盛りと散り際

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「うーん、見事だなあ」  土手に沿って延々と続く桜並木をゆっくりと歩きながら、北島が感嘆の声を漏らす。 「本当に、今日が丁度満開だね。お天気も良くてよかった。ちょっと人出が多いが、まあ贅沢は言えないな」  この桜並木は、花見のシーズンにはちょっとしたスポットになる。丁度この週末が満開という予報もあって、学生時代以来の古い付き合いの北島を誘って花見としゃれこんだのである。 「こういう満開の桜も見事だけどさ。僕は散っていく桜も好きなんだよね」  ゆっくりと歩みを進めながら、北島がぽつりとつぶやいた。 「桜吹雪とか?散る花に儚さを覚える日本的美学ってやつかい?」 「うーん、いわゆる桜吹雪だと、これまた、ちょっとうるさい感じがするんだよね。ぶわーっと花びらが一斉に舞い散っているところに包まれると、何だか生物の大群に襲われているような気がしてさ」 「面倒くさいやつだな。うるさいのは君のほうだぜ。どうしたいのさ」 「つまり、こう、ちらほらと桜の花びらが少しずつ舞い落ちてくるくらいの頃がいいんだよ。最近になって、妙にこういうのがいい感じに思えてきたのさ。桜並木を散策してると、花びらがふわりと一枚、また一枚鼻先にひらひら舞い落ちてくる。そういうのがいいんだよ。今まさに咲き誇っている無数の桜の花の中から、”散る”運命を微かに匂わせるように、一枚の花びらが自分のところに訪れてくる。そしてもう一枚。やがては一斉に散り始める運命の微かな予兆を醸し出している。そこがまさに美しいと思わないか?」 「言われてみれば確かにそうだな。声高な主張よりも、微かに匂わせるという表現を尊重する。まさに日本人的美学という感じだな」 「そりゃ、当然だろう。だって僕は日本人なんだから。君だってそうじゃないか」  北島が少々むきになったので、少し話題を変えてみた。 「うん、勿論そうなんだけどさ。ところで、美学っていうのはそれを鑑賞する側の立場、いわば人間の方からの見方だよね。でも、はらはら散っていく桜の花びらの方も、実は人間並みに全てを認識しているのかもしれない。遠からず一斉に桜吹雪となって散っていく自分、あるいは自分たち……隣りの花弁や、太い枝、年経た大木、さらには長い長い桜並木まで含めて、今咲き誇っている無数の桜の花、それらがやがては散ってしまう運命だということを、その一枚の花びらが全て分かっていてさ。”もう間もなくみんな一斉に散ってしまうんですよ。私達のことを、良く見ておいてください”とか、そんなメッセージを持って自分の手のひらに舞い降りてきたのかもしれない」 「はは、花にも意識や心があるというわけか。君のそういうセンスも、それこそまさに日本人的じゃないか」  穏やかに笑いながらも北島が鋭く指摘してくる。今は著名な文化人類学者である彼は、昔から頭脳明晰な男だった。彼の発する言葉は一つ一つが知的で、整然としていると同時に穏やかで嫌味が無く、話していると非常に豊かな気持ちになってくる。向こうもこちらのそんな気持ちを敏感に察してくれるのだろうか、とにかく昔から妙に馬が合って、長い付き合いが続いてきたのだ。 「君と話してると、いろんな発想を貰えるから面白い。専門外の人の言葉に、大きな気づきを与えられる事はたまにあるんだよね。それが僕の仕事、つまり文化人類学の分野にとっても、貴重なアイディアやコンセプトに結びついたりすることは結構あるんだ。それにしても、君みたいな工学部卒のがちがちの理系人間が、どうしてそう文学的な発想を持てるのか、本当に不思議だ」 「そりゃ、ひどい。それこそ偏見もいいとこだ。寺田寅彦やその弟子の中谷宇吉郎を見てみろ。一流の科学者にして文学者だぞ」  今度はこっちがむきになってしまう。北島はと言うと、相変わらず穏やかな笑いを浮かべて、いつまでも満開の桜を眺めていた。  それがつい二週間ほど前の話だ。もう当地では桜の季節も終わり、みんな葉桜になってしまった今、まずは、僕が心から敬愛する著名な作家のとある短編作品の中にあるフレーズを引用させてもらう。 ”僕は切羽詰まってこの話を発表する”。  北島が自殺したのだ。  著名な文化人類学者の自殺ということで、昨日あたりから、その事実は世間には知られているから、もうご存知の方も多いかもしれない。だが、その死の直前、彼は僕に一通の遺書めいた手紙を投函していたのだ。今日、それは僕の手元に届いた。  それ自体は決して長いものではない。長年の友達付き合いへの感謝、それにも関わらず、何の前触れも無く突然別れを告げることへの謝罪。そして死の直前に満開の桜を一緒に眺めることが出来て幸せだったということを記したうえで、彼はこんな風に締めくくっていた。 「畢竟この僕も”散りゆく一枚の花弁”に過ぎなかったということだろう。君ならこの言葉の意味を、十分に理解してくれると思う。もともとは君の言葉が僕に貴重なヒントを与えてくれたのだから」  北島が、そこにどんなメッセージを込めていたのか。今の僕には、それを考えることがあまりにも怖いのである。 [了]
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