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愛しい日々
「次はー、蓬。蓬です」
最寄り駅の名前で目が覚める。自然と出てきた欠伸を片手で隠しながら、窓の外を見た。
屋根が黒い焼き鳥屋、野村歯科の縦看板、薬局、青いコンビニ。見慣れた光景が左から右にどんどん流れていく。
次第に電車は減速していき、外の文字がよりはっきりと読み取れるようになる。
蓬、と書かれた看板が見えたところで、肩に触れた温もりを揺さぶった。
「起きて、朝陽くん。着いたよ」
「んー……」
ごしごしと目元を擦りながら、朝陽くんが身動ぎした。瞼の下から、真っ黒でツヤツヤした目玉が現れる。
その目が僕を捉えると、ふにゃりと眦が下がる。世界で一番幸福な瞬間だ。
「ちっ、早く起こせよな」
「ごめんね」
こちらを振り返りもせず、朝陽くんがさっさと降りていく。当然、荷物は持ってくれない。
「待って、朝陽くん」
僕は慌てて後を追いかけた。周りからの同情するような視線が、背中に突き刺さっていた。
◇
僕が一人暮らしを始めた初日、朝陽くんが転がり込んで来た。
自分の部屋のように寛いで、ご飯も洗濯も全部僕任せだ。大学には一応行っているらしいけれど、単位が足りているのかはわからない。
バイトもしていないので、当然家賃は僕が払っていた。食費も、光熱費も、全部ぜんぶ。
「まっず」
朝陽くんがぷっと何かを吐き出す。ふにゃふにゃになった小松菜だった。
朝陽くんは好き嫌いがないけれど、時々こうやって、意味もなく吐き出したりする。
僕はごめんね、と言いながら、咀嚼されかけた小松菜をティッシュで拭き取った。
「何でこんなクソまずい飯食わせるわけ?」
「ごめんね」
僕がもう一度謝ると、朝陽くんが苦しそうな顔をした。あ、駄目だ。
僕は身を乗り出し、テーブルの向こうから朝陽くんの頬に触れる。両手でぴったり触れた頬はカサカサで、指の腹にニキビのぷつっとした感触が伝わってきた。
「朝陽くん、もしかして、悪いことしたって思ってるの?」
僕が尋ねると、朝陽くんは怯えたような顔をして、僕の腕を振り払った。
「んなわけねぇだろ、クズ!」
ああ、よかった。元通りだ。僕の大好きな朝陽くんのままだ。
安心して、ご飯を食べ始める。不味くも美味しくもない野菜炒めと、ちょっと柔らかめの白米と、豆腐の味噌汁。
朝陽くんはいつも文句を言いながら、ほとんど完食してくれる。時々残すこともあるけれど、決まって申し訳なさそうな顔をしていた。それがちょっとだけ不満だ。
今日は残すつもりはなかったようで、食器はどれも空っぽだった。白米をよそっていた茶碗だけ、もっともらしく米粒がこびりついている。
ニ人分の食器を重ねて、シンクに運ぶ。片付けるのも洗うのも、もちろん僕だ。洗い物をしている間、朝陽くんはずっとスマホで動画を見ていた。
蛇口から水が流れる音と、食器と食器がぶつかる音。下品な笑い声。
これが僕の大切にしたい、生活そのものだった。
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