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月の夜に烏
店を開いたのは、今からちょうど六年前だった。
春の日曜日だったのを覚えている。
高校を卒業後、小さな店で修行をした。技術を叩きこまれ自分の店を持てるまでに十年、さらに回転資金を貯めるのに五年働いた。結局資金が足りず、先に独立した先輩に少し金を借り、繁華街の端に小さな店を持つことが出来た。
自分だけの店。
ひとりでやれるだけの自信も腕も体力もあった。修行していた店での苦労を思えば何でも出来る気がした。
だが、実際そう現実は甘くはない。
どれほど味がよくても、客に愛想をよくしても、店の経営は苦しかった。必死で働き、ようやく三年かけて軌道に乗せることが出来た。そこからは客足が途絶えることはなく、順調だった。だが、順調ゆえに困ったことも出て来たのだ。
ほんのちょっとしたときに、人手が足りないと思うようになった。注文を取ってくれる人が欲しい、調理中の会計を代わってくれる人が欲しい。そういった細かなところに手が行き届かなくなってきた。
毎日一人では回せない。休みなく働くことは命を削っているのと同じだ。
足立はそのときになってはじめて、自分が思うほど若くないことを自覚した。
このままでは駄目だと、初めて人を雇う決意をした。募集をかければ幸いすぐに人は集まったが、雇ったアルバイトは皆、一ヶ月も経たずに辞めてしまった。
何がいけないのか──最近の学生はと愚痴をこぼしても仕方がない。そんなことが三度続き、さすがに面倒になった。次を見つけてもまた辞められたらと思うとうんざりする。面接や作業を教えるのにも労力と時間が必要だ。すぐに辞めてしまうかもしれない人間に、どれだけの力を使えるだろう。
『もういいか』
期待はしない。
それが信条だ。
ずっとそうして生きてきた。
頼られることはあっても頼ることはしない。
信じられるのは自分だけ。もう誰かを雇うことはやめようと思っていた、そんな夏の始めのことだった。
***
入って来た瞬間、綺麗な子だと思った。
初めての客だ。
若い男女。連れている女の子もそれなりに綺麗だが、それとは次元の違う整った顔立ちの彼に、無意識に視線が行った。
「いらっしゃいませ」
へえ、と胸の中で感心する。
そうか、高校生か。
持っていた鞄の校章には見覚えがあった。この近隣では進学校で名の知れたところだ。この姿で勉強も出来るならさぞかしモテるだろう。現に向き合って座る女の子も、この男子高校生しか目に入っていない様子だ。
「かしこまりました」
注文を取りキッチンに戻った。先のオーダーを仕上げ、テーブルに運んでいる間に下準備をしておく。
出来上がったものを彼らのテーブルに運んだ。
「どうぞ」
注文はアイスカフェオレとケーキとコーヒーだ。アイスカフェオレを彼女の前に置こうとしたとき、すっと横から手が伸びて来た。
「それ俺です」
「あ、──ああ」
失礼、と言って足立は彼の前にコースターを置いた。先入観で訊かずに置こうとしていた。
「残りはわたしー」
「はい」
にこにこと笑う女子高生の前にケーキとコーヒーを置き、テーブルを離れた。
カウンターで待っていた客に詫び、会計を始める。別の客に呼ばれ追加のオーダーを取った後、空いたテーブルを片付けた。
片付けながらふと意識が彼らのほうに向いた。美男美女のカップル。隣の席に座る女性のグループも、ちらちらとそれとはなしに彼を気にしている。
大変だな、と思った。
何気なく飲み物を飲む仕草にさえ人を引きつけるのは最早才能だ。
「ねえ、聞いてるのー?」
「聞いてる」
苛立ったような彼女に彼は相槌を打った。だがその横顔にははっきりと退屈だと書かれている。
足立はトレイに汚れた食器を乗せキッチンに戻った。溜まっている洗い物の横にトレイごと置き、鳴り出した電話に出た。
「はい、クー・シーですが──」
やれやれ今日も忙しい。予約の電話を書き留めていたとき、がたん、と大きな音がした。
「何よ! それどういう意味なの!」
「そのまんまだけど」
ざわめく客席を振り向けば、あの女子高校生が立ち上がっていた。大きな音がしたのは、勢いよく椅子を押したからだ。
見下ろす彼女を彼はちらりと見上げ、すぐに目を伏せた。
「信じられない…!」
「…は?」
