」
「そうかい。今頃、桜が満開だろねぇ」
え?
サクラ……桜……学校の事か?
「えと……校庭の桜はまだ……」
「そうそう。よく魚も獲れたしねぇ」
何!?
さ、さかな?
ウチの学校で魚なんか獲れないぞ。
イヤそれより、年齢の話はどうなった!?
「……どっかの田舎の話かい?」
俺は気を利かせて問い返してみる。
「あたしゃ、絵が好きでねぇ。アンタはどうだい?」
ダメだ。
全く会話が噛み合ってない。
この手の年寄りは、テキトーに話を合わすしかない。
「はあ……俺は、絵はあんまり……」
「アンタ、いくつだい?」
うぉーい!話が戻ったぞ!
このまま、無限ループに突入か!?
ど、どうする?
「俺、高校生だよ。十六歳の高イチ」
俺は、やや詳しく答えてみた。
「そうかい。高校生かい……そしたら、何かと大変じゃろう」
やっと、まともな反応が返ってくる。
「なんか、悩みは無いのかい?」
お婆さんが心配そうに尋ねた。
悩みって……
まあ……確かに……悩んではいるが……
「え、まあ……あると言えば、あるけど……」
「魚は、エサが大事だからね」
「イヤ、魚獲りで悩んでないし!」
俺は、慌てて否定する。
「……俺、サッカー部入ったんだけど………」
聞きたそうに見つめるお婆さんに根負けし、俺は渋々語り始めた。
「なんか、うまくいかなくて……練習も……試合も……部員との仲も……」
そう呟く俺の顔を、お婆さんはじっと見つめる。
「これでも、中学の時はキャプテンだったんだ。試合でも、毎回得点入れてたし……部員の皆も、よく言うことを聞いてくれた」
俺は思い起こすように、ポツポツと続けた。
「でもそんなもの、高校サッカーじゃ全く通用しなかったよ。技術も劣るし、試合にも出してもらえない。力のある部員はドンドン上がっていくけど、自分はドンドン置いていかれる。入部当時は仲の良かった部員も、今じゃ見向きもしてくれない……それでも、誰も恨んだりはできない。全ては、自分の力の無さが原因なんだから……」
自虐的な嘲笑を浮かべながら、俺は拳で額を叩いた。
お婆さんは笑顔のまま、何も言わない。
「最近じゃ、自分はサッカーにむいてないんだと思えてきた。元々素質が無かったんだって……」
そう言って、俺は天を仰いだ。
大志を抱き、意気揚々と入部した日の事が、脳裏に甦える。
だが、現実はどうだ。
声を出して、声援を送る事しか出来ない日々。
先輩のこぼれ球を拾う事しか出来ない日々。
ボール拭きとトンボがけしか出来ない日々。
情け無い……
何度も、辞めようと考えた。
でも……辞めなかった。
いや、辞められなかった。
それは、意地とか根性とかの問題では無い。
それは……
それは……
「好きなら、いいさね」
そのひと言に、俺はハッとして顔を上げた。
好きなら、いい──
何の飾り気も、何の意図も無い、純粋なひと言。
だが紛れもなく、今一番自分が聞きたかった言葉だった。
ニッコリ笑うお婆さんの顔を、俺はまじまじと眺めた。
その屈託の無い笑顔に、くよくよと悩んでいた自分が、バカらしく思えてくる。
そうさ……
上手かろうと、下手だろうと、関係ない。
好きだから、続ける。
やりたいから、続ける。
それで、いいじゃないか。
「……そうだな。好きだから、いいんだ」
そう言って、俺もニッコリ笑った。
お婆さんは、笑いながら、何度も頷いてみせた。
かなわないな……全く……
俺は苦笑いを浮かべ、お婆さんに優しく頷き返した。
遠くに、こちらに向かってくるバスが見えた。
待っていたバスだ。
俺は立ち上がると、お婆さんの肩に手を置いた。
「さあ……家に帰るよ。お婆ちゃん」
耳元で、そっと囁く。
病院帰りの、いつものバス停──
そして、お婆ちゃんとのいつもの会話──
たとえ孫の顔が分からなくても、たった一人の大事な祖母だ。
気付くと、いつも間にか雨も止んでいた。
立ちあがろうとするお婆ちゃんの肘を支える。
雨上がりの木洩れ日に映るお婆ちゃんの顔は、とても嬉しそうに輝いていた。
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