284人が本棚に入れています
本棚に追加
1-8. 狩りは順調あとはどう料理しようか①
【ヨハン王子・アナンナ視点】
「いいだろう、アナンナ」
「やぁん、ヨハンさまったらぁ! アナンナ、聖女なんだから、ダメですよぉ。あぁんっ」
アナンナは胸元をこじあけようとするヨハン王子の片手を笑いながらかわした。
そうしておきながら、いかにも気はありそうな感じで、ぎゅっと抱きつく。
ヨハン王子のもう一方の手はずっと、アナンナの太もものあたりをなでさすっている。
アナンナがガマンしているのは、ヨハン王子を愛しているからではない。彼が宝冠をのせた金貨の箱に見えているからだ。
―― 卒業パーティーのあと。
アナンナとヨハン王子は、お忍び用の馬車で秘密の場所へと向かっていた。
森の奥にあるその館は、本来、狩猟のときに休憩所に使うもの。が、ヨハン王子は現在、館のなかで行う別の狩猟に夢中 ――
アナンナを伴って、しばしば訪れるようになっていたのだ。
「別にいいだろう。ヴェロニカと婚約破棄した今、ボクたちは晴れて恋人どうしじゃないか。聖女が純潔じゃなきゃいけないなんてのは、タテマエにすぎないんだよ? それとも…… ボクの愛をうたがっているのかい?」
「そんなことぉ…… ほら、この前も一緒に、従者をいたぶったじゃないですかぁ。アナンナがそんなヒドイことしちゃったのも、ヨハンさまの愛を信じているからこそですよぉ」
「だったら良いじゃないか…… そういえばあの従者、どうしたんだい?」
「ああんっ、ヨハンさまぁ…… 彼なら、ああっ…… 不埒な真似を働いたとお義父さまに言いつけて、解雇してもらいましたぁ…… お願い、だめよ、アナンナまだ恥ずかしいっ。ぅうんっ」
アナンナの前の従者は、彼女の所業のあれこれを養父であるリスベル子爵に告げた。それがあだとなり、かえって虐待され嘘をつかれ解雇された。
顔を朱に染め 『そんなことしていませんっ』 と身を震わせてみせた養女のほうを、リスベル子爵は簡単に信じたのだ。
たしかに、その目で現場を確かめない限り、アナンナは聖女にふさわしい可憐な少女 ―― 彼女が陰では口に出しては言えないような所業を積んでいるとは、養父のリスベル子爵とて欠片も思えなかったに違いない。
そして前の従者は、アナンナに言い寄ってフラれた腹いせで讒言したことにされ、紹介状もなくクビになったのだ。
(文字通りの斬首でないだけ有難いと思いなさい、とそのときアナンナは嘲笑った)
ちなみに新しい従者はそのことを知っているので、何も言わない方針をとっている。
今も王子づきの騎士と一緒に馬車の外で、ふたりがイチャつく声をたっぷりと聞かされているわけだが…… 精神は見ざる聞かざる、だ。
おそらくは王子づきの騎士のほうもそうだろう。
「それよりぃ、ステラはどう?」
「ステラ? 誰だい?」
「新しく入った娘よ。そろそろ堕ちそう?」
「ああーアレか。彼女には、新しい媚薬を試していてね? 効き目はゆっくりだが、効くとなんでもしてくれるようになるんだ」
くくっとヨハン王子は喉を鳴らした。
秀麗な顔に浮かぶのは、無邪気なまでに楽しそうな笑み。
学園では生徒会長までつとめた、優秀かつ品行方正な第三王子 ―― その真の顔は、弱者をオモチャとしか見ていない人でなしである。
そのことにアナンナはとっくの昔に気づいていた。だからこそ、彼を誘惑するのに効果的な方法として、侍女課の娘たちをひそかに集めたのだ。
「以前の媚薬に比べると、健康被害や精神破壊が少なく、長く遊べる…… もっとも、己がクスリに堕ちていくさまを頑健な精神で眺めるのも、なかなかキツそうだけどね?」
「そこがまたそそるんでしょ?」
「わかってるじゃないか。さすがはボクのアナンナだ」
「ああっ、あんっ…… いけないひと」
「とんでもない。新薬の開発を手助けしているだけだよ、ボクは。人間への投薬レポートは有益なものさ」
「ふふふっ。フォルマ先生の優等生ってワケね? んっ…… あ…… ふぁ!?」
アナンナとヨハン王子の身体が、ふいに浮いた。
投げ出されるような感覚。そして轟音。
「…… いったぁい…… 」
「いったい、どうした?」
気づけばふたりは、地面に全身を打ち付けられ、倒れていた。
周りには馬車の残骸 ―― 馬は驚いて駆け出してしまったのか、馭者ともども、姿が見えない。
「誰か…… 誰かいないのか! 騎士はどうした!?」
「きゃあっ…… 腕が、腕が動かないわ! 脚も! ハンス! ハンスはどうしたの!?」
夕闇にまぎれるようにして、ふたりの視界に幾人もの影が近づく…… そのなかに騎士と従者の姿をみとめ、ヨハン王子とアナンナはほっとした。
「騎士! 早く助けろ!」
「ハンスっ! 早くしなさい!」
くちぐちに叫ぶが、彼らはなぜか、怯えたように立ちすくんでしまった。そのまま、動こうとしない。
「なにをしているんだ、この腰抜けが!」
「うすのろハンス! ボヤボヤしているとお義父さまに言いつけるわよ!?」
焦りと恐れが、ヨハン王子とアナンナを支配する ―― なぜ、誰も助けてくれようとしないのか?
「力で人を支配する者は、力を失ったら終わりなのですわ」
ポキリ、と枯れ枝を踏む音を響かせて現れたそのひとは、完璧に優雅な仕草で首をかしげ、ふたりを見下ろした。
「そうではなくて? 第三王子殿下と聖女さま」
「ヴェロニカ……! おまえ、なぜ生きている!?」
「どういうことなのヨハン王子!? 暗部に命じたから間違いないって言ってたじゃない!」
「テン! あの無能め! …… うううっ」
ヨハン王子は歯ぎしりをしようとして、うめいた。
先ほどから、顔が痛くてたまらなかったのだ。
「きゃあっ化け物!」
ヨハン王子のほうを見たアナンナが、悲鳴をあげる。
ひどく打ちつけ、骨を折りでもしたのだろう ―― 国王から溺愛された母親譲りの美貌は、見る影もなく歪んでいた。
頬がへこみ、鼻はねじ曲がり、目が半分飛び出てぎょろりと見開いている。
「寄らないで、こわい! …… あの、ヴェロニカさんっ! アナンナ、なんにも知らないんですぅ! 今も、ヨハン王子を止めようとしてたところなんですっ! 信じて! 助けてくださぁい! ああ…… 腕が、脚が…… 」
「なにを言ってるんだ、アナンナ! おまえがボクをたぶらかしたせいだろう! ボクは、この女にだまされただけなんだ、ヴェロニカ! 真に愛しているのは、婚約者のキミだけ……!」
―― 馬車が突風にあおられ、人の乗るボックス部分だけが横転したらしい。
いま、アナンナとヨハン王子にわかっている状況は、それだけだった。
いや、もうひとつ、わかっていることがある。
―― ふたりを助けられるのは、暗部に命じて殺したはずのヴェロニカと、そのそばに控えている男たち…… セラフィンとヴェロニカの騎士ザディアス、そして、黒髪黒瞳の小柄な暗部の頭領だけ。
だが ――
彼らにその気があるかということに関しては、絶望的と言わざるを得なかった。
最初のコメントを投稿しよう!