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 ヴェズの王都に向かう西街道から、少しはずれた長細い丘陵ぞいに、チュスク村はあった。耕地の中に同じような三角屋根の家々が点在するのどかな田舎の村だ。  丘の斜面の果樹園では、林檎の白い花が咲きほこり、小さな花びらを舞い落としていた。花の香をまとった風は丘を下り、麦畑を濃淡の緑色に波打たせた。  大気は、さわやかな初夏の光に充ちていた。  こんなにもいい季節に、レムはまた、かけがえのないものを失ってしまったのだ。  レムは、ぼんやりと〈穴〉に近づいた。  〈穴〉はほぼ円形で、直径十間ほどの大きなものだった。ぽっかりと地面に開いている。  どれほど深さがあるのか、そもそも深さなどあるのかどうかもわからない。  縁から下はいっさいの光を受け付けず、黒々とした闇をたたえていた。石や草木を投げ入れると、それは音もなく闇に吸い込まれ、消えてしまうのだ。  まわりの草地には白詰草が群生し、他の野草も青や黄の小さな花を咲かせていた。けれど花を渡る蝶々や羽虫は、決して近づかない暗黒の〈穴〉。  はじめてこれを目にした時のことを思い出す。  レムは七つだった。  日暮れ近く、レムはいつものように遊び仲間と別れて家路についた。東の森に続く道の先にあるのは、レムの家だけだ。  レムは小走りだった。父さんは畑仕事を終えて帰っているだろうし、母さんは足下に小さな妹をまといつかせながら夕飯の支度をしているだろう。すぐ下の妹のモンナが、庭先で自分を待っているに違いない。両手を腰にあてて、頬を膨らませて。 「もう! お兄ちゃんたら、遅いわよ」  だが、道はすっぱりととぎれていた。  家も庭も、家畜小屋もなかった。  かわりに、大きな穴が穿たれていた。  レムは立ち尽くし、目をこすった。  何が起きたのか理解出来なかった。  ついで、はっとして両親や二人の妹たちの名を呼んだ。泣き、叫び、穴の周囲を駆け回った。  どこからも返事はなかった。ただあるのは自分の家をすっぽりと呑み込んだ黒い穴ばかり。  あたりはまだ黄昏の光が残っているというのに、穴の縁から下は何も見えなかった。深い影が落ちている。  いや、影と言うよりも闇、闇と言うよりも無。  レムはぞくりとして後ずさった。悲鳴をあげて、村の大人たちを呼びに行った。 「われわれは〈アンシュの呪い〉と呼んでいる」  トルグが説明してくれた。 「突然現れる。徐々に大きくなっていくものもあれば、移動するもの、出来た時と同様に忽然と消えてしまうものもある」 「父さんや母さんや、妹たちはどこに行ったの?」 「わからない」  トルグはレムの頭に手をのせた。レムの鳶色のくせ毛に指を入れ、優しく掻き上げてくれた。 「魔法使いのくせに」 「ごめんよ」  トルグは、レムの父と同じ年頃だった。灰色の髪と穏やかな茶色い目。小柄な身体を、魔法使いがよく着る藍色の寛衣で覆っている。チュスク村に〈穴〉が出現したとの報告を受けて、アイン・オソから派遣されたのだ。  アイン・オソは、ヴェズの東を流れるアイン河の中州にある。ヴェズの全魔法使いを統べる大学校だ。〈穴〉とは、もともと関わりがあるのだと、後になって少しづつトルグが教えてくれた。  その昔、まだヴェズは王国となっておらず、領主たちが領土を広げるためにあちこちで戦いを繰り返していた。戦いを有利にするため、領主たちは異能の人間を捜し出した。後に魔法使いと言われる者たちだ。戦いは、やがて魔法使い同士の戦いになった。凄まじい魔力が至る所で交錯した。  このままでは世界が崩壊しかねない。そう悟った魔法使いたちは不戦同盟を結んだ。しかしアンシュだけが拒んだ。