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1.義務
命の選択をしろと言われて、迷いながらも誰かを選ぶことができる人は、とても幸せな人だと思う。
もらった書類を萌は半分に破る。さらに重ねてもう半分にちぎろうとして、ふっと手が滑った。あ、と声を漏らし、拾い上げようとした萌より先に、白衣に包まれた長い腕が伸ばされる。
「ああ、やっぱり」
落ちてきた声には聞き覚えがあった。
見上げると、声の主は予想通り同じラボで働く千川 学だった。いつも通り涼やかな笑みを唇に刻み、おっとりと問いかけてくる。
「星加さんも申請しないんだ? これ」
「……も?」
彼の手の中で、紙に刻まれた「同伴者申請書」という文字が、萌を恨みがましく見返していた。
「俺もさ、捨てちゃった、これ」
にこっと笑って学はちぎれた申請書を萌の手に戻す。無言で受け取った萌は、学の整った横顔を見上げ、恐る恐る口を開いた。
「千川、くんなら……いるでしょ。一緒に行きたい人。どうして……」
所長から目をかけられていて将来も嘱望されている学は、所内でも人気が高い。すっと背も高く、目元も涼しく、性格も穏やかで、非の打ちどころがない人だ。そんなふうだから彼の周りにはいつだって彼を慕う人がいる。
だから……彼はきっと、自分を囲む誰かを選んで連れていくのだと思っていた。
この星の地の底に。
彼は萌の問いには答えず、ただうっすらと微笑んでから、ついと視線を上げる。
「星加さんってさ、桜、嫌いでしょう」
まったく会話の流れを汲んでいない単語が耳に入り、意表を突かれる。えと、と言葉を探しながら彼の視線の先をたどる。そこには大ぶりの桜の木があった。
昼下がりのとろりと甘い陽光の中、はらり、はらり、と風に花弁が吹き切られ、舞っていた。
「いや、去年、ラボメンバーで花見あったときさ、まったく桜見ようとしてなかったから。まあ、飲み会自体が嫌だったのかな、という気もしたけれど」
「どっちも苦手、ではあるけど」
「桜を苦手なのは、どうして?」
問われて萌は桜から視線を外す。網膜に焼き付いた薄桃色を瞬きで追い払うように一度強く瞳を閉ざしてから、萌は学を見上げた。
「ばっと咲いてばっと散るところが、私を見てって感じがしてうざい」
萌の言葉を聞き、学はしばらく固まる。その彼を見上げながら萌は心の内で付け加える。
あんたっぽい花だから、大嫌いなのよ。
別に彼になにかされたわけではない。彼は誰に対しても穏やかで優しくて、それこそ花のように身も心も美しい人だと感じる。でも、だからこそ、萌は彼が苦手だった。
萌は……昔から負けるということが大嫌いだった。特に笑顔を安売りして上手に渡っていくようなそんな人間に、能力の上で後れを取ることだけは絶対に嫌だった。
なのに、笑顔が素敵な千川学はそんな萌の努力を嘲笑うように軽々と高見へと昇っていく。
そのうえで、容赦なく萌の視線を釘付けにする。
そういうところが……嫌だ。彼も、彼を思わせる花も。
「わかるよ」
だから彼がそう言ったとき、本気で彼を殴りつけたくなった。わかるわけがないのだから。こいつに。
さすがに実際に手を上げはしなかったけれど、顔が歪むのは止められなかった。萌の不機嫌顔を見、学がぷっと噴き出す。
「ああ、もう。なんだろうなあ。そういう顔をさ、普通にしちゃうところがね、ほんといいなって思ってしまう」
「……は?」
ますます顔をしかめる萌を、学がひょいと覗き込んできた。
「ね、星加さん。俺とお花見しない?」
「………………は?」
こいつはなにを言ってるんだろう。
「私、桜、嫌いだって言ったと思うけど」
「うん。でもさ、いいじゃん。どうせ消えちゃうんだよ。この花も。この空も。地上にあるものは全部。君が嫌いだって思ったものは全部なくなっちゃうんだ。だったらその最後の勇姿、見ておく義務はあるんじゃないかな」
「義務? なんで」
「君も俺も生き残る側だから」
彼の声の調子は変わらない。けれどふっと周囲の空気の温度が下がった気がした。
「行こうよ。星加さん」
彼の手がすっと萌の二の腕を掴む。やめてよ、と振り払うことはできた。
でも萌はそうはしなかった。
生き残る側。彼の言葉が萌の体から抵抗する気力を奪い去っていた。
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