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「いつきー、やっぱりまだここにいた。アンケート用紙提出してないのお前だけだから、職員室まで持ってこいって。葉ちゃん先生からの伝言」
「……わかった」
放課後の教室で一人残っていた俺を呼びに来たクラスメイトに、少し苛立ちを含んだ声で返事をして、乱暴に鞄からファイルを取り出し職員室へと向かう。
ドアの前で、落ち着くために一度大きく息を吐いて、取手に手をかけ職員室に足を踏み入れた。
「失礼します」
「お、芹沢来たな」
西陽に照らされた柔らかい髪が揺れて振り向き、俺に笑う。その眩しさに俺は目を細めてゆっくりと彼に近づいた。
「……葉兄」
「凪澤先生、な」
学校では名前で呼ぶなよ。 と座ったまま上目遣いで軽く睨む葉を、不機嫌を隠さず見下ろす。
じゃあなんで、あいつらにはちゃん付けで呼ばせてんだよ。
思い出して、また心がざわつく。
あれから俺は葉と同じ高校に入学し、俺が三年になった春、母校に新任教諭として着任した葉と偶然の再会を果たした。
五年ぶりに会う葉は「背ぇ伸びたな、樹」とあの日とは逆に俺を見上げて、だけど変わらない悪戯っぽい笑顔を俺に向けた。
会えなかった年月をまったく感じさせない葉の態度と口調に、安堵と懐かしさと愛おしさが込み上げてきて、俺はただ見つめ返すことしかできなかった。
あの告白から止まっていた俺の時間が、再び熱を伴って動き始めた瞬間だった。
「ん」
持ってきた書類を無言で渡すと、仕方がないな、とばかりに葉は小さく笑って紙を受け取った。
そのまま黙って見つめ続ける俺から逃れるように、そっと葉が視線を外す。
暖気を含んだ風が葉の前髪を撫でて、遠くから部活動の掛け声と金属音が耳に届く。
「……もうすぐ卒業だな」
窓に視線を移しぼそっと呟いた葉の横顔を、夕陽が朱色に染める。
『まだ好きなら、またここで──』
あの日交わした約束を、葉はまだ覚えているだろうか。
自分の襟元にそっと手をやる。少し色褪せはしたものの今ここに結ばれているネクタイが、あの時葉がくれたものだということに気づいているだろうか。
葉の視線を追って窓の外に目をやると、そこにはわずかに臙脂色を滲ませて膨らんだ桜の蕾が、その日を待ちわびるように花開こうとしていた。
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