彼は最も力ある魔法使いで、すべてを支配しようとしていたのだ。  魔法使いたちはアンシュと戦い、ついに滅ぼした。さらに凄まじく放たれた魔力は、空間を穿つほどだった。 「〈穴〉はその時に出来た空間のほころびらしい」  トルグは言った。 「アンシュのような者が二度と現れぬよう、魔法使いたちはアイン・オソを作った。四百年くらい前のことだ。自らを律し、次代の魔法使いを教育するために」  〈穴〉が現れると魔法使いはその近くに居をかまえる。新たな被害が起きないように〈穴〉を監視する。  村人たちは〈穴〉の近くにトルグの家を建てた。魔法使いは人々の怪我や病気を治したり、害獣を追い払ったり、天気をも左右できた。チュスクの近在にはこれまで魔法使いはおらず、一家族が消えてしまうと言う大きな悲劇はあったものの、魔法使いの存在はありがたかった。  トルグは、身寄りのないレムの面倒をみようと言ってくれた。一人前になるまで、一緒に暮らせばいいと。  レムは懐かしい家があった場所──今は虚無をたたえた〈穴〉のかたわらに住むことになった。〈穴〉を目にするのは辛かったが、〈穴〉は変化もするという。いつかそれが消え、また家族が戻ってくることもあるかもしれない。  トルグは優しかった。はじめの日々、レムが悲しみに寝つかれず、寝台ですすり泣いていると、よく枕辺に来て静かに背中を撫でてくれた。そうすると苦しい胸の痛みがとれ、いつのまにかレムは眠ってしまう。なにかの魔法だったのか、それともトルグが側にいるという安心感からだったのか、今もってレムはわからない。  トルグは村の子供たちに読み書きを教えてくれた。ある程度のことを覚えると満足して、子供たちは次々に入れ替わったが、レムにだけは書法や文法を丁寧に教え込んだ。 「技術や知識は、持っていて損はないからね」  トルグは言った。 「農地がなくとも食べていける。きみのお父さんの土地は村の人たちが管理してくれているが、大きくなったら、もっと広い世の中を見るのも悪くない。町に出て学問を積めば、世界はどんどん広がっていくよ」  レムも本を読んだり、字を書いたりするのが好きだった。トルグがくれた蜜蝋塗りの書写板に、お手本の文字を書き連ねた。簡単な本を借りて、声に出して読んでみた。トルグに褒めてもらえるのが嬉しかった。  六年過ぎた。  〈穴〉に変化はなかった。  変化がおきたのは、魔法使いの方だった。  春先から、トルグは急に痩せてきた。もともと小柄で肉の少ない人が、さらに小さく骨張ってきた。レムや村人たちが心配しているうちに、トルグは床についた。 「魔法使いなんだから」  涙声でレムは言った。 「自分の病気を治してよ」 「だめなんだ、レム」  トルグは弱々しく微笑んだ。 「魔法使いは自分のためには魔法を使えない」 「村長さんに城市の魔法使いを呼んでもらう」 「ほかの仲間の手を煩わすことはない。間に合わないよ」 「そんな──」 「楽しかったよ、レム。きみの成長を見るのは喜びだった」  トルグは死んだ。  今朝早く、丘の下の共同墓地に葬られた。  レムはふるえるようなため息をつき、〈穴〉の縁に立った。トルグが生きていた時には結界が張ってあったので、こんなにも近くには寄れなかったのだ。  深い、深すぎる闇だ。これ以上の暗さはあるだろうか。見ているうちに、そのまま引き込まれてしまいそうになる。  落ちたらどうなるのだろう。無に溶け込むだけなのか。この悲しみも、消えて無くなるのか。  レムは、はっと顔を上げた。トルグはそんなことを望んではいない。トルグが望んだのは、レムが一人前になって生きていくことだった。  レムは肩を落とし、トルグのいない家に帰った。
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