「なっ、なんでそんな──私だって…!」
「うるせえな」
「──」
「別に、好きでもないだろ」
甲高い声を遮る低い呟きに、店の中の空気がピンと張り詰めた。
まずいな、と足立は急いで通話を終えると、カウンターを出て客席に入った。あちこちから飛んで来る縋るような視線に内心でため息を吐く。
くそ、痴話喧嘩なら他所でやってくれ。
まだ高校生のくせに──こんな店の中で。
「すみませんお客様…」
「なによこの馬鹿っ!」
声を掛けた瞬間、女子高生はテーブルの上のカップを掴んだ。あ、と思ったときにはもう遅く、ばしゃっ、と聞こえたありえない水音に足立は大声を上げそうになった。
目の前の男子高生の髪から茶色い液体が滴っている。
「やっぱりあんた噂通りの奴じゃない! 違うかもって思った私がバカだった! ほんっと最低!」
カップを叩きつけるようにソーサーに戻した彼女は、そう叫ぶと鞄を掴んで出口に向かった。
「ああ、ちょっと…!」
乱暴に閉めたドアにチャイムが激しく鳴る。足立は追いかけようとして、だがやめた。
ドアの前で踵を返し、客席に戻った。しんと水を打ったように静まっていた店内は、さざ波が遠くから聞こえるように、段々と元に戻り始めていた。
「大丈夫ですか」
見事なまでに茶色く染まった制服。ぽたぽたと滴る髪を掻き上げながら、彼は顔を上げた。
表情は淡々としているのに、どこか青褪めているように見えるのは気のせいか。
唇を引き結んで押し黙る彼に、足立は肩を竦めて笑った。
「ま、そんなわけないか」
こっち来て、と足立は顎で示した。綺麗な目が驚いたように丸くなり、はじめて年相応の表情が覘いた。
「え?」
「それじゃ帰れないよ、きみ」
いいからと腕を取って立ち上がらせると、客席を横切りキッチンの奥に連れて行った。
「火傷は?」
「いや…もう冷めてたので」
「そうか」
内心でほっと息を吐いた。不幸中の幸いか。
「とりあえず顔と髪だな」
奥の出入り口の傍にある、普段使っていない大型のシンクを指差した。ここは仕込みの大鍋を洗うときにしか使わない。客席からも見えないからちょうどいいだろう。タオルを仕舞っている棚を開けたとき、ホールから呼ぶ声がした。
「あのう、すみませーん」
「はい、すぐに」
足立は大声で返事をすると、取り出したタオルを男子高生に押し付けた。
ふと、名前を聞いていないことに気付いた。
「あー、名前は?」
「…後藤」
タオルを見下ろして仕方ないように彼は言った。
後藤か。
「じゃあ洗っといて」
足立はそう言い置くと客席に戻った。
ピークの時間だったこともあり、店が落ち着いたのはそれから四十分ほど経ってからだった。キッチンに戻ると、言われた通り顔と髪を洗った後藤が、タオルを手にしたまま、狭いキッチンの中を見渡していた。
「悪いね、忙しくて」
「──いえ」
そう言う後藤の髪はまだ少し濡れていて、足立はもう一枚タオルを出した。
「ドライヤーとかないからさ」
「いやもう…」
「あー、服も濡れてるよな…」
かけられたのが頭だったからか、服は肩と太腿のあたりが変色しているだけでそれほど濡れているわけではない。だが。初夏とはいえ夜はまだ肌寒く、そのまま日の暮れた中を帰せば風邪を引きかねない。
なにより酷い見た目だ。
「あ」
そうだ、と足立は思い出した。
そういえばロッカーにあったはずだ。
「ちょっと、悪いけど何か呼ばれたら返事しといて」
「は?──え?」
「適当に頼むよ」
「え、ちょっ、!」
慌てたような後藤の声を背に、足立は奥のドアを開け、裏にあるスタッフルームに入った。そこは小さな事務用の部屋で、ロッカーと机と椅子とパソコン、その他雑多なものが詰め込まれている場所だ。三つ並んでいるロッカーのひとつを開けると、手を入れて中のものを探った。
ああ、あった。
足立はそれを掴んで引っ張り出すと、ハンガーに掛かっていたものを手に取り、キッチンに戻った。
「大変だったわねえ、ひどい彼女よね」
「もう別れた方がいいわよ」
さっきまでいた場所に後藤はおらず、かわりにカウンターの方から話し声が聞こえた。
そういえば、奥の席に女性の二人連れがいた。会計をしようと、足立がいない間にキッチンに声を掛けたのだろう。
それにしても、と感心したような声が続いた。
「あなた綺麗な顔してるわねえ…、ねえ、私あなたをどこかで見た気がするんだけど」
「気のせいです」
