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「わんわんだ〜」
歌うように口ずさみ、おばあさんに寄り添う老犬に向かって、小さな手を差し出した。
けれどすぐに怒鳴り声が追いかけてきて、犬の鼻先でその手はピタリと静止する。
「こらっ!!」
突然のことにまゆりの心臓は大きく跳ねて、そのまま激しく脈打ち始める。
「汚いから触るなっ!!」
すべての文字に濁点が乗っているような、その不快な怒声が耳の奥でハウリングする。
随分と失礼なことを叫んでいながら、おばあさんには目もくれず、強引に子どもの手を引き遠ざかっていく父親は、なんと、店先でまゆりを怒鳴りつけたあの男だったのだ。
どうにか動悸を落ち着けようと、胸を押さえて俯くまゆりの視線の先で、擦り切れたスニーカーが立ち止まる。
恐る恐る顔を上げれば、色褪せたジーンズ、グレーのスウェットパーカー、まゆりをまっすぐに見つめる素のままの瞳ーー
目の前にいたのは、一人でふらりと店にやって来た、あの日と同じ彼女だった。
実際は枝から離れた花びらが地面に到達するまでのほんの数秒、けれど永遠にも思える沈黙が、二人の間に流れた。
「あの時は、本当に、すみませんでした」
先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「いいえ、謝るのは私の方です。無理をさせてしまって……」
「無理なんかしてませんっ」
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