5.失われたものを

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5.失われたものを

「萌」  馴染んだ掌の感触は分厚い防護服に覆われていて、感じることができない。けれど、握りしめられた手の力はいつものもので、ねっとりとした闇に飲まれそうになっていた意識をこちらに引き戻してくれる。 「だい、じょうぶ」  やっとのことでそう言うと、学はかすかに頷いて防護服の上から装着したヘッドライトの光量を強める。十年もの間閉ざされ続けた地上への通路が、儚い光に照らされ黒光りした蛇のうろこのように伸びているのが見えた。 「さすがに……ここまで上がって来ると暗いね」  呟いた萌に学は、そうだね、と頷く。 「地上から地下へ移り住んできたころは、太陽に馴染み過ぎていて暗くて仕方ないと思っていたけれど……シェルターの中はよほど快適だと思うよ。今ではどちらが地底なのかわからないとすら思う」 「そうね」  地上から光が失われ十年。慢性的な食糧難。飲料水の不足。やっとの思いで開発した人工光源の不良。度重なる苦難に見舞われ続けた時間。それは、ただ「生きる」がこれほどに難しいことだったかと生き残ったすべての人類に噛みしめさせるのに、充分過ぎる年月だったと思う。  けれど地下の生活において泣き言を口にする者はまれだった。もちろん皆無だったわけではない。けれどもそれぞれに喪失を経験し、地下へと逃れてきた者たちがほとんどのシェルターの中で不平不満を言うことは、暗黙のうちにご法度とされていた。  自分達は恵まれている。  生きている。地上に残された者たちよりもよほど幸せだ。  そう信じなければ、生きていけないから。息をできないから。 「萌、本当に大丈夫か。待っていてもよかったのに」  そう言って学が防護服の透明なシールドの向こうからこちらを見る。心配そうに眉をひそめた彼は、今は萌の夫だ。 「いいの。地上の土壌の中には地下で生育可能な植物の種子がまだ含まれているかもしれない。調査は必要だと思う。それに」 「それに?」  学が柔らかく問い返す。その彼を見上げ、萌は囁いた。 「やっと地上へ上がる許可が出たのだもの。私は、見ておかないといけない。私の代わりに失われたものがどうなったのか」  学はなにも言わなかった。ただ萌の手を握る手に力を込め、再び歩を踏み出し始めた。  地上に出る出口は分厚い鉄の扉で閉ざされている。その最後のロックを解除した学がふと息を呑んだ。  彼の肩ごし、ぽうっとかすかな光が見える。見たものが信じられず、萌は学の手を離し瞠目した。
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