「そう? そうかしら…?」
「あら、わたしも実は──」
「すみません、お待たせしました」
足立がカウンターに出ると、女性ふたりははっとしたように押し黙った。
「お会計ですね。別々になさいますか」
「あ、っはい、はい、そうね」
足立は後藤をさりげなくキッチンのほうに押しやり、彼女たちの前に立った。会計を進めながらちらりと横目で合図を送ると、察しがいいのか、後藤はさっとキッチンの中に姿を消した。
「いつも、ありがとうございます」
ふたりは常連客だった。歳の頃は五十代、いつも長居をして帰って行く。
「い、いえ…こちらこそ」
「また来ますね」
なぜか慌てたような素振りのふたりを見下ろして、足立はにっこりと笑った。
「またどうぞ──いつでも」
ドアを押し開け出て行くふたりを見送った。時計を見ればもう二十時になる。ちょうど誰もいなくなったし、少し早いがもういいかと足立は外の明かりを落とした。
「悪かったな、相手させて──」
キッチンを振り返ってそう言うと、コンロの端に寄りかかっていた後藤が緩く首を振った。
「ちょうどいいから店閉めるよ」
「え?」
「ああ、それ、とりあえず着替え」
看板を仕舞いに行きかけた足立は思い出して作業台の上に置いた服を指差した。後藤がそれを掴んで持ち上げる。
「? これ…?」
「あーバイト用の制服。帰るだけならいいと思って」
「…バイト」
珍しいのか後藤はそれを広げて見ていた。奥で着替えられると言ってから足立は表に出た。いつものように看板を裏返す。路上に置くタイプの看板も開店当初は出していたのだが、繁華街から流れて来た酔っぱらい客に持ち逃げされて以降、新調はしていない。そういうものを置かずとも、客は来るときは来るものだ。
客席の明かりも半分落とし、テーブルを片付ける。洗い物の載ったトレイをカウンターに置いたとき、後藤が顔を出した。
「お、着れたか?」
「まあ…」
へえ、と足立は感心した。
「何着ても似合うもんだな」
バイトを雇うと決めたとき、私服よりも制服があったほうがいいだろうと、知り合いに相談して何着か作っておいたものだ。黒のシャツに黒いズボン、それに白いエプロン。ぴたりとしているよりゆったりとしたほうが誰にでも合うだろうと思い、大きめの作りだった。それを後藤はしっかりと着こなしていた。
さすがだな、と足立は思う。
後藤がちらりとこちらを見た。
「…バイト、いるんですか?」
「あ? ああ、前はね」
ポケットから煙草を取り出しいつものように一本咥え、その感触を楽しんだ。火を点けたいがまだ点けない。これは仕事終わりの楽しみなのだ。
「片付けたら飯食うから、食べて行って」
「え」
「まあ付き合ってよ、おじさんに」
食洗器を開け、汚れた皿を水で流して放り込んでいく。
「…今は」
「ん?」
後藤の呟きに足立は振り向いた。
「今はバイト…いないんですか」
「いないよ」
「……」
何かを考えるように後藤は黙り込んだ。足立は構わずに作業を続け、片付けていく。洗い物を終えて顔を上げると、いつのまにかホールの床を後藤が掃いていた。
「ああ、悪いね」
「いえ」
見かけによらずその手つきは繊細で、慣れていた。
「掃除好きなのか?」
唇に挟んでいた煙草を指で摘まんでどかした。
こくりと後藤は頷いた。
長い前髪が目元に掛かっている。
「そうか」
手際よく掃く音を聞きながら、足立は片づけを再開した。それと並行して鍋を洗い、冷蔵庫から取り出した残り物を調理していく。
そろそろ出来上がるかという頃、後藤がキッチンに戻って来た。
「お疲れさん、ありがとう」
「いえ…」
「もう出来るよ」
座っておいてと客席のテーブルを指差した。ひとりならここで立って食べるのだが、客である彼にそれをさせたくはない。
「ここでいいですけど」
「狭いから。椅子もひとつだし」
休憩用の椅子はひとつしかない。後藤は納得したように客席に向かった。椅子を引く音を聞きながら、足立は料理を皿に盛り、スプーンを付けて持って行く。
「──はい、腹減っただろ。食べて」
座った後藤の前に皿を置き、その向かいに自分の分を置いた。カウンターでグラスにミスを注ぎ、両手に持ってようやく席に着く。
「カレー、嫌いか?」
スプーンを持ったままじっと皿に目を落としている後藤に、足立は訊いた。後藤は首を振り、スプーンでカレーを掬った。
