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7.生きるということ
降り注ぐ胞子の隙間を縫うように声が落ちた。
「本当はさ、花見しようって言ったあの日、君からIDを奪うつもりだった」
萌は足だけを動かし続ける。学もまた、歩きながら口を動かし続けていた。
「母さんを助けたかった。だから……誰かからIDを奪って母さんを潜り込ませられないか、ずっと探してた。君は……その意味でとても理想的だった。誰とも繋がろうともしていなくてひどく孤独だったから……というか、いつから気づいてた?」
絶対零度の声に耳が凍る。それでもぎしぎしと首を動かし、萌は学の胸元辺りを見つめながら答える。
「抱きしめられたとき、ポケットの中、見えて。あなた、あの日、ナイフを隠し持ってたから。でもあなたは私を殺さなかった」
どうして? と呟いたとき、学が足を止める。こちらを見下ろす気配がある。覚悟を決め彼を見上げる萌を、学は無言で見つめていた。奥が見えない、不透明な眼差しが注がれていた。
見つめ合った時間はどれほどだったか。
唐突に彼の唇がわなないた。零れ落ちた声には、熱に似た痛みが滲んでいた。
「理由なんてわからない。ただ……君が泣くのを見たとたん、できないって思った。この人を殺したくない、と思ってしまった。母さんは死ぬのにね。それなのに。どうしても」
さらさら、と雪のように胞子が降りかかってくる。それを浴びながら学が呻いた。
「自分でも意味わかんないよ。生きるって本当になんなんだろうね」
透明なシールドの中でひらり、と学の頬に涙が伝うのが見え、萌は俯く。
ああ、本当に。生きるってなんなのだろう。
彼が誰かを犠牲にしても救いたいと願った母も、萌を同級生の嫌がらせから全力で守ろうとしてくれた妹も、なにもかもをこの白い大地は飲み込んで沈黙している。
自分たちはそれを踏みつけにしてここに、いる。
そんなにしてまで自分たちはなぜ、生きなければならないのか。
なぜ。
目の前が涙の膜に揺れる。唇を噛んだときだった。ふっと学が息を呑んだ。
「萌」
彼の手がぐい、と萌の腕を掴む。見て、と掠れた声と共に彼がなにかを指さす。
その先を目線で辿り、萌は呼吸を止めた。
暗闇に閉じた世界。うっすらと光を纏う胞子が降るそこに一本の木があった。ソメイヨシノだろうか。当然葉はない。冬枯れた顔でそこにただ佇んでいる。それだけの木だ。
けれど、枝ばかりの木であるはずのそれに、別の色があった。
青ざめた白に覆われた枝の先、薄紅色の花が一輪、咲いていた。
はっきりと、生きて、揺れていた。
なにもないこんな世界に。花開いてもやがて呼吸を止められてしまうのに。それなのに。
生きていてくれた。
気が付いたら両目から涙がとめどなくあふれていた。
学の手が、静かに萌の手を握りしめる。防護服越しで体温なんて感じられるはずがないのに、それでも萌には感じられた。
命が、そこにあることがわかった。
生きるってなんなのか。
わからない。今だってわからない。それでも。
「私、桜、好きだ」
呟いた萌の手が一層強く握りしめられる。
萌と学は互いの手の熱を思いつつ、溶けない雪になぶられながらも空を仰ぐ花を、見つめ続けていた。
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