花咲老の戯言

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 僕の暮らす町の外れには、とある植物学者の家がある。  町の人々は彼のことを『花咲老(はなさかろう)』とか『花咲ジジイ』とか呼ぶ。決して彼のことを本名で呼ぶことはなく、だから僕もみんなと同じように『花咲老』と呼ぶ。あるいは単に『ご老体』とも。その花咲老に週一回、手紙を――郵便局に書留された大量の手紙を届けるのが、郵便屋の息子である僕の仕事だった。  立派な樫の一枚扉。僕はガンガンとノッカーを叩き、 「花咲老、いらっしゃいますか?」  返事はない。いつものことだ。重い扉を開けると、いつもと同じように散らかった研究室がある。乱雑に広げられたメモ、何に使うのかよく分からない計器、山積みにされた清浄土の袋。変な液体の入った試験管に、天井からぶら下がったエアプランツ。目を凝らすと、天井の角で大きな蜘蛛が巣を張っていた。 「相変わらず汚いなぁ……」  散らかっている室内の中で、壁際の棚だけは綺麗に整頓されていて、そこにはたくさんの標本瓶が一定間隔で並んでいる。小さな木々の苗から種、球根まで。イチョウ、カラマツ、欅に楓、メタセコイア。つつじに椿、チューリップもある。それらの植物は皆、この世界ではすでに滅んでしまったものだ。  町の皆は気味悪がっているが、この研究室にあふれる神秘さが、僕は少し好きだ。 「花咲老――いや、博士! どちらへいらっしゃいますか⁉︎」  ここでは『博士』と呼ばないと、花咲老は機嫌を損ねてしまうのだ。 「おう、ここだ! ここ、ここ!」  部屋の隅っこで、花咲老は右手を高々と上げた。手にはぐちゃぐちゃになった書類が握られている。よく分からない言語でびっしりと何かが書かれているようだ。 「はい、今週の分、お届けに参りました」  僕はいつも通りに、デスクの上に紙束を置き、伝票を手渡す。「よしよし、あい分かった」と言いながらサインする彼を尻目に、僕はデスクの上の標本瓶に目を奪われた。 「何だ、若いの。それが気になるのかい?」  多分彼にとって、街の若い少年少女はみんな『若いの』だ。 「それは『ソメイヨシノ』という花だ」 「ソメイ、ヨシノ?」 「そう、桜の一種だ」 「これ、桜なんですか?」  そのソメイヨシノなる花は、白くて小さくて、僕の知っている桜とは大きく違った。 「ああ。むしろ我々の世代からすれば、この『ソメイヨシノ』こそ、真の桜というものだ。お前さんの言っている『桜』は『八重桜』のことだろう。あれは散り際が美しくなくて敵わん」  花咲老は伝票を突き返してくる。そして綿の飛び出た椅子にどかりと腰を下ろし、指を舐めながら手紙の吟味を始める。もうこれで用件は終わったのに、僕はどうしてか、ソメイヨシノを前に立ち去れないでいた。 「ん、まだ何か用か?」 「いえ、その」  彼は僕の様子を見て、手紙の束から顔を上げる。彼は手で「そこに座れ」と言い、僕は本と書類の山の上に浅く腰掛けた。何か小さな機械のようなものがミシッと潰れるような音が聞こえた気がする。 「ソメイヨシノという花はな、全て接木――要するにクローンだな。そうやって増えた。人が品種を交配して、人の手で増やしたんだ。自然に生えるもんじゃない。おい、若いの。お前さん、クローンは分かるよな?」 「え、ええ……。細胞が、遺伝子が同じなんですよね?」 「ああ。この世界にある全てのソメイヨシノが、同じ遺伝子を持つクローンだ。だから全て、同じ病気で滅んでしまった。多分、これが最後のソメイヨシノだ」  花咲老は節ばった大きな手で、標本瓶をトントンと叩いた。 「博士はなぜ、ソメイヨシノの再繁殖を?」 「そうだな、特に大きな理由があるわけではないんだが、強いて言うなら『花見』がしたいんだ」 「花見、ですか? あの、花の下で飲食をするやつのことですよね?」 