「好きです」
「そう?」
ひと口食べて、その手が止まった。
「……あま」
「俺辛いの食えないから」
「……」
「意外?」
足立もカレーを掬い頬張った。甘くて美味い。やっぱりカレーはこうでないと。
ただ辛いだけのカレーなんて邪道だと足立は本気で思っている。
「意外ってか…、いや」
「なに?」
「あー…」
そこで少し言いにくそうに後藤は言葉を切った。
「なんか、全然顔に合ってないっすね」
「──」
ぐっ、と堪えた足立だったが、次の瞬間には声を上げて笑っていた。あはは、と久しぶりに上げた自分の笑い声がふたりだけの客席に響く。
向かい合って座る後藤は目を丸くしていたが、小さくすいませんと頭を下げた。喉奥で笑いを噛み殺しながら足立は自分の顔を撫でた。
「いや──いいよ、だよな、自分でも分かってる」
昔から嫌というほど言われてきた。
おまえ似合わねえよ、と。
『どのツラ下げてケーキとか食ってんだよ』
『あぁ?』
『てめえはどっちかっつーと焼酎に柿ピーだろうが』
『はあ? なんだてめえは』
くくく、と肩を震わせる。
懐かしい思い出だ。
ちなみに足立は酒も飲めない。完全な下戸だ。
「人ってのは偏見する生き物だからな」
食事を再開していた後藤が顔を上げた。足立は構わずにカレーを掬い口に放り込む。
「見た目ほど信用出来ないものはないよ」
内面と中身は驚くほど一致しない。
自分の思う自分と他人の思う自分は何万里も乖離している。もちろんそうではない人もいるのは分かっているが、そういったジレンマは誰もがきっと抱えているものだ。
足立がそうだったように。
「彼女、なんで怒ってたんだ?」
答えないかと思ったが、訊いてみたかった。後藤はグラスに口を付けあっさりと言った。
「俺が誰とでも寝ると思ってたって」
「──」
「だから気持ち悪いって言っただけ」
「き…」
もっと他に言い方があっただろうに。
まがりなりにも相手は女の子だ。
「彼女なんだろ、もうちょっと…こう、…」
優しくすれば、と言いかけたが、こちらをじっと見る後藤に足立は口を噤んだ。
「別に彼女じゃない」
「そうなの?」
「どうでもいい女だよ」
「……」
「少し前に俺が問題起こしてから、ああいうのが増えた」
「…なるほどね」
食べ終えたカレーの皿にスプーンを置いて、足立は椅子の背に体を預けた。
改めて後藤を見る。
派手な見た目、華やかで人を惹きつける容姿、誰もが羨むような甘い視線。それは何もいい事ばかりとは限らない。問題がどういうものかは知らないが、大体想像がつきそうだ。
「大変だな」
ちらりと足立を上目に見てから、後藤はまたカレーを食べ始めた。その仕草は見た目の綺麗さとは違って豪快で、しっかりと男だ。
きっと本当に大変なんだろう。
足立はパッケージに戻していた煙草を口に咥えた。
「その問題って、…後藤くんが悪いやつ?」
「…──」
空になった皿にスプーンを置き、後藤はふいと目を逸らした。
その視線だけで足立は違うと感じた。
「答えなくてもいいよ」
ただそんな気がしただけだ。根拠はない。
ライターを取り出して火を点けた。ぽっと灯った赤い火を煙草の先端に寄せると、いつものように息を吸う。
肺いっぱいに入れてから、正面を避けて息を吐いた。後藤が顔を顰めた。
「客席で吸うのって…」
「終わってるよな」
分かっているがやめられない事のひとつだ。煙草を咥えたまま足立は立ち上がり、テーブルを片付けた。立とうとする後藤を制して座らせると、ガラスの冷蔵ケースからケーキを取り出した。これは今日売れ残った分だ。
「食う?」
訊くよりも先に皿に取り分けたケーキを後藤の前に置いた。自分の分とふたり分のコーヒーを手に椅子に腰を下ろす。
カップに角砂糖を掴んで適当に放り込んだ。多分三つ。もしかしたら足りないかもしれない。スプーンでぐるりと混ぜ、一口飲んだ。
ああやっぱり、ちょっと足りないかも。
もうひとつ、と角砂糖を摘まんで入れる。
「…入れすぎだろ」
「いや普通だよ」
「糖尿になるぞ」
「望むところだね」
カップに口を付けた後藤が、心底嫌そうな顔をした。テーブルに置くと、砂糖を掴んで放り込み、ミルクを足した。
くすりと足立は笑った。
「コーヒー駄目だったか」
「…苦いのが無理」
ああ、と足立は思い出した。そう言えば後藤が注文したのはアイスカフェオレだった。
「人は見かけによらないな」
