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「兄ちゃんも、あんなふうに優しかったな…」
それから数日の後、我が家の縁側にて。父母が食材を買い出しに市場へと出向き、この日は店も閉めていた。
留守番を任された三鈴は、親子三人分の洗濯をゆっくりと済ませ、更に乾いた着物を畳んでいるうちに、呑気にもうとうとと、居眠りを始めてしまう。夢と現の間にて目蓋の裏に浮かぶは、亡き兄の姿。
思い出す。妹の頭を撫でる時の笑顔。文句を言うときの怒り顔。
そして、死の間際…。
「死にとうない、助けてくれ…」
普段は気丈で弱音を吐かない兄が、熱にうなされうわ言を言う。彼の横たわる寝具の周りには、吐いた血を拭ったハンケチやら布切れだらけ。お兄ちゃん、お兄ちゃん、と呼びながらわんわんと泣く幼き三鈴を、見かねた父が兄から引き離す。
「駄目だ、この病は治らねえ」
表に出ていろと促され、涙で濡れたまま外に佇んでいると、聞こえてくる。肺の病にかかった兄を蔑む声。
「うわ、あの源助の妹じゃ。外に出てるなよ」
「息とめろ、息を。俺らにも移れば大変だ」
近所の悪たれどもが、口を塞ぎながら足早に通りすぎていく。兄の病は近所中に知れ渡り、それまで親切であった人々も手のひら返しで一家を避けるようになる。隔離病院に送れと助言する者もいたが、そのような金もなかった。
そんな時、三鈴は歌うのだ。
成人後、軍に志願しようと夢見ていた、兄の好きな歌。
宮さん 宮さん お馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな?
トコトンヤレ トンヤレナ
いつのまにか、現に戻された三鈴はぼそぼそと口ずさんでいた。
「あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗じゃ 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ」
戦が好きな訳じゃない。けど、長生きして夢を叶えて欲しかったし、何より私の歌声をいつも褒めてくれた兄が聴いてくれている気がするから…。
「トッキ?」
一つ歌い終えると、聞き覚えのある声で、はっきりと意識を戻す羽目になる。縁側にて畳みかけた洗濯物に寄りかかった姿の三鈴。そして横には、先日時間を共にした貴族の青年がいつしか座っていた。
「あ、れ若様、いつの間に?」
「玄関入ろうとしたら、橫の縁側デ寝ていた。体の具合おかシいか」
言いながら、三鈴の額に手を触れる。温かくも冷たくもない手指の感触が、三鈴の額を支配する。
「少シ、熱いか?」
「いえ、風邪っぽくないし、熱は出てないと思います」
とはいえ、なまじ器量の良い男に触れられて平然としている方が、生娘である三鈴には無理な事であった。
「トッキ、何かアッたか?」
何時しか、『トッキ』という単語が三鈴の愛称になっていた。朝鮮語で『うさぎ』の事であり、彼女の雰囲気がかの小動物に見えることと、本名の『みすず』の発音がいささか難しいということで、そのように呼ぶようになっていた。
「いいえ。ただ昔の事を思い出していて」
「倭国にいた頃のか?」
「うん、亡くなった兄さんの事を。労咳で呆気なく逝ったんです」
感染する病が故に、当時住んでいた集落の人間から弾き者にされ、挙げ句に三鈴を遊郭に売ろうとする仲買人に付きまとわれ。最早ここに居場所は無しと、日本の西側から比較的近いこの国へと流れ、心機一転をはかるべく、父が元からの夢でもある和菓子屋を開いた旨を、青年にゆっくりと打ち明けた。彼は黙って頷きながら聞いている。
「労咳はすぐに症状が出ずに、菌が数年も体の中に潜んで、年をとったり体力の落ちた際に一気に暴れまわる事があると聞きました。だから、」
自分たち親子もいつどうなるかわかりません、と苦笑いをしつつも不安な気持ちがあらわとなっていた。
