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2-1. 不条理は半分偶然、半分悪意でできている
【ヴェロニカ視点・一人称】
公爵邸についてしばらくは、なかなかに慌ただしかった。
まずこもで簀巻きにしたブツ2つを百年は使われていなかった地下牢に運ばせる。次に、館から救助した少女たちを看護する部屋を確認。
家令の報告によると公爵家の騎士団から十数名がそちらに行き、馬車も2台出しているそうだから、この部屋も早めに埋まるだろう。
家令と侍女長に家のことを含めていくつか指示を出しておく。メアリーを私の専属侍女として雇い入れるのも、そのひとつ。
メアリーは学園を卒業後は王宮に下級メイドとして仕えることが内定していたが、卒業パーティーでヨハン王子を告発してしまったために居づらくなったらしい。
馬車のなかで相談され、私はメアリーを雇うことを即決した。
かわりに私の専属侍女だったドリスは、洗濯メイドに格下げする。
―― 卒業パーティーで嘘をつきこの私を告発しておいて、ただで済むとは思わないことだ。
そしてセラフィンとテン、メアリーとお茶をしつつ地下牢に入れたブツの使用法を説明。賛成してもらったところで、夕食 ――
遅くなったのでセラフィンとテンには泊まっていくよう言ったが、辞退された。
これからする偽装工作などのことを考えると、私たちのつながりはなるべく目立たないようにしたほうがいい ―― そういう配慮だ。
さて。
セラフィンとテンを見送って入浴を済ませ、忙しい1日がやっと終わると、ヴェロニカとしての日課が待っている。
「お母さま…… おかげんは、いかが?」
ヴェロニカは毎日、寝る前に両親に挨拶に行くのだ。幼いころからずっと続く習慣である。
父親のヴィンターコリンズ公爵はほとんど王宮に詰めているため挨拶の機会自体が少ない。
けれど母のローザには、時間をかけてその日あったことを報告する。
―― 母が病で倒れて、やがて手ひとつ動かせなくなり、ただ息をしていることだけが生きている証となったいまも、ずっと。
「お母さま、今日は卒業パーティーでね、とても楽しい出来事がありましたのよ…… 」
今日は普段よりもかなり遅い時間になってしまったが、それでも報告をはしょったりはしない。
なるべく細かく、たくさんのことを。
母のなかに残っているだろう人間らしさに、訴えるように。
母の耳元に小さな声で話しかけながら、私は前世を知らなかったころの、絶望しつつも希望を捨てきれなかった気持ちを思い出す。
―― もうダメだ、いつ亡くなってもおかしくはない。そう直感していながらも、認めようとはしていなかった。
―― いつかまた、返事をしてくれるのではないか。
かつてのように私の名を呼んで、笑いかけてくれるのではないか。
優しい手で、髪をなでてくれるのではないか ――
泣きたくなるのをガマンして、必死にほほえんで母に話しかけていたのはつい数週間前のこと…… なのに、今では遠い昔のように感じる。
希望にすがっても、どうしようもないことばかりなのは明白なのだ。
それでも私は、母のためにできることはすると決めている ――
とつぜん、ガチャ、と扉が開いた。
声ひとつかけずに入ってきた人影は、母に寄り添う私を見てハッと息を呑むと、エプロンのポケットに手をつっこんだ。
「あら、カマラ。どうしてここにきたのですか? あなたは娘のドリスと一緒に、洗濯室に異動になりましたのよ? まだ聞いていませんか?」
「お嬢さま。急に異動など、あんまりでございます。あたしどもが、なにをしたというのでしょうか」
毒々しい黄色の髪と瞳の尻のでかい女は、一瞬ぎろっと私をにらみつけた。
それから顔を伏せ、あわれっぽい声を出す。
―― カマラ・トレイター。私の母の専属侍女で、ドリスの母親。そして、父の愛人。
ドリスは、まだ認知されてはいないが、私の異母妹にあたるのだ。
「あなたの娘はね、カマラ。今日の卒業パーティーで虚偽を述べ、わたくしを陥れようとしましたのよ? 証人はおおぜい、いますわ。それを、わたくしが父に訴えたら…… どうなるのでしょうね?」
ひっ、とカマラが息を呑んだ。驚いた表情。
カマラも、ドリスの裏切りについては知らなかったのかもしれない。
「な、なにぶん、まだ幼い子のすることですから…… なにか勘違いしたのでは。お嬢さまを陥れようなどと、決して決して……!」
「そうね。ですからわたくしも、お父さまに話すのはやめ、ドリスをクビにしましょうと申し出るクロイツさんをなだめて、洗濯室への異動だけに留めましたのよ。わかって?」
「は、はい…… しかし、あたしまでとは、あまりにも…… ずっとローザさまの専属侍女だった、あたしまで……!」
