1章 お菓子な悩み事

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 金岡さんと挨拶を済ませ社屋を出た明日香は、朱里に先に車に戻るよう告げる。 「朱里ちゃん、あの木立をちょっと一人で歩きたいんだ。先に車に戻っていてくれる?」 「・・・はい。分かりました!」  こんな感じの時は明日香がひとりで思索したがっている時だ、と理解していた朱里は、一緒に行きたいとは言わずおとなしく車で待機することとした。  米田製菓の敷地内の南東に位置する木々と小径のエリア。足元のレンガは古く時代を感じさせはするが、同じく古い木々と相まってなんだかノスタルジックな空間を演出している。昔から、米田の社員は敷地内のこの小さな小径を愛してきたんだろうなぁと感じさせる。  でも、金岡さんの話によれば、ここが社員用の運動施設に置き換わるんだったっけ?私だったら残念に感じるだろうなぁと明日香は思った。  明日香はバッグの中から透明な容器に入ったサボテンを取り出し、歩きながら声をかける。 <ねぇ1号ちゃん、重森さんっていつも、どのあたりをぶらぶらしていると思う?> <アッチのキのヨコにあるスワるトコロ>  サボ1号が意識を向けた先に明日香も目を向ける。そこには古びた桜の木が植わっていて、その少し離れたところに石でできたベンチがあった。  明日香はベンチに鞄を置いてから桜の木に近づき、その古く、優しい樹皮にそっと手を当てる。そして、桜の木に小さく声をかけた。 <ねぇ、君は、工場長のどんな想い出を記憶しているの?>  明日香が問うと、桜の木はほんの少し光を発した。明日香の頭の中に映像が飛び込んでくる。  ーーーーー桜の木の横、新しいベンチに座る若い男性・・・これはおそらく、若い重本さんだろう。短く切った髪は現在と同じだが、その眼光はギラリと闘志に満ちている。その横に、綺麗な女性が座っている。二人はおしゃべりする訳でもなく、ただ美味しそうに、ひとつのお弁当箱からおにぎりを取り出しては食べていた。  季節が移り、少し暖かそうな服を着た二人。小型のポットから暖かそうなミルクティをコップに注ぎ交互に飲んでいる。  また季節が移り、半袖の作業服を着た若い重森さんは、その綺麗な女性に熱弁を振るっていた。これから、新しい製品の生産がはじまるのかもしれない。  ある時から、綺麗な女性はその場にあまり来なくなった。でも、重森さんは変わらず、そのベンチでお弁当を食べ続けていた。  時折、その小径のエリアにたくさんの人が集まる日もあった。皆、片手には肉の入った小皿、片手にはビールの入った紙コップを抱えている。会社のバーベキュー大会などだろうか。そんな日には、ベンチに座る重森さんと綺麗な女性の懐かしい組み合わせを目にすることができた。二人を他の社員が取り囲むような風景も目に入る。・・・そして何年かたってから、そんな二人の間には小さな子供が座るようになった。  それからとても長い長い年月が経ち、桜もベンチも重森さんも、同じように年を重ねていった。  ある日、すっかり白髪の馴染んだ重森さんは色の褪せたベンチにひとり座っていた。弁当を食べようと手に取ったが、胸にこみあげるものを抑えられず肩を震わせながら、ひとり涙を流す。そこに重森さんと同じような年代のスーツ姿の男性が近づいてきて、重森さんの肩に手をかけた。たぶんこれは、先代の社長だろうか。  その日を境に、綺麗な女性の姿を目にすることはなくなったーーーーー  過去を見る時はいつも切なくなるな・・・息を深く吸いながら明日香は思う。でも、これで問題は明らかになった。この場所は重森さんの人生そのものだったんだ。だけれども、そんなあまりにも個人的な理由で他の社員の幸せ、つまり、運動施設の開発を止めるわけにはいかないと思ったのだろう。自分が愛する風景が壊される前にこの場を立ち去ろうと考えたのだろう。 「なるほど、だいたい分かった。あとは、米田さん次第だな」  そう呟き、明日香は朱里の待つ社用車へと足を向けた。
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