2.「3月」「お返し」

2/3
前へ
/8ページ
次へ
「いつきー、やっぱりまだここにいた。アンケート用紙提出してないのお前だけだから、職員室まで持ってこいって。葉ちゃん先生からの伝言」 「……わかった」  放課後の教室で一人残っていた俺を呼びに来たクラスメイトに、少し苛立ちを含んだ声で返事をして、乱暴に鞄からファイルを取り出し職員室へと向かう。  ドアの前で、落ち着くために一度大きく息を吐いて、取手に手をかけ職員室に足を踏み入れた。 「失礼します」 「お、芹沢来たな」  西陽に照らされた柔らかい髪が揺れて振り向き、俺に笑う。その眩しさに俺は目を細めてゆっくりと彼に近づいた。 「……葉兄」 「凪澤先生、な」  学校では名前で呼ぶなよ。 と座ったまま上目遣いで軽く睨む葉を、不機嫌を隠さず見下ろす。  じゃあなんで、あいつらにはちゃん付けで呼ばせてんだよ。  思い出して、また心がざわつく。  あれから俺は葉と同じ高校に入学し、俺が三年になった春、母校に新任教諭として着任した葉と偶然の再会を果たした。  五年ぶりに会う葉は「背ぇ伸びたな、樹」とあの日とは逆に俺を見上げて、だけど変わらない悪戯っぽい笑顔を俺に向けた。  会えなかった年月をまったく感じさせない葉の態度と口調に、安堵と懐かしさと愛おしさが込み上げてきて、俺はただ見つめ返すことしかできなかった。  あの告白から止まっていた俺の時間が、再び熱を伴って動き始めた瞬間だった。 「ん」  持ってきた書類を無言で渡すと、仕方がないな、とばかりに葉は小さく笑って紙を受け取った。  そのまま黙って見つめ続ける俺から逃れるように、そっと葉が視線を外す。  暖気を含んだ風が葉の前髪を撫でて、遠くから部活動の掛け声と金属音が耳に届く。 「……もうすぐ卒業だな」  窓に視線を移しぼそっと呟いた葉の横顔を、夕陽が朱色に染める。 『まだ好きなら、またここで──』  あの日交わした約束を、葉はまだ覚えているだろうか。  自分の襟元にそっと手をやる。少し色褪せはしたものの今ここに結ばれているネクタイが、あの時葉がくれたものだということに気づいているだろうか。  葉の視線を追って窓の外に目をやると、そこにはわずかに臙脂色を滲ませて膨らんだ桜の蕾が、その日を待ちわびるように花開こうとしていた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加