「そうね。あなたはお母さまがここに嫁がれる前から、お母さまに仕えてくれた侍女でしたわね」
「で、では……!」
「そのポケットに入れたものを出して、今すぐにわたくしの目の前で全部のんでみせてくださいな?」
カマラの顔がほっと緩み、その表情から戻らないまま、血の気だけがさあっと引いていく。
その全身は、カタカタと小刻みに震えだしていた。
なるほど、希望はたしかに有用だ。
―― その後に落ちる、絶望の深さを知るために。
「さあ、カマラ、はやく…… 全部のめたら、わたくしが誤っていたことをみとめ、あなたに謝罪し、異動を撤回しましてよ?」
胸をおさえて、あらい呼吸を繰り返すカマラ。
いつまで待ってもポケットの中身をのんでくれそうには、ないな……
私は、つかつかと彼女に歩み寄った。
反射的に逃げようとするカマラを壁際に追い詰め、手と脚で逃げ道をふさぐ ―― 私のほうがカマラより少し背が低いため、さまにならない壁ドンだ。
そのままメイド服のポケットに手をつっこむ。
固いものが、指にあたった。
引っ張りだすと、思ったとおりのものだ。
―― 公爵家の紋章入りの、太い筒状の金属を丸く加工しただけのシンプルかつダサい腕輪。
飾りにみせかけた蓋をずらせば、そこから中に入れているものを簡単に出すことができる ――
「雪の精…… ですね」
カマラが、びくりと全身をひきつらせた。
『雪の精』
ヴィンターコリンズ公爵家で代々、ひそかに製造している毒である。
その名にふさわしい真っ白な粉で、ほのかに甘く、においはほとんどない。
成人ひとりあたりの致死量は1gに満たず、通常は飲み物にまぜて使う。
急性中毒の症状は、幻妄と強烈な痛み、手足のしびれ。
ほかの毒にありがちな嘔吐や下痢といった症状がなく、毒は体内にとどまって神経に作用し、必ず死ぬ。
致死量にみたない、ごくわずかな量を毎日飲ませれば、病気にみせかけて殺すこともできる ――
「盗んだものですか?」
「い、いえ、アーネストさま…… 閣下より、いただいたものでございます」
「そう…… お父さまはこのことは、ご存じないのですね?」
「お、お嬢さま! あたしは、ローザさまに毒を盛ろうとしたわけでは、ございませんし、これまで毒を盛ったことも、ございません! この腕輪は、たまたま、護身のためにといただいたものなので、肌身離さず持っていただけ…… 」
「そのうるさいお口に、いますぐこの中身を振り入れてあげましょうか?」
腕輪の蓋をずらしてカマラの唇に触れさせると、よく動く口は一瞬で貝になった。
固く唇を結んで必死に首を横に振るカマラ。
―― よく、毒を盛ったことがない、などといえたものだ。
母の症状は、館で見た少女たちと同じ。
媚薬と雪の精では毒の種類は、むろん違う。
だがいずれにしろ、普通の暮らしではあり得ないなにものかでなければ、若く健康だった肌や内臓をここまで蝕めはしない ――
これまでヴェロニカが、甘く優しい世界に生きていたいと切望するがゆえに目をそらしてきた事実 ―― それは、今の私には失笑するほど明らかだ。
人間は簡単に、悪魔になれる。
悪をなそうとしてなすのではない。
人の心を持ち、自分はまっとうな人間だと信じながら、だ。
「行きなさい」
私はカマラから身を離し、命じた。
「今後、洗濯室以外であなたとあなたの娘を見かけたら、すぐにこの腕輪の中身を飲ませます。よろしくて?」
カマラはガクガクと何度もうなずき、挨拶も忘れて逃げるように去っていった。
その背を見送り、ゴミ、と小さく吐き捨てる。
こんなものはいつでも掃除できる。だから。
―― 利用できる間は、粛清しないでいておいてあげる。
ふと、母の視線を感じて私は振り返った。
焦点の合わない目から、涙があふれている ―― 目じりのシワにたまったそれを私はそっとふきとった。
吹き出物で覆われたひたいに普段どおり、キスを落とす ―― 昔、母がしてくれたように。
そろそろ就寝時間だ。
私は立ち上がって、母の点滴を、強力な睡眠・鎮痛作用のある薬剤入りのものに替えた。
「お母さま、おやすみなさい」
―― おやすみなさい、おやすみなさい、おやすみなさい、小さな天使
どんな夢を見るでしょう?
砂糖にはちみつ、ミルクたっぷり、甘くて優しい夢かしら?
あなたの夢を神さまが、お守りくださいますように
おやすみなさい、おやすみなさい、おやすみなさい、わたしの宝 ――
ヴェロニカとしての記憶のなかに残る子守り歌をなんとなく反すうしながら、私は母の部屋をあとにした。
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