「お互い様だろ」
じろりと睨む後藤に、足立は笑った。
「確かに」
死ぬほど甘いコーヒーとケーキを前にした強面の男が言うことではない。
足立は灰皿に煙草を押し付けて消すと、ケーキにフォークを刺した。口に入れてその甘さを噛みしめる。
自然と口角が上がった。
これもやめられない事のひとつだ。誰に何を言われても、これだけは無理だ。
「…美味い」
「俺が作ったからな」
「こういうの…、作れるのすごい」
「誰にでも出来るよ」
ちらりと上目に見る後藤に足立は微笑んだ。
昔から甘いものに目がなかった。
家庭環境が殺伐としていたから、そういうものに憧れもあったのだろう。
甘いものなら何でも食べた。夕飯を買えと貰った金でケーキを買いよく殴られたものだ。
やがて自分で作るようになった。
食べればそれだけで幸せだったのだ。
高校生になり、大人になるよりも先に煙草を吸うことを覚えても、それは変わらなかった。バイトをした金で遊ぶよりも、好きなケーキ屋に通い詰めた。授業をサボり、校舎の裏で好きな本を読みながら隠れて煙草を吸うときも、片手にはシュークリームを握っていた。足立の通っていた高校は男子校で、いわゆる底辺であり、周りにはイキったヤンキーかイカレたヤンキーしかおらず、よく揶揄われていたものだ。
『おまえさあ…似合わねえよ』
『あ?』
『その顔怖えし、シュークリームってなんなんだよ?』
『…あ?』
何も好んでこんな強面に生まれてきたわけではない。
好きなものを好きで何が悪い?
他人に自分を決められたくはない。
嫌そうにしながらも後藤は出されたものを綺麗に食べ終えた。二本目の煙草を燻らせながら、足立はテーブルを片付ける。
ちょうどいい時間だ。
「あ──代金」
立ち上がった後藤が財布を取り出すのを見て、足立は首を振った。
「いいよ」
「いや、迷惑かけたし──飯も」
「ああ、気にするな。たまに誰かと食べたくなるんだよ」
付き合ってくれて助かった、と足立は笑った。
適当な紙袋をカウンターの下から取り出して、足立は後藤に渡した。汚れた制服を入れるには大きすぎるがまあ仕方がない。
「今日は大変だったな」
荷物を纏めた後藤が、ドアの前で振り返る。
なにか言いかけてやめ、じっと足立を見た。
「俺…」
「ん?」
「…この店の名前ってさ…、なんか意味あるの?」
ああ、と足立は紫煙を吐いた。
「妖精たちの番犬」
「は? …番犬?」
「言い伝えだよ、スコットランドの。牛並みに大きいらしい」
体が大きく顔も怖がられることが常だった学生時代、足立はいつも周りの喧嘩に巻き込まれていた。おまえは番犬だと、誰かに揶揄されたこともある。足立自身は喧嘩などどうでもよく、甘いものを食べながら本を読むのが好きだった。だが言うことを聞いておけば邪魔されずに済んだので自ら進んでその役を引き受けたりもした。そんな日々の中、学校の荒れた図書室でひとり本を読み漁っているとき、たまたまこの言葉に出会ったのだ。
Cu Sith=妖精たちの番犬
悪くないと思った。
いつか自分の店を持つのなら、この言葉を店の名前にしたい。
後藤が小さく鼻を鳴らした。
「客を妖精って思ってんの?」
「他に何がある?」
「……」
ドアを押し開け、後藤は出て行った。空には月が浮かび、その青い暗がりを歩く後ろ姿を、足立は見送る。烏のように黒い服、細く伸びる真っ黒な影。
少し冷たい風の中で、足立は煙草の煙を揺らした。
昔、修行していた店で休憩中によく読んでいた女性向けの雑誌。特に読みたかったわけではなく、なんとなくいつも手が伸びていた。その雑誌には毎回のように綺麗な少年が載っていた。
俺も歳を取るわけだ。
あんなに成長してるとは。
後藤という名前が本名なら間違いない。あれから十年余りを経て、まさか本人に会うとは誰が思うだろう。
人の縁とは不思議なものだ。ほんの一瞬すれ違った誰かと、再び人生がこうやって交差する。
たとえそれがたったひと時でも。
「また来いよ」
姿が見えなくなったころ足立はそう呟いていた。無意識に、なぜかまた会えるような気がした。
根拠のない予感に自嘲し、足立は店に戻った。
後藤怜がバイトをしたいと再びクー・シーを訪れたのは、その三日後のことだった。
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