愛しい日々

1/5
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

愛しい日々

「次はー、(よもぎ)。蓬です」  最寄り駅の名前で目が覚める。自然と出てきた欠伸を片手で隠しながら、窓の外を見た。  屋根が黒い焼き鳥屋、野村歯科の縦看板、薬局、青いコンビニ。見慣れた光景が左から右にどんどん流れていく。  次第に電車は減速していき、外の文字がよりはっきりと読み取れるようになる。  蓬、と書かれた看板が見えたところで、肩に触れた温もりを揺さぶった。 「起きて、朝陽くん。着いたよ」 「んー……」  ごしごしと目元を擦りながら、朝陽くんが身動ぎした。瞼の下から、真っ黒でツヤツヤした目玉が現れる。  その目が僕を捉えると、ふにゃりと(まなじり)が下がる。世界で一番幸福な瞬間だ。 「ちっ、早く起こせよな」 「ごめんね」  こちらを振り返りもせず、朝陽くんがさっさと降りていく。当然、荷物は持ってくれない。 「待って、朝陽くん」  僕は慌てて後を追いかけた。周りからの同情するような視線が、背中に突き刺さっていた。            ◇  僕が一人暮らしを始めた初日、朝陽くんが転がり込んで来た。  自分の部屋のように寛いで、ご飯も洗濯も全部僕任せだ。大学には一応行っているらしいけれど、単位が足りているのかはわからない。  バイトもしていないので、当然家賃は僕が払っていた。食費も、光熱費も、全部ぜんぶ。 「まっず」  朝陽くんがぷっと何かを吐き出す。ふにゃふにゃになった小松菜だった。  朝陽くんは好き嫌いがないけれど、時々こうやって、意味もなく吐き出したりする。  僕はごめんね、と言いながら、咀嚼されかけた小松菜をティッシュで拭き取った。 「何でこんなクソまずい飯食わせるわけ?」 「ごめんね」  僕がもう一度謝ると、朝陽くんが苦しそうな顔をした。あ、駄目だ。  僕は身を乗り出し、テーブルの向こうから朝陽くんの頬に触れる。両手でぴったり触れた頬はカサカサで、指の腹にニキビのぷつっとした感触が伝わってきた。 「朝陽くん、もしかして、悪いことしたって思ってるの?」  僕が尋ねると、朝陽くんは怯えたような顔をして、僕の腕を振り払った。 「んなわけねぇだろ、クズ!」  ああ、よかった。元通りだ。僕の大好きな朝陽くんのままだ。  安心して、ご飯を食べ始める。不味くも美味しくもない野菜炒めと、ちょっと柔らかめの白米と、豆腐の味噌汁。  朝陽くんはいつも文句を言いながら、ほとんど完食してくれる。時々残すこともあるけれど、決まって申し訳なさそうな顔をしていた。それがちょっとだけ不満だ。  今日は残すつもりはなかったようで、食器はどれも空っぽだった。白米をよそっていた茶碗だけ、もっともらしく米粒がこびりついている。  ニ人分の食器を重ねて、シンクに運ぶ。片付けるのも洗うのも、もちろん僕だ。洗い物をしている間、朝陽くんはずっとスマホで動画を見ていた。  蛇口から水が流れる音と、食器と食器がぶつかる音。下品な笑い声。  これが僕の大切にしたい、生活そのものだった。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!