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「もう、わたし卒業なんだよ。早いよね」  三月のはじめのある日、夕日の差し込む合唱部の部室で、星野先輩はそう言った。その可愛らしいボブヘアの髪を揺らして、口元に微笑みを浮かべて。 「そう、ですね」  後輩である私は、早いよね、に対してなんと返していいかわからず、曖昧に頷く。 「なんだよ、古賀ちゃん。そっけないなぁ。せっかく三年の先輩が激励に来てやったのに」  先輩は私の顔を覗き込んで、眉をひそめて見せた。でもその微笑みは消えていなくて、顔をしかめていても全然怒っているようには見えない。 「古賀ちゃん以外の他のみんなは?」 「今日は活動早く終わったので、帰りました」 「古賀ちゃんは?」 「私は鍵閉め当番なので残っていました」 「なるほど。鍵閉め当番か! 懐かしすぎ」  先輩がまた笑う。 「先輩」 「なーに?」 「マスク、やめたんですね」  私はふとそう言った。星野先輩は、慌てたように口元を両手で隠す。 「あ、古賀ちゃんごめん。コロナ心配な人?」  これには私のほうが慌てた。 「あ、いえ。あの、別にそういうわけじゃなくて、単に外したんですねって」 「ぷはー、よかった」  先輩は口をふさいでいた手を下ろし、ニコッと笑う。 「そう、やめたの! やっぱり息苦しくて」  ――もう四年も前になるのか。コロナが世界的に蔓延して、「不要不急」とか「自宅待機」とか「三密を避ける」とかめちゃくちゃ言われて、学校も長い間休校になっていた。  あの空白の時間から、もう四年。  あの時から私たちは、マスクを日常的に付けるようになって、今では無意識的にマスクで顔を隠して生活している。 「マスク……別に嫌なわけじゃないんだけどね、もう慣れたし」  先輩が、頬に手を当てる。 「でも、もうなんかいいのかなって。世間的にもマスク無しの人増えてるし、それに」  星野先輩は少し恥ずかしそうに続けた。 「高校生活の最後くらい、素顔で過ごしてもいいんじゃないかって」 「素顔、ですか」 「だってわたしたち、中三の最初がコロナの諸々でさ、高校生活はもうコロナ禍と共にあったって感じだから」  まだ一度も、マスク無しでクラスの皆で集まるっていうことを経験していないのよね。  先輩はそう言った。  私だってそうだ。  同級生の、ふとマスクを外している姿を見たことはあっても、大抵のクラスメイトのマスクの下の顔を私は知らない。  目とか、前髪の感じとか、髪型とか。そういうので、誰が誰であるか認識している。 「でもさ、慣れって怖いよね」  ふと先輩が呟く。
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