暫しの沈黙。
勢いで己の過去を打ち明けてしまったが、やはり止めるべきだったかな…と俯く三鈴。しかしその不安は無用だったようである。
「でも、今は発病シていないんだろう?なら良いじゃナいか」
三鈴が顔を上げると、満面の笑顔の青年。こうして自分の過去を語ってくれたことが嬉しい、勇気がいることだったろうと笑う。
「いや、私も絶対に大丈夫ダとか、調子の良い事は言えぬ。だがいつカは何らかの病にかかる可能性は誰にデもある。無論私にも」
そっと、三鈴の小さな手を掴む。
白くてか細く、少し力を込めると潰れそうな柔い手。
「今は不治デも、今後は良い薬が出回るやも知れん。少しハ望みを持っても良いんじゃないか」
「若様は、こんな体に爆弾を抱えたような私でも仲良くして下さるのですか?」
「爆弾とか!そんナ風に言うな」
ぎゅう。三鈴を自分の体に思い切り押し付け、包み込む。
「では今ここデ、私諸トも爆破しテくれ」
温かい。広い。青年の腕の中。
全身の血がわきだって、本当に今にも暴発しそうに三鈴の顔が朱に染まる。
そしてふわりと、唇に柔らかい感触。いつしか青年のそれで塞がれていたのだ。どうしよう、門の前は普通に人の通る道がある。拒否出来ない。振り払えない。心地好い。貴方がとても…。
「んん…」
舌が口内に差し込まれる。それでも暫し動けなかった。
「おっと、すまねえ!」
野太い男の声で、はっと我に返る二人。門前にて、先日家に来た軍人、阿波野一等卒と呼ばれた男がばつの悪そうに立ち尽くしている。
「あ、ああ阿波野さん?今日はお、お父ちゃんは…」
慌てて青年から離れ、三鈴はしどろもどろに声をかける。
「本当に悪い、出直すか…って、そうじゃなかった今日は」
阿波野も慌てながらも、用件があるようで何とか言葉にしようとしていた。
「裏の通りに、写真屋があるだろう。あの、何だ、くねくねした親父が店主の」
「ああ、あのおっさんかおばさんか良くわからない…」
「そう!あのおっさんがな、例の件の話を詳しく聞く前に、写真の素材になるような人間を連れてこいとうるさくて。誰でも良いからって事でとりあえず三鈴さん、君とだ…」
「えー、急にどうしてそうなるの?」
ふと、阿波野の視界に綺麗な身なりの青年の姿が入る。朝鮮の両班と呼ばれる貴族であろう男か。なかなか写真映えのしそうな雰囲気だ。
「あの、あんたにもお頼みしたいんだが宜しいか?」
「えぇ!?」
驚愕する三鈴を尻目に青年に駆け寄る阿波野。しかし青年は警戒しているようで、無言のまま訝しげに彼を眺めている。すかさず三鈴が間に入り、事の次第を分かりやすく青年に教えると、納得したようで漸く首を縦に振った。
「ああ良かった。自己紹介、まだだったな。俺は阿波野真作。日本の帝国軍人で、この街に駐在しています。今日は宜しく」
阿波野が丁寧にお辞儀をすると、青年もすんなりとお辞儀を返した。
「私は、オ・ギョヌと申します。この土地の地方官であります。日本語はまだ勉強中です」
懐から紙と筆を取り出し、漢字で名を書いてみせた。
実に達筆である。更には下っ端ながらも軍人の勘なのか。ギョヌの手指は細かい傷が沢山付いており、握りだこも少なからず出来ているのが確認出来た。彼も刀やら武器を沢山扱ってきたのだろう。
俺も剣道や柔術をそこそこ学んできたが、彼ともし剣を交える事があれば、どちらが勝つか?
否、あまり自信がないかな…。
「よっしゃ、とりあえず二人とも行こう」
阿波野に連れられ、二人は家を後にする。ちょっと待って、と三鈴は一度引き返すと、ギョヌに買ってもらった紅色のコッシンに履き替えてきた。
「それ、履きやすイか?」
「はい、とても」
その日は、とても久しぶりの快晴でありました。
第壱章・終
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