優しい人

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 そのとき、隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。咄嗟(とっさ)に掴まれたままの腕を引き寄せ、部屋へ招く。  扉に背を預ける形となった朝陽くんが、思い出したように僕の両手を離した。強く握りすぎたことを気にして、声をかけてくる。 「あと、可愛い」  耳まで熱くなったのがわかる。一歩後ずさったところで靴に引っかかってよろめいた。  後ろに倒れそうになった僕を支えようと、朝陽くんが手を伸ばしてくる。  結局僕は倒れてしまったし、朝陽くんは覆い被さる形になってしまった。  少女漫画みたいだ。他人事みたいにそう思う余裕はあるのに、視線はまるで合わせられなかった。 「ご、ごめん。どくよ」 「……僕、浮気したんだよ?」  切り札みたいにかざした攻撃に、朝陽くんは一瞬固まる。  わかったら帰って、と言おうとしたところで「してないだろ」と返されてしまった。 「したよ。キスもした」 「してないだろ。この一ヶ月、俺ずっと調べてたんだよ。三津井さんにも聞きに行ったし」 「えっ」  そこまで、するのか。  呆気にとられた僕に、朝陽くんはしてやったり顔で応える。 「浮気しようとはしたみたいだけどさ。俺にも三津井さんにも失礼だし、それには怒ってる」 「……軽蔑する?」 「そんな期待されてもしない。嫌わない。たぶん俺、無理だよ。真月に何されても許しちゃうもん」  そのとき初めて、少しだけ、ほんの少しだけ、朝陽くんが怖いと思った。  朝陽くんは完璧で、優しくて、正しい人だ。  少なくともこんな風に、誰かを無条件に許してしまえる人ではない。  悪いことをしたら悪いと叱り、時には軽蔑の目を向ける。善悪の判断がつく。  これじゃあまるで、まるで、優しいというより―― 「怖くなった?」  ひゅっと息が止まる。  鼻の頭がくっついて、吐息が顔にかかる。  こんなに近いのに、朝陽くんの声が、他人のもののように聞こえた。  思わず押し退けようと肩を押して、顔を背ける。  朝陽くんはクスクス笑って「あー、よかった」とひとりごちた。 「なに、が」 「真月に嫌われてなくて。俺さ、真月のこと嫌うのも無理だけど、嫌われるのも無理だから」 「もう、僕とは無理なんでしょ? ごめんって言ってたじゃん」 「ああ、あれな。真月の望み通り、嫌いにもなれないし軽蔑もできないからごめんって意味」  そんなの、知らない。  僕はやっと終わりにできると思ったのに。この歪んだ想いから、ようやく解放されると思ったのに。  たぶん、もう僕に逃げ場なんてないのだろう。  それでも往生際悪く、尖った声で僕は言う。 「別れたんじゃないの、僕ら」 「俺はそのつもりはなかったけど、もしそうだったら、改めて言わせて」   耳元に唇を寄せられる。  朝陽くんの生暖かい吐息が耳の縁を流れ、息を止める。  逃げようと試みる前に、何もかも忘れてしまうような声で囁かれた。 「俺と付き合えよ」  あっ、と声が漏れる。  低くて、少し怖くて、僕の望んだ嫌な奴の声だ。僕の意見なんて聞かずに、無理矢理に言うことを聞かせる声。  嬉しくて、それ以上に恥ずかしくて、涙が出そうになる。  本当に逃げたいのに、どれだけ身動ぎしても逃がしてくれない。  朝陽くんは相変わらず楽しそうに、僕の上で笑っていた。 「真月ってさ、たぶんマゾだよな」 「し、知らない……!」  もしかして、もしかしなくても、朝陽くんは僕が思うような優しい人じゃないのかもしれない。  ようやく気付いたけれど、だからってどうすることもできない。拒絶も、受け入れることも。  ただ流されるまま、身を任せて、朝陽くんにすがりつくだけだ。  溺れないように、いつか全部を貰えることを願って。  祈るように、僕はそっと手を伸ばした。 「……よろしくお願いします」
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