「ああ、そうだとも。満開の桜の下で、親しい仲間たちと酒を飲み、歌い、騒ぐんだ。そしてその席で好きな女の子の肩を抱いて、口説くんだよ」  そう語る花咲老は、今まで一度も見たことがないくらい嬉しそうな顔をしている。酒、歌う、騒ぐ、口説く。彼の目の前のソメイヨシノの可憐な枝と、いささか下品な宴会が、どうしてもうまく結びつかない。 「それはソメイヨシノの下でなくてもよいのでは?」  今の桜の――八重桜の下でもよいのでは?  花咲老は肩をすくめ、 「違う、そうじゃない。バカを言っちゃいかんよ、若いの。『花見』と言えば、ソメイヨシノの下でするものと相場が決まっているんだ」 「そういうものですか」 「ああ、そういうもんだ。……まあ、色々と大変な時代だったからな。ソメイヨシノの再繁殖に成功しても、共に騒ぐ仲間たちはもう、誰も残ってはいないがね」  それから博士は黙って手紙の束を読み始めた。僕は本と書類の山から腰を上げず、時間も忘れてソメイヨシノの枝を見つめ続けた。  目をつむり、想像する。八重桜ではない、白いソメイヨシノの生い茂る野原を。白い花は集まると薄いピンク色の雲のようになり、たくさんの人が、木の下で酒を飲み、騒ぎ、歌っている。そして風がバッと吹いて、白い花びらは吹雪のように舞うのだ。次の瞬間には、若い男が女の肩を抱き、何か愛のようなものを囁いて、静かに笑い合っている。  なるほど、これが本物の『花見』というものか。 「博士」 「あん?」 「今度、みんなで花見をするんです。山向こうの川沿いに、立派な八重桜の並木があるの、ご存知ですか?」 「ああ、知っているよ」 「ソメイヨシノではありませんが、ピンクが鮮やかで、とても綺麗なんです。……あの、先生も、一緒にどうですか?」  花咲老はただでさえ怖い顔を、もっと険しくしている。余計なことを言ってしまっただろうか。後悔しながら目を逸らすと、彼は、 「……そうか、八重桜か」  彼は深く考えているようだった。ややあってから、ぼそっと、 「たまには、そういうのも悪くないな」      ※  忙しなく走っていく若者。樫の扉の遠く向こう、空のバッグを揺らしながら、彼は振り返り、 「いいですか、ご老体。今度の日曜日、約束ですよ。忘れないでください」 「ご老体は余計だ。分かっている」  大きく手を振る彼に向かって、ゆっくりと手を振り返してやる。彼はもう一回手を振って、街への坂を転がるように駆けていく。  若者のいなくなった研究室は静かで、彼が腰掛けていた書類の山からラジオを発掘する。長年、紙束や来客者の尻に押し潰されてきたせいか、心なしか形が歪んでいる気がする。もう何年も使っていないが、電池もアンテナもまだ生きていた。  ダイヤルをひねり、スピーカーに耳をくっつけながら椅子に座る。読み終わった手紙を投げ捨てると、デスクの上のソメイヨシノがこちらを見つめていた。 「なあ、お前さん。今の若いもんはどんな音楽を聴くんだろうな?」  ソメイヨシノは返事をしない。  世の中は変わり、その都度、価値観も変化していく。若者たちにとって、『桜』といえばソメイヨシノではなく八重桜だ。ソメイヨシノの時代はもう、終わったのだ。  知らない俳優、知らないコメディアン。知らない歌手の、聴いたこともない激しい音楽。自分は老いぼれだ。だが、まだ生きているのであれば、変わっていかなければ。しかし、一方でこうも願うのだ。たった一人、自分よりも歳若い誰かが、かつてこの世界に咲き誇っていた、白い桜のことを覚えていてくれれば、と。 「さあ、今の若いもんはどんな酒が好きなんだろうな?」  世界最後のソメイヨシノに話しかけながら、彼らと八重桜の『花見』を心待ちにしている自分に気づき、思わず苦笑してしまった。
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